紅葉おろしで救われた若侍
挿絵の画像を作成する際には、「Ainova AI」と「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
これは今から三百年以上昔の宝永時代の初期に、岸和田藩内の居酒屋で起きた出来事じゃ。
紅葉もすっかり色付いた秋の日の夕暮れ時、加茂内膳という岸和田藩に仕える若侍が店の片隅で冷や酒を傾けていたのじゃよ。
この加茂内膳は大層な酒好きじゃが、あまり懐に余裕がない。
故にこの日は肴もなく空酒を嗜んでおった。
じゃから丁稚と思わしき笠を被った小僧に豆腐を無料で勧められた時には、大喜びで飛びついたのじゃよ。
「作り損ないとはいえ一丁丸々とは気前が良いな。しかも紅葉の型が押されているとは、実に秋らしくて風流だ。」
そうして嬉々として冷奴を肴にしようとした加茂内膳に、待ったをかける声があったのじゃ。
「御待ち下さい、御武家様。不躾ながらお聞きしますが、御武家様は冷奴に紅葉おろしをかけて召し上がられますか?」
何とも奇妙な質問だったが、声の主が美人であった為に加茂内膳も気を悪くはしなかった。
「いや、拙者は冷奴には摺り下ろした山葵に醤油と決めておるが…」
「それなら、私の豆腐と取り替えて頂けたら幸いで御座います。まだ手を付けておりませんし、居酒屋の女将から私が買い求めた豆腐なので安心で御座います。」
豆腐を交換した途端に小僧の表情が曇ったようじゃが、年若い娘に目を奪われた内膳は気にも留めなかった。
「この小僧に勧められた豆腐を召し上がる時には、こうして紅葉おろしをかけるのがコツで御座います。紅葉おろしには殺菌と解毒作用が御座いますので、豆腐に込められた呪いも邪気も綺麗さっぱりと…」
「あっ、ああっ!」
そうして艶然と微笑んだ娘が豆腐に紅葉おろしをかけた次の瞬間、小僧の口から叫び声が上がったのじゃ。
驚愕と絶望とが入り混じった、店内の誰もが振り返る程の凄まじい叫びじゃったよ。
「目論見が御破算になって不服かい?汝等の謀など、私には児戯に過ぎぬ。」
若侍を始めとする店内の誰もが唖然とする中、この娘だけが落ち着き払っていた。
「さて、御武家様。この豆腐を紅葉おろし無しで召し上がれば御身に何が起きていたか、とくと御覧下さいませ。」
すると娘は豆腐を切り分けると、紅葉おろしの掛かっていない部分を食べ残した上で店先の野良犬に与えたのじゃ。
「それ、御照覧あれ!」
「ややっ、これは?!」
若侍が驚くのも無理はない。
美味そうに豆腐を食べた野良犬は、次の瞬間には全身がカビで覆われてしまったのだから。
「此奴は豆腐小僧と呼ばれる物の怪の類で御座います。此奴の豆腐を知らずに食べれば、皆あのような有り様に…」
「ぬう、何と恐ろしい…」
あまりの出来事に、内膳はそう呟くのが関の山じゃった。
「お主が番頭の不義を目撃した為に殺された豆腐屋の丁稚小僧の成れの果てだという事も、私には全てお見通し…物の怪として人に害を成すのではなく、人として成仏するが良い…」
「あっ…!ぐうっ…」
そうして娘の唱える般若心経と呼応するようにして、豆腐小僧は光に包まれて消滅してしまったのじゃ。
「危ない所を救って頂き、かたじけない。差し支えなければ、貴殿の御名前を御伺い出来れば…」
「名乗る程の者では御座いませんが、鳳とお呼び下さい。ああした物の怪の類を記録しながら行脚をしている、旅の絵師で御座います。その道すがら、人に仇なす物の怪を葬り去る世直しの真似事も致しておりますが。」
そうして若侍を店先に残し、女絵師は澄ました顔で街道を進んでいったのじゃ。
日の入りの早い秋の事、女絵師の姿は早々に夕闇の中へ溶けていったという。
この話を最後に語ったのは、果たして何時だったじゃろう。
久し振り故にという訳でもあるまいが、随分と熱が入ってしもうたな。
「成る程…その女絵師というのが我が鳳家の御先祖様なのだね、お祖母ちゃん。」
今年で小学校高学年になった孫娘は、興奮した様子を隠そうともしなかった。
「そうじゃ、飛鳥。お前が怪談だの心霊だのに興味を持って除霊の才能を示すのも、或いは御先祖様から継いだ血がそうさせるのかも知れんな。」
「うんうん!」
そうして先祖伝来の妖怪草紙を繰る孫娘は、まるで憑かれたように目を輝かせておった。
全く、「血は争えぬ」とはこの事じゃな。