12.ヒロイン、来る……!?
リビングに入ると、藤吉はなにも言わずにソファに腰を下ろした。
さっきまでの打ち上げの名残がそこにあるのに、空気だけがまったく違っていた。
「……飲み物、なにか出そっか?」
俺は緊張気味にそう言って、気を紛らわせようとしたが、藤吉は軽く首を横に振った。
「ううん、大丈夫。あんまり長居するつもりじゃないから」
「……そっか」
俺もソファに腰を下ろす。
そして、少しの沈黙。
やけに静かだ。
部屋の空気が、音を立てずに重たくなっていく。
藤吉は、指先でスカートの裾をつまみながら、少しだけ俯いていた。
やがて、ポツリと呟く。
「ねえ、伊吹くん。私って……変かな?」
「……え?」
急に、なんの話だろう。
「なんか、よく言われるの。完璧とか、いい子だね、とか……」
「……まあ、それは、言われるかもね?」
素直にそう答える。
藤吉は明るくて、誰にでも優しくて、クラスの中心にいて、さらに美少女で……漫画やアニメでいうところの、まず間違いないメインヒロインだ。
少なくとも、そういう風に、俺の目には映っている。
でも、彼女の瞳は少しも笑っていなかった。
むしろ、「完璧」だとか「いい子」だと言われるのが迷惑とでも言いたそうな顔だった。……なんでだろう? なにか、根深いものがあるようにも感じる。
「でもね、それってすごく疲れるよ」
「……疲れる?」
「うん。『そういう子』でいたほうが、楽なこともあるから。誰ともぶつからなくて済むし……けど、ずっと仮面をかぶってるみたいな感じなんだ」
ゆっくり、藤吉は顔を上げた。
「由依とのルールも、そう。私が勝手に決めたの」
「……彼氏をつくるのは、鹿嶋さんに彼氏ができてからって、やつ?」
藤吉は静かに頷いた。
「うん。でもそれって、たぶん、私の弱さだったの」
「……弱さ?」
「だって、もし由依より先に恋愛を始めたら、由依をないがしろにしちゃうんじゃないかって不安があって……勝手に『親友』って思ってても、そういうので関係が崩れちゃうのが怖いんだ……」
「……でも、それって——」
「ううん、わかってる」
藤吉は俺の言葉を遮ると、自分の言葉で話し始める。
「由依はそんなふうに思わないってことも、ちゃんとわかってるよ。でも、私の中では、やっぱり由依が大事だから、不安なんだ……」
藤吉は、一瞬だけ笑った。
でも、それは笑顔というより、自嘲だった。
「由依って、本当にすごいんだよ? いつも落ち着いてて、芯があって、私よりもずっと大人で」
「……うん」
「だから、私ね……ずっと由依に憧れてたの」
それは、なんだか意外に思った。
藤吉が鹿嶋に憧れるというのは——逆なら、なんとなくわかるが。
「だから、同じタイミングで彼氏ができたら嬉しいなって思ったの。気兼ねなく彼氏の話をしたり、Wデートとかしたくって……」
藤吉は視線をテーブルに落とした。
「でも、それは願望じゃなくて、都合のいい言い訳だったんだよね……」
藤吉は、反省した様子だった。
それから静かに顔を上げて、俺の目をじっと見た。
「私ね、最初から気づいてたよ。由依と伊吹くん、本当は付き合ってないよね?」
「……え?」
鼓動が、一拍ズレた気がした。
「由依って、不器用だけど、すっごくわかりやすいときがあるの。顔に出ちゃうタイプ。伊吹くんの話をするとき、ちょっとだけ声のトーンが変わるんだよ」
「……そうなんだ」
「そしたらね、私も気づいたの。きっと由依と伊吹くんは、私が恋愛するために、付き合ってるって嘘を言っているんだって……」
俺は、目を見開いた。
「じゃあ、さっきのは……」
「嘘に乗っかっただけ。由依が、どんな反応するか見てみたかったんだ。……それで、きちんとわかった。嘘だったんだなって……」
藤吉と鹿嶋は付き合いが長いから、余計にそう感じたのだろう。
嘘がバレた——いや、まだ俺が「そうだ」と認めていない以上は、藤吉の勝手な想像にすぎない。
でも、確証があるみたいだった。嘘をついているのだと……。
藤吉は、また視線を落とした。
「でもね……だんだん、自分の気持ちが言うこと聞かなくなってきて」
藤吉は手の平をぎゅっと握りしめながら言った。
「一緒に勉強してるときとか、笑ってる伊吹くんの顔を見てると、……ちょっとだけドキドキするようになっちゃって」
「……藤吉さん、それは——」
「そのときに思ったの。ああ、やっぱり私って弱いなって」
ようやく声を絞り出したように、藤吉は言う。
「——それでね、戻ってきた理由は、この話をすることと、私の気持ちを伝えておくため」
「……藤吉さんの、気持ち?」
いつの間にか、藤吉の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
「……私は、鋼太郎くんとは付き合わない」
「えっ!?」
「もちろん、いい人だとは思うし、カッコいいとも思う。でも、好きとは違う感情だから……」
俺は、言葉を失くした。
「でも……私や鋼太郎くんのために、嘘をついてくれたんだよね?」
「っ……」
「大丈夫、それについて、伊吹くんや由依を責めるつもりもないし、むしろ、そうさせてしまった原因が私にあるのは、わかってるから……」
そう言って、藤吉は立ち上がる。
「……伊吹くん、ごめんね? 私、帰る……」
「あのっ……藤吉さん!」
と、俺が立ち上がった瞬間だった。
急に、藤吉が俺の目の前に立ったと思ったら、正面から抱きついた。
俺は、一瞬なにが起こったのかわからず、俺は硬直した。
「えっ……ちょっ……急に、どうしたの……!?」
目の前にいるのは、藤吉菜々美。
さっきまで、明るくて、優しくて、みんなの中心にいる完璧なヒロインだったはずの彼女が——今、泣きそうな声でこう言った。
「……一回だけでいいの……ごめん、ワガママなの、わかってるけど……」
藤吉の声は、俺の胸のあたりで小さく震えていた。
腕の力は弱いのに、その気持ちは真っ直ぐだった。
「もうちょっとだけ、こうさせて……」
時間が止まった気がした。
空気が凍りついて、部屋の中にあるすべての音が消えていく。
そして——
——ピンポーン。
インターホンが鳴って、俺はビクッとなった。
しかし、これはチャンスと言わんばかりに、俺は藤吉から距離を置く。
「ごめん、誰か来たみたいだから——」
慌てて玄関モニターを見て——青ざめた。
『——あ、伊吹? 悪い、病院終わったら、母ちゃんがお前にこれ持ってけって言ってさ。勉強会とか、そういうので世話になったからって……ちょっと開けてくれ』
玄関先にやってきたのは、菓子折りを手に持った、鋼太郎だった。