02 主無くしてメイドなし
光が残らず盗まれたような、ひどく暗い夜だ。一人の男子高校生が、降りしきる雨の中をひたすら走っていた。
雨の勢いはアスファルトを叩き割らんばかりで、目を開けるのさえ難しい。口を開く度に溺れかけながら、少年は肩で息をしていた。
傘もささない少年は、この雨に対してあまりに無力だった。しかし、彼の濡れそぼった制服を見れば、誰もが振り返るであろう。くらい夜雨のなか、名門私立『大輪田高校』の校章が光っていたのだから。
もし仮に、この雨降りにすれ違う者がいたならば、立ち止まるに違いない。あの名門『大輪田高校』に通えるほどの生徒が、何故雨に降られてまで走っているのかと。
そしてスマホを手に取り、慣れない手つきで『110』を押す。なぜなら、ここ1ヶ月で10件も大輪田高校の生徒を狙った誘拐事件が発生しているのだ。
大輪田高校は所謂、『エリート校』。然らば、そこの生徒並びに肉親たちの経済状況の潤い具合も想像に難くない。身代金を請求すれば、容易く億の金が動いた。
つまり一般庶民がすれ違いざまに脳内算盤を弾いてみれば、売った恩が大金になって返ってくると皮算用できるわけだ。
加えて、彼は泣く子も黙る超級財閥『タカサゴグループ』で知られる高砂家御曹司『高砂アキラ』その人である。世界中のインフラを支えるタカサゴグループ次期後継者である彼の顔は、知られていても不思議ではない。
しかし、そうはならなかった。時刻はすでに日付を回って12時過ぎ。ゲリラ豪雨の中、街を夜警しようなどと心掛ける殊勝な善良市民は居なかったのだ。
さて、濡れエリート高校生はスマートフォンを取りだした。当然、しとど降りしきる雨の中を全力疾走しながらだ。
「な、何故電話がかからない! お父様もお母様も寝て居らっしゃるのか!? 僕がまだ帰っていないのに一体どうして!」
少年はひどく愛されていた。さらには、その自負もあった。
大輪田高校に通えているのは、敏腕経営者たる父の跡を継ぐ期待が掛けられているから。夜遅くまで塾に居られるのも然り。そしてそれ以上に愛されているから。
お付きのメイドにも日夜見守られ、昨晩まで親子は愛と金という太いパイプで繋がっていた。
彼は失念している。
「たまには平凡な高校生の暮らしぶりも体験したい。常識も無くては良い経営者たりえません。本日は徒歩で帰るので、迎えのリムジンは不要です」
「お父様もお母様も、そんなに心配なさらないでください。僕はもう16、彼のアレクサンドロス3世は王位を継承した歳です。安心してお休みください」
「なんだ黒織。そんなに僕が心配か? しかし自立の訓練もしておかねば、嫡男として箔がつかなくなるのだぞ。うわ、やめろ泣くなみっともない。僕の裾を引っ張るな。鼻水と涙とヨダレを制服に擦り付けるな! ちょっと、お前ほんと……あーっ!!」
朝にこんなやり取りをしたことを、すっかり忘れてしまっている。
「しくった! 全部僕のせいじゃないか!」
雨の中、彼は叫ぶ。
頭に残っていたのは大学受験対策、父親の支えのため密かに学んでいる経営学のみ。流石の集中力と聡明さである。お可愛いこと。
よって、家に電話を掛けても誰も出ないのだ。肝心のメイド長は屋敷に不在。加えて、彼はあまりメイドを頼りたくない理由があった。黒織というメイド長から父母すらも超える寵愛を受けていたのである。
黒織は彼の専属メイドである。彼が10歳、黒織16歳の時からの付き合いで、以来屋敷に住み込みで働いている。
彼は黒織が屋敷に住み込みで働くことを許可し、部屋を与え、学習の機会と人並みの生活を与えたのだ。
うら若きアキラ様は言った。
「黒織、僕はいつかお父様の会社を継いで社長になる。その日が来るまで、いやその日が来てからも。僕の生活を支え、僕を守ってくれないか?」
幼い頃の約束とはいえど、実質的な告白。黒織がメイドとして、永久就職することが確定した瞬間であった。
まあ、そんな話はさておき。黒織はアキラ様を全力で慕っているのだ。タングステンよりも硬く、核融合炉より熱く、深淵より深く。千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで永久に……。
「黒織」
と、夢中で語っているうちにアキラ様は呟かれた。雨の降りしきる中、わざわざ立ち止まって。
「お前は近くにいるのだろう?」
そう言って、彼はあさっての方向を見やる。
「あら、お坊ちゃま。黒織はそちらにおりませんよ」
「仕方ないだろう。気配はするけどこの雨だと全然見えないんだ。というかお前さっきまでどこにいたんだ?」
「地の文、でございましょうか」
「何言ってんだお前」
少し呆れながらも、アキラ様はその場で息を整えられた。
制服は完全に濡れきっていて、肩の動きは重々しい。こんな時間までお勉強をされていたうえ、慣れない運動をされた疲労もあるだろう。我が主人ながらこの頑張り具合は誇らしい。
黒織……つまり『私』は持ってきていた二本目の傘をアキラ様にお渡しします。
「こうも濡れては気休めにしかならないでしょうが、こちらをどうぞ」
「気休めなものか、助かったぞ黒織。雨が降る直前、寄ったコンビニエンスストア?がクレジットカードに対応していなくてな」
「いかがですか? コンビニエンス度では私の方が上ですよ」
「とっくに知っている。だからマウントをとるんじゃない」
ため息を一つついてから、彼は傘をさした。ようやく濡れなくなった空間の下、服の裾を絞り始める。これまで会話では触れなかったが、余程気になっていたようだ。
「というかだ」
アキラ様は切り出される。
「どうして僕の場所がわかった? 僕の知らぬ間にスマホにGPSとか入れていないだろうな?」
「まさか。先程のお電話の発信情報から逆探知を行い、場所を特定。直線距離を通るために家々の屋根を飛び移って参りました」
「気持ち悪いぞ黒織。お前忍者か」
「アキラ様が悪いのですよ。今日は車を出すなと仰ったのですから。
むしろ、黒織としてはこのような凶行に出てすらアキラ様を見届けたくなるというものです」
「お前……本当に仕事熱心だな」
「いいえ、ただの趣味にございます」
「ストーキングを趣味にするな。ド変態メイド」
アキラ様は顔をしかめつつ、私の方を見やる。その目は僅かに左右に揺れて、何かを考えている様子。
おそらく、その理由は先程まで走っていたことと関連するのだろう。
「まあ、情熱的。アキラ様も素敵な殿方なのですから、こうも熱視線を向けられますと変な気を起こしても仕方ないというものです」
「白々しいぞ、黒織。僕がお前を見ている理由なんてお前には分かっているだろ。僕が知らないことすら、お前にはお見通しのはずだ」
眉間にシワを寄せ、彼は言う。しかし、私にだって分からないものはある。ようやく家の仕事を終わらせて走ってきたら、アキラ様がずぶ濡れで走っていたのだから。
いくらド変態の汚名を受けるメイド長といえど、全容の把握など出来てはいなかった。
「申し訳ございませんが、黒織も寡聞にして存じ上げません。今しがた追い付いたものですから」
「はぁ、少し耳を貸せ」
お坊ちゃまの背丈に合わせるよう、少し屈んで後方に目線を向けてみる。
「誰かに尾けられている。見えるか? あの電柱の影だ」
いると分かってしまえば、目を凝らさずとも視認できた。黒いカッパ姿の男が二人、後ろの一人はインカムをつけて何やら小声で話している。
お坊ちゃまはあの者たちから逃げようとしていたのだ。
「『お話』、してきましょうか? おそらく、あの様子ではこの先に待ち伏せもいるでしょう」
「頼めるか?」
見上げる彼の不安そうな濡れた顔。寒さのせいか唇は青白く、体も震えている。手早くお家に送り届けなければ。
「無論です、黒織はあなたのメイドですから」
手早く傘を畳んで、男の元へと歩いていく。雨は未だ強く、私の首元を濡らす。防水メイクに耐水メイド服にしてきて本当に良かった。
さて、男は2人とも背丈は180センチほど。大きめの雨合羽を着ているので、実際の体格よりも大きく見えた。見たところ2人とも格闘技の経験者らしく、耳の軟骨が変形していた。
悠々と近づき、2、3メートル離れたところでカーテシーをしてみる。
「ご機嫌よう。こんな夜更けに如何されましたか?」
チラリ、と目を上げる。
男のひとりは息を殺して拳を振り上げているところだった。
手の先から棒状の何かがはみ出している。握られているのはおそらく警棒。長さは30センチくらいだろうか。直に食らうと少し痛そうだ。
黒織は一歩バックステップして振り下ろしをかわす。
「なっ!?」
躱されたのが意外だったのか、男は小声を漏らした。さらに全力で振り下ろしたせいで、前のめりになっている。
黒織は先程1歩引いた足を反転、地面を蹴り返して跳躍。
そのまま男の顔面を靴で踏みつけ、さらに1段高く跳んだ。近くのブロック塀などゆうに越す高さまで。
はるか下、もう一人の男の口が呆気にとられて空いているのが見える。
黒織は勢いが無くなる寸前で体を小さくまとめて、片足振り上げ、最高点で宙返り。そのまま自由落下すると、かかと落としになるわけだ。
黒織の右足は風を切る。体重と落下速度が踵にかかる。
足の先で、みしり、と何かが軋む音がして少し凹んだ。
これではかかと落としでは無く、兜割りだと思ったけど、アキラ様に言ったらドン引きされそうなので口を噤む。
傘を開いた黒織は、男のインカムを拾い上げ、耳にはめてみる。
イヤホンの先にいたのはこれまた男。やや音割れする声で、何やら叫んでいた。
『おい、どうした!? 高砂家のボンボンとメイドが合流してどうなったんだ!』
まあ、なんと口の悪い方でしょう。黒織が兜割りと言うとしたら、この人は脳天かち割りなんて言うに違いありません!
教育に悪いと判断した黒織はマイクを口に近づけた。
「ご機嫌よう。私、高砂アキラ様専属メイドの黒織と申します」
『驚いた、まじでメイドなのかよ。財閥家の金持ちは違うぜ』
「申し訳ございませんが、アキラ様にご用の際は一度わたくし共を介して連絡をとっていただくことになっております。
一度お屋敷の見学会の方をさせていただきまして、続いてインターンを……」
『悪いが嬢ちゃん、俺は就活控えた大学生みたいな余裕はねえんだ』
そう言われるや、後ろの方でもの音が聞こえた。傘が地面に落ちる音だ。
「きゃあっ!? な、なんだよお前!」
スキンヘッドの男がアキラ様の体を後ろから抱え、盾にするようにしてほくそ笑んでいた。
気付かないうちに回り込まれていたとは。こいつは相当な手練だろう。
「『すまねえな、嬢ちゃん。コイツは誘拐させてもらう。俺らには金がいるんだ』」
インカム越しに、音が二重に聞こえた。
「無駄な抵抗を。余罪が増えるだけですよ」
「『捕まらず、目的を完遂出来れば。犯罪にはならないんだぜ?』」
男はインカムを外し、懐から拳銃を取り出した。銃口はアキラ様のこめかみに添えられ、引き金には指が掛かる。
「ひいっ! じ、銃!? な、ななな何でっ!?」
アキラ様は目を白黒させ、息を荒らげる。
そうか、生で見るのは今回が初めてか。
「取引しようぜメイド様よ。俺はコイツを殺しても金が入る。しかし、その時はお前も殺して目撃者をゼロにし、誘拐が成功したって体にしなきゃいけねぇ」
怯えきったアキラ様の頭に、男はぐりぐりと銃口を押し付けた。
「ひ、ひぃぃ」
「俺だって心苦しいのさ。殺しの後に食う飯はあんま美味くねぇ。
だが、あんたがここで見逃してくれたら。コイツはひとまず無事だし、あんたも目の前で主人を殺されずに済むぜ?」
歯を出して、男は笑みを浮かべた。
「銃のセーフティは確認しましたか、小悪党」
「ご親切にどうもだ。そう言われると思って、ロックは外したまま懐に入れといた。俺のどでっぱらに風穴が空くんじゃないかと、ヒヤヒヤしてたんだぜ?」
男の余裕は、多少のハッタリを前にしても崩れない。間違いなく手練。アキラ様を殺す覚悟はできている。
真正面から突っ切ったら、まずはアキラ様に一発。続けてもう一発撃ってトドメ。冷静さを無くしたところで全弾撃たれたら簡単に殺されてしまう。
では、黒織に何が出来るか。否、考えるべきは何をすればアキラ様を救えるかだ。
「く、黒織……!」
「おっと、坊ちゃんは車に着くまで大人しくしとくんだ。さもなくば、あのメイドさんが何しでかすか分からねえからな
嬢ちゃんも、動くなよ? 方法は一つだけじゃねえんだ」
男はアキラ様の細い首に手をかける。男の手は非常に大きく、このまま握っただけでアキラ様の首は折れてしまいそうだ。
ならば、私はどうすれば。
「黒織……」
アキラ様の目が、私に向けられる。
「……助けて」
切れ切れの声が聞こえて、覚悟は決まった。
「無論です。アキラ様」
黒織は傘を畳んで、水滴を払う。
「なんだ? とうとうおかしくなったか?」
「いいえ。ずっと正気ですよ」
水滴を払った傘のボタンを止め、60センチほどあるその中程を掴んだ。
「黒織は、坊ちゃんの専属メイドです」
「それがどうした?」
「メイドの仕事は多岐にわたります。掃除、洗濯、炊事、運転、護衛、戦闘。この位の修羅場は何度もくぐり抜けてきました」
黒織は傘を肩の上まで持ち上げ、大股を開く。
「お前、何する気だ?」
「そんな生活を5年。一日も休むことなく続けますと、身も心も兵器のように仕上がるのです」
黒織は片腕を前に突き出し、距離を目算で測る。男は10メートル先のようだ。
背中に力を入れて、傘を折れんばかりに握りしめる。
「お、お前……まさか。いや、人間にそんな芸当ができるかよ!」
もっと乱暴に、男はアキラ様に掴みかかる。
「いいですか、小悪党」
黒織は、静かに目の前の男を睨んだ。
「メイドは、ご主人様にやれと言われたら。どんなことでも完遂するんです」
啖呵と共に振りかぶった傘は、風を切った。
それは矢のように、槍のように、流星のように空気を切り裂き、一直線に進んでいく。
一条の軌跡は吸い込まれるように男の銃を砕き、アキラ様の頬をかすめ、男の首元に突き刺さった。
「………ッッ……!!」
傘の勢いに引きずられるように、男は後方へ飛ばされていく。数秒の沈黙の後。夜闇と激しい雨の向こうで、どさり、と落ちた音がした。
「く、黒織ぃぃ!!」
アキラ様は黒織に抱きつき、顔を埋めてきました。濡れた制服の冷たさが、メイド服越しに伝わります。
「アレクサンドロスがどうこう言っていたのに、こんなに怯えて。まだまだですねお坊ちゃま」
「良かった……」
「はい?」
「お前が無事でよかった!」
そう言った彼の目元が赤くなっていたのを、茶化す余裕など私にはなかった。
目を逸らして、先程アキラ様が落とした傘を拾う。
「……帰りましょう、アキラ様。このままでは、風邪をひいてしまいます」
「ああ、ああ。そうだな」
二人で傘をさしあって、雨の降る帰路に就いた。
主なくしてメイド無し。彼だからこそ、黒織はメイドなのだ。