01 フォルモント家の毒
「お望みならば殺して差し上げましょうか、坊ちゃん」
重みのある低い――謎めいた声だった。
ぴたりと首に当てられた暗器の刃先は冷たく、彼女がその気になれば、自分の幼い細首などたやすく切り裂けてしまうだろう。
少年は冷静だった。命を狙われるのは日常茶飯事だった。親兄弟姉妹……彼の敵でない者はいない。
少年が生きるのは裏切りと謀略と死が蔓延する血の迷宮。ささやかな脅しには屈しない。
「馬鹿を言うな。僕は生き残る。絶対に死ぬものか」
少年は体をひねって彼女の腕から逃れた。
女は艶やかな黒い瞳をきらめかせ、少年を見守っている。
「いつだって言ってやる。……僕のメイドよ、跪け」
「はい」
ふわりと、女のスカートからこぼれたフリルが踊る。夢のように裾が広がり、彼女は両膝をついて恭順を示した。――床が「濡れている」ことなど気にすることなく。
指で彼女の顎を上向かせる。されるがままの彼女は、やや微笑んでいるようにすら見えた。
「ミナ、忠誠を示せ」
「はい」
メイドのミナは躊躇なく、少年の手を取り、甲に口付けを落とした。
「他はいかがいたしますか?」
今度は彼女が尋ねてきた。
そうだな、と少年はひとつ頷く。今はべたべたになった靴底が気になって仕方がなかった。
「おまえが撒き散らした返り血のせいで気分が悪い。早く帰って湯浴みしたい」
四方には先ほどからいくつものうめき声が立ち上っている。
「ルディさま、処分方法はいかがされますか?」
「任せる。首謀者だけ吐かせろ」
「それはもう検討がついております。第十七皇子レイモンドさまの仕業でしょう。襲ってきた者の中に裏社会で見た顔がおりましたので」
「そうか。……好きにしろ」
「それでは他に用もございませんし、口封じと参りましょう。……ごきげんよう、暗殺者のみなさま」
メイドのミナは優雅な一礼をした後に、ルディにはまったく見えないほどの早い動きで命を刈り取っていく。
ワルツのようななめらかなステップ。まるで日常の延長線上に「殺し」をやってのけている。
ミナ・フォルモント。
帝国の第三十四皇子ルディにたったひとりで仕えるメイドにして――古来より続く暗殺一族フォルモント家から世に出てきた傑物であった。
――いつか殺されるのならば。
――僕を殺すのはミナだろう。
ルディが運命に負け、死を願った時。ミナは容赦なく死神の鎌を振るうに違いない。
『お望みなら殺して差し上げましょうか、坊ちゃん』
ミナが死の選択肢をおもむろに示すたび、ルディは命がけの綱渡りをしていた。
――だが僕にもやらねばならないことがある。
そのためならば美しき女死神すら操ってみせよう。
単に「帝国」とのみ呼ばれ、周囲の国々を貪欲に飲み込んできたその国は、皇帝が絶対な権力を握る中、その下で骨肉の争いが常に繰り広げられてきた。
現皇帝の子は乳飲み子から成年にいたるまで、皇子が四十人、皇女が三十五人いるため、後継者争いは苛烈を極めている。
第三十四皇子のルディは踊り子の母から生まれた。宮殿の片隅でだれにも迷惑をかけずに生きてきたはずだった。
しかし、十歳になる前にルディは母とともに毒を飲まされた。母は死に、ルディは生き残ったものの、重大な後遺症が残った。
彼の体はその時から成長が止まってしまったのだ。
――母上を殺したやつを探し出して、復讐する。
ミナが現れたのは、母の墓前で佇んでいた時だった。
彼女は音もなくルディの背後へ回り込み、暗器の刃を首元に当てた。
「死にたいならここで終わらせて差し上げましょうか」
耳元で囁く声は、ルディを憐れんでいるようにも、蔑んでいるようにも聞こえた。
ルディは反射的にもがくのをやめた。
「死ぬなら、母上を殺したやつを死ぬほどいたぶって、死体を踏みつけてから死にたいね。地獄への道連れにしてやるんだからな……っ!」
「そうですか」
首に当てられた暗器が離れ、ルディは自由に息ができるようになった。
目の前には黒衣の女。体の線ごと布に覆われていて、表情がわからない。
彼女はやがて言った。
「そうおっしゃるのならば。殺すのはやめて、お仕えしましょう。私の小さなご主人様」
次に「ミナ・フォルモント」と自らの名を告げることになる彼女は両膝を折って、礼を取った。
これが、ルディの覚えている限りの、彼女との初対面である。
そして今――ルディは、自分の唯一の手駒となったメイドへ、新たな指示を出した。
「ミナ。異母兄レイモンドの身辺を洗え。手段は問わない」
幼いころのルディは気づかなかった。生きているだけで、だれかの邪魔になることに。無知なルディはそれで足元を掬われた。
ルディと母に毒を盛った犯人は今もわからないし、日常的に暗殺されかけている。暗殺をしかけてきた人物はさまざまだ――ほかの皇子皇女の外戚もあれば、反皇帝派の者もいた。
だが、異母兄レイモンドは、ルディと同じく「皇子」。それも有力な貴族の娘を母親に持ち、有力な後継者候補のひとり。ひさびさの「大物」だ。
――さて、おまえの正体を見極めさせてもらおうか。
ミナは「承知いたしました」といつものように請け負った。
ルディはミナの調査結果を待つことにしたのだが。
ささいな違和感に気づいたのは、ミナに命じてから数日も経たないうちだ。
朝、ルディの支度にやってくる時間が遅くなった。いつもはきっちりしている身だしなみも、わずかにだらしない。いつもはピンと張った襟が少しよれてシワができ、髪型にも乱れがある。
そのことを指摘すれば、彼女はこう報告した。
「坊ちゃんに申しつけられましたとおり、レイモンドさまにとりいっています」
「それでどうして朝の支度が遅れる原因になる」
「あの方はベッドからぎりぎりまで出してくれませんので」
さらっと告げた彼女は紅茶のポッドを持ち上げるために身をひねる仕草をした。その際に、首筋に小さな赤い発疹のようなものが見える。
それは明らかに情事の痕跡だった。
「おまえ……。あの男と寝たのか」
「そのほうがてっとり早かったもので。好色な方で有名でしたし。男というものは、ベッドの上では饒舌ですからね」
世間話の延長のようなミナの肯定に、ルディは腹の奥がむかむかする心地がした。
「言っておくが、レイモンドは調査対象だぞ。うっかり惚れるなよ」
ミナは何も言わずにただ微笑んだ。
レイモンドは女にだらしないことをのぞけば、文武両道、背も高く、見目美しく、人に慕われている男だ。彼を次期皇帝と見做している派閥もあるほどである。
代わってルディは痩せぎすで、派閥すら持てず、たったひとりのメイドを従えるだけの非力な皇子。陰気で黒魔術を嗜むという噂までたっていた。
皇帝の子どもの中でも、ルディは嫌われ者だった。レイモンドもルディと出くわしても話しかけないし、存在を無視してきた。
しかし、その日、回廊でミナを連れて歩いていた時、レイモンドと出くわした。
「ミナ」
レイモンドはミナを見つけると破顔した。
「昼間に君に会えるなんて幸運だな。また、夜が待ち遠しい」
「殿下。恐れ多いことにございます」
ルディの存在がその場にいないように会話が続いていく。
ミナはルディの知らない顔をしていた。
ぴんときた。
あれは、女の顔だ。ルディでは絶対に引き出せない、愛しい男を見上げる表情なのだ。
だがルディはふたりに割り込めなかった。
「君も私の元に仕えてくれたらいいのに」
「いえ、私はルディ皇子殿下にお仕えしておりますので」
「そうか。……それにしても惜しい」
レイモンドはここでやっとルディの存在に気づいたかのように、一瞥した。
憐れむように、口元が歪んでいた。
「ならば、この弟と勝負して勝てば私のものにおさまってくれるかな。男同士だ、剣の勝負はどうだろう」
――馬鹿な。
ルディは間違っても剣の扱いに長けているわけではない。数度振るだけで息が切れ、背丈も足りず、相手に剣先が届かない。
決闘ともなれば、見物客が山のように集まってくるだろう。衆目の中、レイモンドは、自分に恥をかかせるつもりなのだ。
「殿下。無茶なことをおっしゃらないでくださいませ。……また今晩に参りますから」
最後の言葉はささやくようだった。ミナはわずかにはにかんでいた。
君がいうなら、とレイモンドは残念そうにしながら引き下がる。
これを見て、彼もまた本気で言ったわけではないとルディは悟る。
「ミナ……。待ってる」
ルディとミナは通路の脇に立ち、レイモンド一行が通り過ぎるのを待った。
「ルディさま、参りましょう」
「あぁ」
ルディはやや早足で歩き出す。後ろをミナがついてくる気配を感じた。
「……行くのか、今夜も」
「はい」
彼女はさらに付け加えた。
「あのご様子では、案外、私も気に入られているようですね」
「そうだな。……よかったな」
「はい。仕事が進みます」
「いつまで続ける?」
「もう少しですね」
「それまであの男に抱かれ続けるのか」
すると彼女が目をぱちくりとした。不思議そうに首を傾げる。
「坊ちゃん、もしや嫉妬されているのですか?」
「……五月蝿いッ!」
自室の扉をメイドの鼻先で閉めてやった。
さらに数日後。にわかに信じがたい話が起きた。
レイモンドが腹上死したのだ。
共寝していた愛人が自分の下にいた皇子が痙攣し、動かなくなったと騒ぎ出したのが騒ぎの発端だった。
調査により、愛人が皇子の死に関わったとして捕縛され、速やかな処刑が行われた。
そして、一件落着。皇子の死は帝室にとって日常茶飯事なので、宮中は何事もなかったかのように戻った。
皇子の序列もひとつ上がり、ルディは第三十三皇子になった。
「……おまえ、何かやっただろう」
お茶の時間。ルディは窓辺のテーブルで、メイドに尋ねた。
ミナが関わってすぐに、レイモンドが死んだ。ならば犯人は彼女しかいない。今までの経験上、ミナはずっとそうだった。
彼女はポッドに紅茶を注ぎ、一匙分の味見をしてから、ルディに与えた。
「犯人は捕まりましたでしょうに」
「だがどうせ、何かしらの形で関わっているんだろう」
「はい」
からりとした声音で彼女は肯定し、報告をはじめた。
「私はレイモンドに遅効性の毒を盛りました。毒物についてはあまり詳しいことはお聞きにならないでください。フォルモント家の秘事のひとつになりますので」
捕まった愛人はたまたまレイモンドの傍にいただけだが、彼の他の愛人を卑劣な手で遠ざけたりしていたらしい。
「ならばミナも標的にされたのか」
「はい。……ですが、あんなかわいらしい小手先の行為で私を排除できるわけもございません。レイモンドさまもそれでさらに私を気に入ってくださったようですね」
「己を気に入っている男をおまえは殺したのだな」
事件はすでに解決しているので、きっと追及されることはない。
だが、レイモンドを殺せ、とまでは命じていなかったので、そこが解せなかった。
「おまえも気に入っているみたいじゃなかったか。……レイモンドとの情事は気持ちよかっただろう?」
これに対し、ミナはまたもや不思議そうにした。
「男を気持ちよくさせるためだけの行為なのに、自分が気持ちよくなるわけがないでしょう」
ぴしゃりと頬を叩かれた心地になる。
「坊ちゃんもいずれ奥方を娶られるでしょうが、肝に命じておいてくださいませ。相手を思いやる心がなければ、所詮、暴力なのです。場合によっては相手の尊厳を踏みにじり、支配する行為です」
「ミナ……すまない、言いすぎた」
彼女はルディに命じられたからこそレイモンドの元に行ったのに、なんて失礼な言い方をしてしまったのか。
これは嫉妬だった。たったひとりのメイドを取られたくないばかりにやってしまった。
――これでは一生、叶いっこないな。
この美しき女死神ならば、ルディの浅ましい心のうちまで見透かしているのだろう。
「反省すればよろしいのです」
ミナは微笑み、冷めた紅茶を取り替えた。
新しいものに口をつけて、一言。
「あら、こちらのカップには毒が入っていますね。さっさと捨ててしまいましょう」
ミナが「殺そう」と決めたのは、情事を終えた後のベッドの上だった。
裸身のミナを抱きしめたレイモンドが彼女の頭にキスを落としながら、「君が欲しいな」と呟いたからだった。
「あの悪魔にはもったいない。私なら今すぐにでも助けてあげられるのに」
悪魔。異国の血を引き、右眼に赤を持つルディは恐れられていた。赤目は暴虐を尽くした二代目皇帝と同じ色で珍しかったのだ。さらには。
『このお方が成人なされば、帝位におつきになるかもしれません』
流れの占い師のあやふやな一言で、ルディは権力争いの只中に放り込まれることとなった。そして、母親も失ったのだ。
ミナは声色を変えた。真実を引き出すために使う催眠術のひとつだった。これは、相手を油断させてこそ効力が高まる。
『ルディさまを狙う暗殺計画の概要は』
夢見心地のレイモンドはすらすらと小声で答えていく。
彼の話から全ての計画を頭に入れたミナは彼を眠らせるとベッドから出た。
ルディは彼が母親殺しに関わった可能性を考えていたようだが、やはりそれはなさそうだ。当時の状況を考えると、首謀するには若すぎた。
元のように服を着る。わざと隙を作るのはもうやめにした。
レイモンドの寝顔を薄暗闇の中で眺める。
頬に触れる。優しい口づけを、一度だけ。唾液を交換する。
ミナの口元に慈愛の笑みが浮かぶ。
――帝室に生まれさえしなければ、違う道もあったでしょうに。
「ごきげんよう」
ミナが仕込んだ毒はゆっくり効いていくだろう。今日で致死量は超えた。
フォルモント家の毒は、ミナ自身だ。
彼女の体液はさまざまな毒物を含んでいる。軽い摂取量ならば時間と共に分解されるが、致死量を超えたら複雑がゆえに、どんな薬でも解毒不可能だ。
しかし、対象者は気づかない。ミナの体液を甘いと評し、口にするのを好む者さえいた。
――かつて私は、過ちを犯した。
体液を盗られたことがあった。いや、騙されたのだ。
そして、その毒が巡り巡って――彼女の愛する人を殺めてしまった。
――ルディさまは、姉さんのたったひとつの「宝物」。
姉と慕った人の忘れ形見に仕えることにしたのは、彼に生きる意志があったから。
意気消沈していたならかわいそうだから殺して楽にしてあげたのに。
『坊ちゃん、もしや嫉妬されているのですか?』
『……五月蝿いッ!』
敵を欺くにはまず味方から。ルディも気づいていないはずないだろうに、ああも必死になって。
「……まだまだ青いですね、坊ちゃん」
人気のない廊下には靴音が響く。主の余裕のない顔を思い出し、ミナ・フォルモントはフッと頬を緩ませたのだった。