EP 19
月夜の誓い(ヒロイン覚醒)
出陣の前夜。
ポポロ村は、嵐の前の静けさに包まれていた。
明日、タイガ将軍率いる『疾風師団』2000名は、地球の物流システム(リヤカーと缶詰)という翼を得て、獣王国首都への強行軍を開始する。
兵士たちは十分な栄養と休息を取り、静かに闘志を燃やしながら眠りについていた。
俺は村長宅の縁側に座り、【黒革の手帖】を開いて最終確認を行っていた。
予算の残高、バロスを通じた帝国側の牽制状況、ゴルド商会の流通ルート確保。
盤石だ。俺の描いた絵図面に、狂いはない。
「……ふぅ」
一息ついた時、ふと視界の端に銀色の髪が揺れたのが見えた。
村はずれの小高い丘。月見大根の畑を見下ろす場所に、キャルルが一人で立っていた。
空には、見事な満月が浮かんでいる。
月兎族である彼女のプラチナブロンドが、月光を吸い込んで淡く発光しているように見えた。
だが、その背中はひどく小さく、震えているようにも見えた。
俺は手帖のペンを取り、さらさらと文字を書いた。
『ホットココア(マシュマロ入り)×2』
紙コップに入った温かい液体を受け取り、俺は彼女の元へ歩み寄った。
「……眠れませんか、村長」
「あ……若林のおじさん」
キャルルが振り返る。その紅い瞳には、不安の影が落ちていた。
俺は無言で、紙コップを一つ手渡した。
「温かいですよ。甘いものを飲むと、少し落ち着きます」
「……ありがとう」
キャルルは両手でコップを包み込み、一口飲んで小さく息を吐いた。
「おじさん。……いよいよ、明日だね」
「ええ。タイガ将軍の軍は完璧に仕上がっています。王都の制圧は、数日で終わるでしょう」
俺の言葉に、キャルルは俯いた。
「私ね、怖いんだ」
彼女の兎耳が、力なく垂れ下がる。
「今まで、村を守るために必死に戦ってきた。でも、今回は違う。……私たちが支援して、タイガ将軍が王都を攻める。それって、国に対する『反逆』だよね」
月兎族は、獣王国の中でも争いを好まない穏やかな種族だ。
彼女の倫理観が、クーデターの片棒を担ぐことに警鐘を鳴らしているのだ。
もし失敗すれば、村人全員が反逆者として処刑される。その重圧が、二十歳そこそこの少女の両肩にのしかかっている。
「……私は、村のみんなを危険に晒している悪い村長なのかな。自分の国を裏切って……」
ポツリとこぼれた弱音。
だが、俺は秘書としての冷徹な顔を崩さなかった。
「キャルルさん。政治の世界に、『絶対の善』も『絶対の悪』もありません」
俺は夜空の満月を見上げた。
「あるのは、**『誰が一番、民に飯を食わせられるか』**という結果だけです」
「……え?」
「現国王のレグルスは、確かに正当な王かもしれない。しかし、彼は辺境の村を見捨て、前線の兵士を飢えさせた。……民を飢えさせる王は、その時点で玉座に座る資格を失っているんです」
俺はキャルルに向き直り、その肩に手を置いた。
「あなたは裏切るんじゃない。見捨てるんです。機能不全を起こした古いシステムをね。そして、タイガという新しいシステムに『投資』した。……すべては、このポポロ村の民を、二度と飢えさせないために」
キャルルがハッと顔を上げた。
「私が……投資……」
「ええ。あなたはもう、辺境の哀れな村長ではない。次期国王の最大の後援者であり、新しい国造りの立役者です」
俺は少し意地悪く微笑んだ。
「それに、タイガ将軍も馬鹿じゃない。彼が王になった後、もし道を違えるようなことがあれば……我々が彼への『食料供給』を止めればいいだけです。彼の命綱(胃袋)は、あなたが握っているんですよ」
「あ……」
キャルルの瞳から、不安の影がスッと消え去った。
代わりに宿ったのは、月光のように静かで、力強い光だ。
「……そっか。そうだよね。私たちは、ただ守られるだけの弱者じゃない」
彼女はココアを一気に飲み干すと、コップを握り潰した。
そして、俺に向かって真っ直ぐに手を差し出した。
「おじさん。私、決めたよ」
「何をですか?」
「私、ただの『村長』はやめる。……おじさんが創る新しい世界で、おじさんの隣に立てるくらい、強い『女王』みたいな存在になる」
その瞬間、キャルルの足元から、淡い紫色の魔力光が立ち昇った。
満月の光を浴びた月兎族の力。
だが、それは以前の荒々しい「暴力」のオーラではない。もっと気高く、洗練された、支配者のオーラだ。
タイガとの訓練を経て、彼女の精神と肉体が完全に噛み合った証拠だった。
「だから……私を、おじさんの『一番の剣』にしてね。誰が敵に回っても、私が全部ぶっ飛ばしてあげるから!」
ニッと笑うその顔は、最高に頼もしくて、愛らしかった。
最強の武力と、確固たる覚悟。
これでもう、この少女が迷うことはないだろう。
「……ええ、頼りにしていますよ、キャルルさん」
俺はその小さな、けれど鋼のように強い手を取った。
冷たい夜風が吹き抜けるが、二人の間には確かな熱があった。
***
そして、夜が明けた。
「全軍、出発ッ!!」
タイガ将軍の大音声が響き渡る。
リヤカーを引き、缶詰を腰に下げた2000の獣人兵士たちが、地鳴りのような足音を立てて王都へと進軍を開始した。
その顔には、一抹の不安もない。
彼らは自分たちが無敵であることを確信しているのだ。
「勝ってこい、次期国王」
俺が声をかけると、タイガは戦象の上からニヤリと笑って親指を立てた。
「安心しろ! 満月の夜に、王宮の玉座でその『ウイスキー』を飲んでやる!」
砂煙を上げて去っていく軍勢を見送りながら、ニャングルが呆れたように言った。
「……ほんまに行きよったで。一週間前まで飢え死に寸前やった連中が、あんな面構えになるんやな」
「兵站と、大義名分。その二つがあれば、軍隊は化けますから」
俺はネクタイを締め直し、村長宅へ戻ろうと踵を返した。
これで、仕込みは完全に終わった。
数日後には王都陥落の報が届き、ポポロ村は不可侵の聖域として認定されるだろう。
だが――。
「ん……?」
キャルルの兎耳が、再びピクリと動いた。
彼女の視線は、去りゆく軍勢ではなく、村の入り口にある『酒場』へ向けられていた。
「どうした、キャルル?」
モウラが尋ねる。
「……変なお客さんが、来てる」
俺もそちらを見た。
白昼のポポロ村。活気に満ちたその場所に、全く不釣り合いな影が一つ、揺れていた。
真っ黒な、漆黒のスーツを着た男。
青白い肌に、血のように赤い唇。
そして、その背中には、隠しきれないコウモリのような『小さな翼』が生えていた。
「ここかい? 美味い酒と……面白い『人間』がいるって噂の村は」
男の声は、鼓膜ではなく、直接脳内に響いた。
俺の胸ポケットで、【黒革の手帖】がかつてないほどの熱を発した。
火傷しそうなほどの熱。
それは、対象が「規格外の存在」であることを示す警告だった。
(……魔族、か)
帝国。獣王国。
そして、この世界でもう一つの巨大な勢力。
ルチアナが言っていた「三すくみ」の最後の一角が、ついにポポロ村に現れたのだ。
「……いらっしゃいませ。お客様」
俺は営業用のスマイルを顔に貼り付け、得体の知れない客へと歩み寄った。
権力者を跪かせた元秘書の前に現れたのは、魔王軍の幹部か、それとも――。
舞台はさらに混沌の度合いを深めていく。




