03.空っぽな部屋と、仮初めの告白
ゴールデンウィーク三日目の夜。
俺は布団の上で寝転がったまま、漫画アプリをポチポチとタップしていた。
明かりは蛍光灯のまま。ベッドの横には開きっぱなしの段ボール。中身の半分以上はまだ整理していないけれど、今のところ生活には困っていない。
一人暮らしは最高すぎる。
誰にも邪魔されず、好きな時間に寝て、好きなものを食べて、好きなだけゲームや漫画に興じても怒られない。
成績を落とさないという条件付きだが、成績が多少落ちたとて、うちの両親のことだから、さすがに転校させるほどのことはしないだろうと予想できる。
俺にとっては夢みたいな生活だ。
布団に埋もれながら、口元が自然と緩む。このままずっと、この自由な時間が続けばいい——そんなことをぼんやり考えていたとき、不意にスマホが震えた。
通知を確認すると、発信者は「美玖」——妹から。
ワイヤレスイヤホンをしたまま通話ボタンを押す。
「——もしもし、どうした?」
『あ、お兄ちゃん? 今、大丈夫?』
「まあ、勉強中だけど——」
『嘘だよね? 漫画読んでたでしょ?』
「うっ……なんでわかるんだよ?」
『お兄ちゃんの嘘なんて、美玖にはバレバレだもん』
妹の美玖は勘が鋭いというより、俺の性格や行動パターンをおおよそ把握している。だから、俺のつく嘘が通用した試しなどない。
『そっちの引っ越し、だいたい落ち着いた?』
「まあ、ぼちぼちかな。段ボールはまだ全部開けてないけど」
『だと思った。絶対そんな感じだと思ってたよ』
電話口の向こうで、美玖が呆れているのがわかった。
こっちはこの自由さを満喫しているんだから放っておいてくれ、と思いながらも、妙に懐かしいこのやりとりに、少しだけ安心を覚える。
『で、こっちは今日ようやく全部片付いたの。お母さんがさ、お兄ちゃんのこと心配してて……ちゃんとご飯食べてるのかって。あと、お風呂は毎日入ってるかとか』
「小学生かよ、俺は……」
『あと、ゴミ出しの日も間違えないようにって言ってた。分別、ちゃんとしてる?』
「言われなくても、してるよ……」
まったく、どこまで口うるさいのか。
電話の向こうの母親の幻聴が聞こえてきそうだ。
『あー、あとね、あんまり変な時間に寝ちゃダメだよ? 朝型にしないと』
「今、まだ九時過ぎだ。十一時くらいには寝るよ」
『えっ、珍しい! お兄ちゃんにしてはまともじゃん!』
「褒めてんのか、貶してんのか、どっちだ?」
俺は、やれやれと苦笑する。
美玖と会話を交わしながら、どこか心がほっとしている自分がいた。
一人暮らし——自由だけど、少しだけ《《空っぽ》》になる瞬間がある。それを埋めるように、美玖の声が心に沁みた。
「……じゃ、そろそろ切るぞ?」
『うん、またね〜。ちゃんと歯磨いてから寝なよー?』
「はいはい——」
電話を切ると、部屋の中が静けさに包まれた。
何気なく部屋の中を見回す。蛍光灯の白い光、段ボールの隙間から覗く漫画本。空間がやけに広く感じる分だけ、なんとなく心細い。
と、そのとき——俺はふと思い出した。
数日前の、あの言葉——
『……私と、付き合ってくれない?』
あれから、鹿嶋由依はどうしているのだろうか。
彼女の顔を見たのも、あの日が最後だ。もしかしたら、あれはただの思いつきだったのかもしれない。
でも、俺の中で、あの空き教室の光景は、不自然なくらい鮮明に残っていた——。
* * *
——放課後の空き教室。
鹿嶋由依は、真剣な表情で、俺に提案した。
「……私と、付き合ってくれない?」
一拍遅れて、俺は即座に首を横に振った。
「……いや、やっぱりそういうのは無理」
「そっか……やっぱり、そう言うよね……」
鹿嶋は、どこか残念そうに笑った。
「鋼太郎のため、藤吉さんのためってのはわかるけど……でも、そういう目的ありきで付き合うって、ちょっと違う気がするんだ」
自分でも、なにをどう正論っぽく言えばいいのかわかっていなかった。
でも、本能的に「それは違う」と思った。
「たとえばさ、藤吉さんだって、鹿嶋さんが俺とニセモノの恋愛してるんだってわかったら、やっぱりショックだと思うんだよね」
なにも反応がないので、俺はそのまま続ける。
「それに、俺も……なんか、そういうのって……」
言葉に詰まる。言い方が難しいのもあるが、真面目に返すのもなかなかに辛いものがあった。
「恋人って、なるもんじゃなくて、なってくもんだと思うから」
言ってから、少し照れ臭くなって、黙った。笑われなかっただけ、幾分か気持ちは楽だったが、空き教室の空気が急に重たくなった気がした。
鹿嶋は頬杖をついたまま、視線を窓の外に向け、やがて俺のほうへ戻した。
「……真面目なんだね、及川くん」
「そうか?」
「うん。しっかり考えてるっていうか……」
「流されたくないだけだよ。流されていいことがなにもなかったから……」
「……もしかして、昔、失恋したとか?」
「まあ、そんな感じかな……」
そう言って、俺は苦笑した。
「だから、鹿嶋さんは、なにかべつの方法を考えたらいいんじゃないかな?」
「べつの方法か……」
そのとき、チャイムが鳴った。昼休み終了の予鈴だった。
「じゃあ、教室に戻ろっか?」
「うん。ごめん……ありがとね?」
そう言って、鹿嶋は立ち上がった。
その背中を見送り、彼女が去った少しあとに、俺も空き教室を出た。
そして、けっきょくなにも決まらないまま、ゴールデンウィークに突入した——。
* * *
(——まあ、ああ言っておいて正解だったかな)
俺はそう思いながら、スマホを見た。
新着通知、LIMEのアイコン——開くと、差出人は鋼太郎だった。
【鋼太郎:一人暮らしはどうだ?】
【鋼太郎:ヒマだろ?】
【鋼太郎:彼女欲しくならね?】
「……なんだそれ?」
質問の連投。意味があるようでなさそうな内容に、俺は『べつに』と返信して、『漫画読みまくってる』と続けて返した。
そのあと、また意味のなさそうなやり取りが続き、なんだか目蓋が重くなってきた。
スマホを枕元に置き、俺は静かに目を瞑る。
——ああ、なんか眠くなってきた……。
十時前だが、たぶん、このまま眠りにつける。歯は磨いてないが、まあ今夜くらい平気だろうと、リモコンで電気を消した。
『恋人って、なるもんじゃなくて、なってくもんだと思うから』
あのとき、どうして俺はそんな小っ恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。
今になって、また少しだけ恥ずかしく感じる。
——鹿嶋さん、なにかいい方法、閃いたかな……
そんなことを思っていると、いつの間にか眠りについていた。