04.折れた目標と、なにも知らない俺
ゴールデンウィークが明けた朝。
特にこれといったトラブルもなく、一人暮らし最初の大型連休は静かに終わった。
部屋は、相変わらず段ボールだらけだ。でも、生活には困るほどではない。
妹からの電話。
どうでもいい鋼太郎とのLIME。
それ以外に、特筆すべきことなんて、なにもなかった。
「ふぁ〜……」
靴箱の前で、小さく欠伸を噛み殺す。
上履きに履き替えて、教室へ向かう。
今日から、また退屈な日常が始まる。
変わったのは、一人暮らしを始めたという、ただそれだけ。
なにかが劇的に変わったわけでもないし、誰かが特別になったわけでもない——そのはずだった。
『……私と、付き合ってくれない?』
不意に、あの声が脳裏をかすめた。
数日前、空き教室で鹿嶋由依が言った、あの言葉。
——変わろうとしないのは、俺のほうなのかもな……。
もし、あの提案を受けていたら——少しは違う景色が、待っていたのかもしれない。
だけど、俺は選ばなかった。
ただ、目の前に続いている、なにも起きない日常を選んだ。
そして今日も、変わらないふりをして一日を過ごす。それが一番だ。
俺はただ安穏と、そう思っていた——。
* * *
教室で呑気にスマホをいじっていたら、
「おはよーっ!」
と、元気な声が響いた。
藤吉菜々美だ。クラスのアイドル的存在は、今日も明るい笑顔で女子たちと楽しそうに挨拶を交わす。
鋼太郎と鹿嶋はいないが、たぶん朝練に行っているのだろう。
なにも聞いていないが、鋼太郎は大活躍してレギュラーになるチャンスを掴んだのだろうか。鹿嶋はマネージャーとしてその姿を見ただろうか。
そんなことを思いつつ、俺はまたスマホの漫画アプリに目を落とし、時間を潰した。
と、そのとき——。
「ねえねえ、菜々美。なんでバスケ部の先輩の告白、断ったの?」
耳に飛び込んできたのは、女子グループの内の一人の声だった。
——告白?
つい、聞き耳を立てる。
藤吉菜々美は、友達に囲まれながら、困ったように笑っていた。
「んー、ちょっと事情があってさー」
軽い口調で、明るく返す。
でも、その「ちょっと事情があって」の部分に、微妙な含みを感じた。
——そういえば、鹿嶋さんが言ってたっけ……。
鹿嶋が誰かと付き合わないと、藤吉は恋愛しないと決めてるらしい。「事情」とは、おそらくそのことだ。
藤吉菜々美は、親友である鹿嶋由依と、恋愛のタイミングを揃えたがっている。
——そのせいで、告白も断ったのか?
俺は少しだけ引いていた。
どうして他人に自分の恋愛を揃えるのか、やはり理解できない。
親友だから?
いやいや——だとしても、恋愛というのはタイミングと感情が伴うもの。誰かと揃えるものではないと俺は思う。
そして、なんというか——。
藤吉はもっと普通に恋をするタイプだと思ってたから、少し意外だった。
——この分だと、鋼太郎が今告白してもダメなんだろうな……。
苦笑しながらそんなことを考えていた、そのときだった。
ドアの向こうから、
「うっすー」
と、鋼太郎の元気な声が響いた。
俺はふと顔を上げた。
が——鋼太郎だったが、その左腕にギプスを巻いていた。
「……え?」
状況が呑み込めなかった。
俺は、なに食わぬ顔でこちらに歩いてくる鋼太郎を、じっと見つめた。
「よぉ」
「その腕……どうしたんだよ?」
「いやー、ちょっと練習中にやっちまってさー」
鋼太郎は、苦笑しながら頭をかいた。その動作もどこかぎこちない。
ギプスは真っ白で、肘から指先までがっちり固定され、首からかけた包帯で吊っている状態だった。その重みが、鋼太郎の無理な明るさを逆に際立たせていた。
「いや、これ……『ちょっと』じゃねぇだろ……」
どういう顔をしていいものか。
俺が呆れ混じりに言うと、鋼太郎は「まあな」と笑った。
「病院行ったら、全治二ヶ月だってさ」
「……二ヶ月!?」
「夏の大会は、間に合わないって。まあ、仕方ないし、来年こそはって感じだな」
軽い調子で言うが、その顔は明らかに笑っていない。
——仕方ないって、なんだよ……。
心の中でそう思った。
どんなに明るく言っても、鋼太郎にとって、これはきっと、かなり辛いはずだ。
夏の大会。
レギュラー入り目前だった。
そして、レギュラー入りしたら、藤吉菜々美に告白する——。
すべてを懸けて、頑張ってきたはずだった。
その夢が、あっさりと、終わった。
二年だし、来年もあるだろうが、しかし——
(……悔しくないわけないよな)
なんだか、鋼太郎の笑顔を見ているうちに、俺の胸が締めつけられるように痛んだ。
と——。
そんな空気の中、もう一つの影が教室に入ってきた。
鹿嶋由依だった。制服はきちんと着ているけれど、顔色が悪い。目の下にはうっすらクマができていて、表情も沈んでいる。
目が合った。
鹿嶋は、一瞬だけ顔をしかめ、すぐに視線を逸らした。
鹿嶋は無言のまま藤吉のそばを通り過ぎ、自分の席に向かうと、鞄を机に置いた。
どこか、逃げるような足取りだった。
——なんだ、今の……。
明らかに、なにかを抱えているように見える。
それは、単なる「鋼太郎が怪我したから」だけではない気がした。
——鹿嶋さん……マネージャーだし、なにか知ってるのか?
ふと思い出す。
あの日、空き教室で見せた、鹿嶋の無理やりつくったような笑顔。
違和感は、まだ消えていなかった。
むしろ、今この瞬間——その違和感が、はっきりと蘇ったのだった。