01.クラスの「主人公」と「ヒロイン」
「——明日からなんだろ?」
隣で弁当を食べていた岡本鋼太郎が、そう訊いてきた。
でも、俺こと及川伊吹は、ぼんやりしていて聞き逃していた。
ゴールデンウィークの前日。クラス中が浮き足立っている中で、俺だけはどこか地に足がつかない感覚だった。
明日は引っ越しの日だ。といっても、俺一人だけの引っ越し。
じつは、市内のアパートで一人暮らしを始めることになっている。
理由は単純。父親の転勤が決まり、母と妹は一緒についていくことになった。
現在借りている社宅は引き払うことになったが、俺はこのままこの高校に通いたいと主張して──というか、うまく誘導して──結果的に、俺だけがこちらに残ることになったというわけだった。
正直、最高だ。嬉しすぎて、今夜はたぶん眠れないだろう。
もう、成績だの進路だのとうるさい両親もいない。小姑みたいに俺のミスを指摘してくる妹もいない。
自分だけの部屋、自分だけの時間——考えるだけでニヤけてくる。
「いいなぁ、一人暮らし。俺もしてみてぇー……」
俺の話をスルーされたことも気にせず、鋼太郎が羨ましそうに言った。
「遊びに行っていい?」
「もちろん。てか、明日の引っ越し、手伝ってくれても──」
「パス」
俺が言い終わる前に即答された。
「ゴールデンウィーク中はずっと部活だっつーの……」
「キツそうだな、野球部」
「まあな。でもさ、ここで頑張ってレギュラーになれたら——」
そう言って、鋼太郎はちらっと教室の端を見た。
女子のグループ。その中でもひときわ目立つ子——藤吉菜々美。
そのモデルみたいに整った顔立ちと、明るい笑顔を見つめながら鋼太郎は言う。
「告白するんだ」
唐突に鋼太郎が言った。声音が、どこか優しく響いた。
「マジで?」
「マジマジ。付き合ってるやついないって聞いたし。前から、いいなって思ってたんだ」
「話したことあんの?」
「まあ、ちょっとだけ。去年、同じクラスだったし」
「そっか」
鋼太郎はいいやつだ。背が高くて、体格もいい。顔も整っているし、野球部で汗を流している姿なんか、男の俺が見てもカッコいいと思うレベル。
勉強は苦手だけど、根は真面目。誰からも好かれやすいタイプだと思う。
——鋼太郎に比べると、俺ってやっぱ脇役だよな……。
物語の主人公を見つめる気分で、俺は鋼太郎に向けて、苦笑しながら言った。
「じゃあ、応援するよ。そっちも、部活も、頑張れよ」
「おう、ありがとな!」
弁当を食べ終わった鋼太郎は颯爽と席を立ち、トイレに向かった。
俺はなんとなく、藤吉菜々美のほうを見た。
改めて見ても、アイドル級の可愛さだ。笑顔で女子たちと話しているその姿は、遠くから見ても華がある。まさにヒロインといった感じ。同性に好かれてるってことは、きっと性格もいいんだろう。
——上手くいくといいな。
そう思いつつ、ポケットからスマホを取り出す。ロックを解除して、漫画アプリをタップした。
と、そのとき——ふと、目の前に影が差した。
——あれ? 鋼太郎、もう戻ってきた?
顔を上げると、そこに立っていたのはべつの人物だった。
「ちょっと、いい?」
「えっ……」
声をかけてきたのは──鹿嶋由依。
クラスメイトで、藤吉といつも一緒にいる子だと記憶しているが、話したこともないし、彼女のことはあまり知らない。
だから、とても意外だった。
それ以上に、鹿嶋の表情が少し険しくて、俺はなぜか緊張した。
「あ、うん……なに?」
「ここだと、ちょっと……」
鹿嶋は廊下のほうを指した。どうやら、場所を移したいらしい。
「……わかった。行こうか」
鹿嶋はコクンと頷き、無言のまま歩き出す。俺はその後ろをついていく。
しかし、なんだか胸騒ぎがする。
鹿嶋の微妙に不機嫌そうな空気。そして、教室だと話せないような話——。
——いったい、なんの話だろ……?
鹿嶋の髪が左右に揺れるのを見ながら、俺は頭の中でぐるぐると思案を巡らせた。