07 メイドのお兄ちゃん─梅雨晴れの出会い─
「よぉ小僧。真っ昼間からこんな鄙びた処来て、如何したってンだ?」
その声は、鬱蒼と繁った森の中にずっと昔から存在してきたような落ち着いた気配を帯びていた。泣きつきたいような気持ちで見上げた先にいたのは────。
話は、数時間前に遡る。
梅雨の晴れ間というにはあまりに暑い、6月の休日。
この春5年生になったばかりの従姉──僕は「あやちゃん」と呼んでいる──が祖父の子どもを身籠ったという報せを受けた両親が、家族会議のために帰郷した山村。僕は大人たちの話し合いの間、村のなかで暇を潰すことになったわけだけど……。
「何してたらいいんだろう……」
従姉のあやちゃんは、当事者として大人たちからいろいろ訊かれている最中だ。いつもこの村を歩き回るときはあやちゃんと一緒だったから、ひとりだと何をしていいかわからなくて。
自宅の近所じゃ見かけない、今にも朽ち果てそうな空き家だったり、山のなかに吸い込まれていくような苔むした石段。積み上げられた材木や、社会科の教科書で見るような段々畑と、それに似た配置で並ぶお墓。
「………………」
今日、ずっと暗い顔で俯いていたあやちゃんが、大人たちが優しく話しかけ始めたら何かの糸が切れたみたいに泣き出していたのを思い出して。胸のなかに浮かんだ、モヤモヤしたトゲのような痛みをなんとか振り切りたくて、僕は木漏れ日を受けてどこか神秘的に輝いて見える並木道に、足を踏み入れてしまったんだ。
僕のよく行く国立公園みたいな感じで整備されていると思っていた並木道は、少し歩くと忽ち獣道に変わってしまっていて。藪蚊に食われながら歩いているのに不安を覚えた僕は、思わず走ってしまった──それが間違った道だとも知らずに。
気付けば僕は、そこかしこから熊の鳴き声が聞こえる道に迷い込んでいた。否、そこは既に道ですらなくなっていた。来た方角も茂みに覆われて、右を見ても左を見ても同じような藪や茂みが広がるばかり。環境音に耳を澄まそうとしても、聞こえてくるのは熊や鳩の鳴き声ばかり。
熊の唸り声は命の危機を報せ、鳩の声はどこか心を騒がせて不安を駆り立てる。自然の猛威という言葉を肌で感じた僕は、先立つ不孝をどう両親に詫びるべきかと考えるばかりだった。
お父さん、お母さん、たぶん僕はこのあと熊に食べられます。ごめんなさい。
もっと話したいことあったな。
もっとあそこの遊園地とか行きたかったな。
そうだ、あやちゃん。
最後にみたあやちゃんの顔は、あんな泣き顔だ。
できることならもう一度、あやちゃんの笑った顔を見たかったな。
そんなことを思いながら、迫りくる鳩の鳴き声に向けて、覚悟を決めて振り向こうとしたとき。
木の上から、声が聞こえたんだ。
「よぉ小僧。真っ昼間からこんな鄙びた処来て、如何したってンだ?」
泣きそうな僕を面白がるような声ではあったけど、死すらも覚悟していた僕にとっては一筋垂らされた蜘蛛の糸にも等しいその声に、思わず縋りついた。溺れるものは藁をも掴むという言葉があるけど、とんでもない。藁どころか花びら一枚浮かんでいたって、溺れていたら必死になって掴みにいくに決まっている──僕はこの森の恐怖を通して、そう感じていた。
その花びらは、僕の頭上に咲いていたらしい。思わず見上げたその先にいたのは、メイド服を着たお兄さんだった。それも、よくあるミニスカート形式のメイド服ではなく、いわゆるクラシカルなメイド服。
古式ゆかしくどこか郷愁を駆り立てるクラシカルなメイド服は見るからに上品な仕立てをされていて、更にお兄さんの見た目から窺える筋肉質過ぎず均整のとれた、有り体にいうなら程よく引き締まった身体にジャストフィットしている──さぞかし名のある仕立て屋が携わったのだろうことがありありと窺える逸品だった。
そんなこの世にふたつとないメイド服を身に纏っているとは思えないほど大胆に、せっかくのメイド服が汚れるのも厭うことなく木の枝に座っているお兄さんの体躯は──僕も正確なところまではわからないけれど──身長は約176cm、体重は見たところ54kg前後だろうか、それでいて決して痩せぎすにも見えないのは、お兄さん自身のどこか豪快な雰囲気にあった。僕を見下ろす柘榴石の眼に不敵な笑みを湛え、木々を唸らせる風にセミロング丈の銀髪を靡かせながら、黒いニーソックスに包まれた形のよい脚を組んで座っている姿はさながら大理石で出来たギリシャ彫刻。この世に生きている人間なら見惚れるなという方が無理という外見の彼を、僕も思わず見つめてしまっていた。あ、八重歯がある。
と、メイドのお兄さんもさすがにずっと無言の僕を不審に思ったのだろう、訝る顔すらも画になる凄まじい美貌を僕に見せつけた後、突然「呵々々」と笑い出した。開いた口のなかの歯並びすらいいと来たもんだ、このお兄さんにはひとつでも醜い部分があるのだろうかと疑問に思ってしまう。羞月閉花という言葉は彼のためにあったと確信しながら更に見つめていると「おい小僧」と彼が言葉を続ける。
「そんなに見るな、見るな。オメェのような愛くるしい童子に然も見つめられると、己も調子が狂って仕方ねェ」
木の枝に腰掛けたまま、お兄さんは可笑しそうに笑って顔を逸らす。もしかしたらお兄さんはちょっと照れ屋なのかも知れない。完璧な美しさを持ってる上にちょっとした可愛さも兼ね備えてるだなんて、神様はこの人にいくつのものを与えているのだろう。
本人にやめろと言われてもついつい見惚れていると、とうとうお兄さんは木の枝からひょいと飛び降りてきた。ま、まさか怒られる!?
「はわわわわぁ……♪」
9年間の人生で、ここまで初対面の人を意識したのは初めてかも知れない。いろんな感情が行ったり来たりして、なんだか堪らない気分だ。怖いような、もっと先まで知りたいような、そんな不思議な気持ち。
木の枝から飛び降りる瞬間すらも、メイド服の裾が黄金比率を思わせる広がりかたではためいて、とても画になる。そんな美しいお兄さんは僕の肩に手を置いたかと思うと、「オメェん家ァ何処だ?」と尋ねてきた。
「住所が判らなきゃ名前でも良い。誰ん家だ? 己の判る処なら送って遣るヨ」
「いいんですか?」
「応よ、メイドに二言は無ェ」
あ、一応このお兄さんはメイドなんだ。
お尻についた埃を叩く仕草さえもエレガントで美しいお兄さんを眺めていると、「オ? 何だァ?」と笑いながら僕を見つめ返してきた。うぅ、顔がいい……! メイド服と均整のとれた身体にばかり気を取られていたけど、このお兄さん顔もバチクソに良い……! キュンッッッ!!!!
胸のドキドキが止まらなくてどうにかなりそうだったけど、なんとかお兄ちゃんに付き添ってもらいながら山から人里まで降りてきた。山に入り込む前に見かけたような材木やお墓が見えてきて、安堵で脚から力が抜けそうになってしまう。
「ッと、危ねェ危ねェ。此処では転ぶなよ、何に持ってかれるかわかったモンじゃねェ」
「? 転んじゃだめなんですか?」
「応、駄目だ。此処はナ、魔物共の巣窟なんだぜ? 此処で足を取られたら山狗に喰われちまうのサ」
「特殊部隊の?」
「否、虚構と現実を混ぜちゃいかんゼ、小僧。山狗は山狗、本当の狗コロよ。まァ、狗コロっても麓のちびちゃい犬共とは違うけどヨ」
「へぇ、狼みたいなものなのかな……」
「あァ? 狼だァ? 流石に奴等にゃ及ばねェや。山の大神に比肩する様なモンだからヨ」
メイドのお兄さんが話してくれる山の話は、まるで生前の祖母が臨場感たっぷりに読み聞かせてくれた昔話のようなものばかりで、思わず夢中で聞き入ってしまった。
だから、あっという間にお兄さんに背負われる旅路は終わって。
「せっかくだから上がってくれたらいいのに。みんなにお兄さんのこと教えたいですよ。せっかく連れてきてもらったのに、誰にも言っちゃいけないんですか?」
「応、己の存在は余人には教えられるようなモンじゃなくてな。ホレ、小僧だって如何だ? もう己のことを言葉じゃあ説明出来ねェだろ?」
お兄さんのことを、説明できない……?
そんなことないと答えたくて、お兄さんのことを口に出そうとしても……、あれ、あれ??
「呵々々。そういう呪いを掛けられちまってなァ、仕方無ェってモンよ」
そんな僕の反応をみて、お兄さんは笑っている。
だけど、その笑顔は────。
その後、お兄さんは笑いながら手を振って去っていった。もう、彼がどんな姿をしていたか思い出すことすら難しいけど。
これだけは覚えている。
あのお兄さんは、メイド服を着ていた。
僕を家まで連れてきてくれたのは、メイドのお兄ちゃんだった。
メイドのお兄ちゃんがなんで呪いを掛けられて、その呪いはどうやって解けるのかはわからない。
だけど、誓ったんだ。
僕は、あのメイド服を忘れない。
そしていつの日か、メイド服がなくても彼のことを覚えていられるようになるんだ────!!
「ルカ、どこ行ってたの!? これからあやちゃんを病院に連れてくから探してたのよ」
メイドのお兄ちゃんが去っていった方角を見つめて庭先で決意を固める僕を、玄関から出てきたお母さんが呼ぶ。
「え、あやちゃん具合悪いの!?」
「そういうわけじゃないけど、お腹の赤ちゃんもあやちゃんもお医者さんに診てもらわないとなの。今まで一度もかかってないとか信じられない、あの家おかしいんじゃないの」
「そーなのかー」
赤ちゃんができるって、大変なことなんだ。
…………あれ、僕は今、何を考えてたんだっけ?
ほんの一瞬。
たった数秒だけ、あやちゃんのことを考えた。
それだけで、僕はそれまで考えていたことを忘れてしまっていた。覚えているのは、深緑の木々に覆われた深い森を鮮やかに彩る、あまりにも美しいメイド服のことばかり。
なのに、どうしてこんなに胸が痛むんだろう。
たっていられないくらいに痛い、どこか怪我したのなんて心配してくれるお母さんの声も、遥か遠くに聞こえて。
そうだ。
メイド服、……メイド。
この世の全てがメイドになれば、この痛みも、悲しみも、僕の胸から去ってくれるに違いない。
この世の全てを、メイドにすればいいんだ────!
* * * * * * *
この時、M歴マイナス7年。
この7年後、メイド服を着た弱冠16歳の少年によって現政権が打倒され、金銭やコネクション、腕力などではなく、メイド力が全てを決める世界が実現されることとなる。
全ては、この世をメイドで満たすために。
胸を刺す悲しみを、虚しさを、完全に消し去ってしまうために。
世はまさにメイド地獄。
そんな世の中に立ち上がるひとつの影。
「呵々々。あの洟垂れの小僧が随分偉くなったモンだぜ。こりゃひとつ、お灸を据えてやらねェとなァ?」
メイドの本質は支配に非ず。
奉仕の精神を忘れた新時代のメイドたちを“教育”していくその美麗なるメイドの名は────
Maid no Oniichan────