第2話:静かなる戦略分析
あの屈辱的な夜から一夜明け、日曜日の朝の光がリビングに差し込んでいた。隣でまだ健やかな寝息を立てている悠斗の横顔を見つめながら、私の心は不思議なほど静まり返っていた。昨日までの、ただ耐え忍ぶだけの重苦しい気持ちは嘘のように消え去り、代わりに氷のように冷たく、そして鋼のように硬い決意が胸の内を占めている。
料理対決。その言葉を思い出すと、もはや屈辱ではなく、闘志が湧き上がってくるのを感じた。上等じゃないか。あなたたちが私に貼り付けた「料理下手な嫁」というレッテルを、私自身の手で、完膚なきまでに剥がし取ってやる。
ゆっくりとベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。いつもと同じ我が家のキッチン。でも、今日の私には、まるで戦いの前の武将が武器を検める場のように、神聖な空間に見えた。コーヒーを淹れながら、私は思考を巡らせる。敵は、義母・佳代子。テーマは、肉じゃが。そして、審判は、夫の悠斗。勝敗を分けるのは、彼の「うまい」という一言だ。
「おはよう、美咲。早いね」
リビングのソファでコーヒーを飲んでいると、寝ぼけ眼の悠斗が起きてきた。私の隣にどさりと座り、大きなあくびをする。
「昨日はごめんな。母さんたち、本当にひどかったよな」
ようやく事の重大さに気づいたのか、申し訳なさそうな顔で私を覗き込んでくる。
「俺、ちゃんと言っておくよ。あんなの、いじめみたいだって。美咲を傷つけるのはやめてくれって」
「……いいのよ」
「でも……」
「今さら言っても、きっと変わらないわ。それに、もう勝負は始まってるんだから」
私の静かな声に、悠斗は少し驚いたように目を見開いた。
私はカップをテーブルに置き、彼の目をまっすぐに見つめた。まずは情報収集だ。今回のプロジェクトにおける最重要ターゲット、顧客である橘悠斗のニーズを正確に把握しなくてはならない。
「ねえ、悠斗。ちょっと聞きたいんだけど」
「ん? なに?」
「私の料理で、一番好きなものって何かな?」
直球の質問に、悠斗は「えっ」と少し考え込む素振りを見せた。彼の口からどんな料理名が飛び出すだろうか。唐揚げ? ハンバーグ? それとも、私が密かに自信を持っていた出汁の効いたお吸い物? 期待と不安が入り混じった気持ちで、彼の答えを待つ。
「うーん、そうだなあ……美咲の作るカレーは好きだよ。あと、生姜焼きも」
「そう。他には?」
「他には……。でも、やっぱりさ、母さんの肉じゃがは別格だからなあ」
来た。その言葉だ。私の胸に、ずしりと重いものが沈み込む。別格。それはつまり、私の料理はすべて、その「別格」の領域には到底及ばない、二軍の選手だと言われているのと同じだった。彼の味覚の頂点には、常に義母の味が君臨しているのだ。
「あの甘辛い味がさ、たまらなく好きなんだよ。子供の頃からずっと食べてきた味だからかな。あれを食べると、ああ、実家に帰ってきたなあって思うんだ」
ノスタルジー。思い出補正。それは、どんな名店のシェフでも太刀打ちできない、最強の調味料だ。このまやかしの壁を、私はどうやって突き崩せばいいのだろう。一瞬、心がくじけそうになる。
「だからさ、美咲も無理しなくていいんだよ。対決なんて言ってたけど、母さんに『ごめんなさい、やっぱり教えてください』って言えば、きっと機嫌直してくれるって」
悠斗のその言葉に、私の心に再燃しかけていた小さな炎が、再び勢いを増した。ああ、だめだ。この人は、根本的に何も理解していない。私が何に怒り、何のために戦おうとしているのか。彼は、私がただ「料理下手を克服したい」だけだと思っている。私のプライドや尊厳の問題だとは、微塵も考えていないのだ。
落胆が、一周回って冷静な分析力に火をつけた。そうだ、私はマーケターだった。顧客が口にする「ウォンツ(Wants)」と、その心の奥底にある「ニーズ(Needs)」は、必ずしも一致しない。悠斗が口にする「母さんの甘辛い肉じゃがが好き」というのは、あくまで表面的なウォンツに過ぎないのではないか? 彼自身も気づいていない、本当の味覚の好み、すなわちインサイトが、どこかに隠されているはずだ。
「そうね。ありがとう、悠斗」
私はにっこりと微笑んで、その場をやり過ごした。悠斗は安心したように頷き、テレビのリモコンを手に取る。その横顔を見ながら、私は頭の中で、静かに「プロジェクト・橘悠斗の胃袋攻略」の企画書を組み立て始めていた。
ターゲット:橘悠斗(30歳・男性)
課題:競合製品「おふくろの味」への強いブランドロイヤリティ。ノスタルジーという付加価値により、競合の評価が著しく偏っている。
ゴール:自社製品「美咲の肉じゃが」が、競合製品を上回る評価を獲得し、ターゲットの第一想起ブランドとなること。
まずは、徹底的な顧客データの収集と分析からだ。私は書斎へ向かい、パソコンを立ち上げた。結婚してからの二年間の、あらゆるデータを洗い出す。家計簿アプリの食費の項目、写真フォルダに溜まった外食の記録、グルメサイトのブックマーク、SNSの過去の投稿。そこには、無意識の「橘悠斗」が溢れていた。
「この店の出汁巻き卵、ふわふわで最高だったな。出汁がじゅわって出てくるのがいい」
去年の箱根旅行で、老舗旅館の朝食を食べた時の写真に、そんなコメントが添えられていた。
「今日のランチ、会社の近くの和食屋で食べた焼き魚定食。皮がパリパリで、身はふっくら。塩加減が絶妙すぎる」
これは、彼が会社の同僚と行ったランチの投稿だ。
「記念日に連れて行ってもらったフレンチ。メインの鴨肉のロースト、火入れが完璧で感動した。ソースも美味しかったけど、何より肉自体の味が濃くて……」
私の誕生日に行ったレストランの投稿には、そんな言葉が熱っぽく綴られている。
データを集め、分類し、分析していく。浮かび上がってきたキーワードは、「出汁」「素材の味」「香ばしさ」「絶妙な火入れ」「丁寧な仕事」。彼が本当に感動しているのは、佳代子さんの作るような砂糖と醤油で塗り固められた「濃い味」ではない。むしろ、素材そのものが持つ繊細な旨味や香り、そしてそれを引き出すための丁寧な調理法に対して、彼は無意識に高い評価を与えているのだ。
分かってきた。彼が「母さんの味が好き」と言うのは、味そのものへの評価というより、「母の愛情」や「古き良き家庭の象徴」といった、料理を取り巻くストーリーに対する評価なのだ。それは一種のブランド信仰に近い。しかし、彼の舌、つまり味覚というセンサーそのものは、もっと正直で、もっと繊細なものを求めている。彼は「おふくろの味」という物語を愛しているが、彼の胃袋が本当に求めているのは、物語ではなく、本質的な「美味しさ」なのだ。
確信が、身体の芯から湧き上がってくる。私が作るべき肉じゃがの方向性が見えた。佳代子さんの土俵で、甘さやしょっぱさの濃度を競うのではない。まったく別の次元で、素材のポテンシャルを最大限に引き出した、「引き算の美学」で勝負するのだ。
その時、本棚の隅で埃をかぶっていた一冊の古いノートが目に留まった。祖母が遺してくれた、手書きのレシピ帳だ。私が料理を好きになるきっかけをくれた、大切な祖母。その表紙をそっと撫でる。祖母はいつも言っていた。
「美咲。料理はね、引き算だよ。美味しいお野菜、美味しいお肉があれば、余計なものは何もいらない。素材の声を聞いて、その子が一番喜ぶ方法で調理してあげるんだよ」
ページをめくると、そこには達筆な文字で、出汁の取り方、野菜の面取りの重要性、煮物の火加減などが、細かく丁寧に書き記されていた。そして、「肉じゃが」のページには、こんな一文が添えられていた。
『肉は香ばしく焼いて旨味を閉じ込めること。じゃがいもは煮崩れさせず、出汁の味をゆっくりと含ませること。主役は野菜たち。お肉と出汁は、その舞台を輝かせるための名脇役なり』
これだ。これこそが、私が作るべき「究極の肉じゃが」の設計図だ。祖母の教えと、私のマーケティング分析が、ここで完全に一つになった。目指すべきゴールが、くっきりと像を結ぶ。全身の血が沸き立つような、強い興奮を覚えた。
その時だった。リビングから私のスマホの着信音が鳴り響いた。画面に表示されたのは「橘佳代子」の文字。義母からだった。
「もしもし、美咲です」
「あら、美咲さん。おはよう。昨日はご馳走様」
電話の向こうから聞こえる声は、上機嫌そのものだった。
「いえ、こちらこそご馳走様でした」
「それでね、対決のことなんだけど」
本題はすぐだった。
「悠斗はね、とにかく甘くてこってりした味が好きなのよ。お砂糖もお醤油も、思い切ってたっぷり使わないとダメ。それから、お肉は安い豚バラで十分。その方が脂が出て、コクが出るから。分かった?」
それはアドバイスの形をとった、巧妙な牽制球だった。私が彼女の土俵、つまり「いかに甘辛くこってりさせるか」という基準でしか物事を考えられないように、思考の枠をはめようとしているのだ。もし私がこの言葉を鵜呑みにすれば、佳代子さんの劣化コピーのような肉じゃがしか作れず、結果は火を見るより明らかだろう。
「……はい。ご親切にありがとうございます、お義母さん」
私は、あえて素直に礼を言った。
「分かればいいのよ。まあ、頑張りなさいな。せいぜい悠斗をがっかりさせないようにね」
勝ち誇ったような声で一方的に電話は切れた。私はスマホをテーブルに置き、ふっと息を吐いた。ありがとう、お義母さん。あなたのその一言で、私の分析が正しかったという確信が持てました。
さあ、レシピを構築しよう。
まず、出汁。基本の昆布と鰹節に、鶏ガラを少し加えて、味に奥行きと深みを出す。
次に、肉。悠斗が感動していた「肉自体の味が濃い」という言葉を信じる。安価な豚バラではなく、少し奮発して、質の良い和牛の切り落としを使おう。そして、煮込む前にフライパンで表面をさっと焼き付け、香ばしい焼き色と香りをプラスする。これが祖母の言う「旨味を閉じ込める」工程だ。
野菜。主役であるじゃがいもは、煮崩れしにくいメークイン。丁寧に面取りをして、荷崩れを防ぐだけでなく、味を均一に染み込ませる。人参も同様に。玉ねぎは、甘みを最大限に引き出すため、じっくりと飴色になるまで炒める。
そして、味付け。砂糖と醤油は、素材の味を殺さないぎりぎりの量に抑える。代わりに、本みりんの上品な甘さと、炒めた玉ねぎの自然な甘さを活かす。
頭の中で、完成までの工程が映画のワンシーンのように流れていく。これはもう、ただの料理ではない。私の知識と技術、そして想いのすべてを注ぎ込んだ、一つの作品作りだ。
その日の午後、私は早速、試作に取り掛かった。キッチンに立ち、無心で野菜の皮を剥き、面取りをする。シュッ、シュッ、とリズミカルに包丁を動かす時間は、瞑想にも似た心地よさがあった。
「美咲、何してるの?」
リビングでテレビを見ていた悠斗が、ひょっこりと顔を出す。
「ああ、ちょっと……考え事」
「ふーん。なんか、すごい集中してる顔してるけど。そんなに頑張らなくていいのに。母さんに勝とうなんて、無理なんだからさ」
彼は笑いながらそう言った。以前の私なら、その言葉に深く傷ついていただろう。でも、今の私には、その言葉はもはや雑音にしか聞こえなかった。
「そうね」
私は悠斗の方を振り返らず、黄金色に輝く一番出汁を濾しながら、静かに答えた。私の目は、鍋の向こうにある勝利だけを見据えている。知的好奇心と闘志が混じり合った、熱い何かが、私の全身を駆け巡っていた。
無理かどうかは、あなたが決めることじゃない。あなたの舌が、あなたの胃袋が、決めることよ。
私の静かなる逆襲の準備は、着々と、そして完璧に進んでいた。




