第7話 「もう懲りた」
程なくしてタクシーが目的地の公園前まで到着した。最初の宣言通り代金は俺の財布から支払った。約五分程乗って公園まで向かっただけで安い文庫本二冊分くらいの代金になった。やはりタクシーだけにバスや電車よりも高い。今度買おうとしていた文庫本の軍資金が消えてしまったのは残念だが、こういう状況なので仕方がないで済ませることにした。タクシーを降りた俺たちは公園の中へと入っていく。歩いていると、少し離れたところに見覚えのある長い黒髪の女性が見えた。彼女は辺りをきょろきょろと見て誰かを待っているようだった。過去の美玲だ。過去の俺が俺たちの前に立ってこちらを振り向く。
「無事に合流できそうです。その、さっきのタクシーでの言葉、すごくありがたかったです。本当にありがとうございました!」
過去の俺が俺と美玲に向かって深々とお辞儀した。すると美玲が過去の俺に向けてこう言った。
「良いのよあれくらい。まあ、頑張りなさいよ!」
俺も続けて返事をする。
「待たせなくて良かったな! じゃあ楽しんでこいよ!」
過去の俺は自信に満ちた顔で頭を上げて、過去の美玲の方へと駆けて行った。
「ねえ、駅に戻るのは二人の様子を見てからにしない?」
美玲が過去の自分たちの様子を見ながら提案してきた。過去の俺に正体がバレないように変えていた声の出し方は普段通りのものに戻っていた。丁度、過去の自分たちが合流できてお互い笑顔で話している。彼女が提案についてこう付け加える。
「邪魔をするのはもう懲りた。ただ、こっそり追いかけて見るだけにする」
俺は普段通りの声の出し方に戻して返事をした。
「急だな。でも、わかった」
俺たちは過去の自分たちをこっそり追いかけることにした。
過去の俺たちは合流すると、ゆっくりと公園の中を散策した。この街の中では一番大きい公園で、全体を一周するにはそれなりの時間がかかる。この日の俺たちは約二時間くらいかけて園内の舗装された並木道を一周したのだった。その様子を俺たちもゆっくりと付いていきながら見ている。時刻は大体午後十四時半。この時間に着いた頃よりも気温が上がって暑苦しい。
過去の俺たちはこの暑さをもろともしないような調子で歩きながら楽しげに会話をしているようだった。その様子が今の俺にとってはあまりにも眩しく見えた。歩きながら俺は横で一緒に歩いている美玲にさっきから抱いている疑問を投げかけた。
「どうしてもう懲りたんだ? 美玲らしくない気がする」
美玲は一度決めたら自分が納得するまで止まらない人である。そんな彼女がどうして引き下がったのか。珍しいことなので俺は妙に気になった。美玲は歯切れが悪そうにこう答えた。
「そうね。簡単に言うなら、さっき過去の健太を足止めしようとした時に過去の君は、このまま離してくれないと俺、大事な約束にって言ったでしょ。そう言った過去の君の切実さに私は申し訳なさを感じてしまった。ああ、なんか悪いことしちゃったなって」
「その悪いことをするためにこの時間に来たのにか?」
俺がこうツッコミを入れると彼女は髪の毛をぼさぼさと掻いて、笑っているようにも悔しそうにも見える表情を浮かべた。
「そのはずだったのにね。初めはやるならとことん邪魔してやると思ってたのに、いざやってみると心苦しかった。こういう人の邪魔をすることには向いてないみたい私」
俺は目線を並木道の先の方に向ける。
「そうかもな。俺も、美玲が人の邪魔をする様な事をするのは向いてない方だって思う。悪い事をするにはやっぱりそれなりに悪い事をするための才能みたいなものが要るんだろうなきっと。でも、そうやって自分のしようとした事を悪かったなって思えるところが美玲の良いところなんじゃないか。多分、優しいんだよ美玲は」
彼女は歩みを止めて俺の方を向いたようだった。俺も歩くの止めて目線を合わせる。彼女はくすくすと笑ってから奥ゆかしい笑顔でこう言った。
「ありがとう」
彼女は再び歩き出した。俺もそれについていった。
歩き出して一時間くらいが経ったところで過去の俺たちは園内にあるカフェへと入っていった。俺たちも少し間を空けて入店する。過去の自分たちから離れたテーブル席に俺たちは座った。美玲と正対する。俺はなんとなく心地が悪くて目を逸らし気味にした。彼女はメニュー表を見るなりすぐに頼む物を決めたようですぐに手を挙げて店員さんを呼んだ。俺も慌ててメニューに目を通してさっと決める。すぐに店員さんがやってきて最初に美玲、次に俺という順で注文した。
頼んだ物はバラバラだった。一方で過去の俺たちの方に目を向けると二人でメニュー表を眺めてなにを頼もうかと未だ悩んでいた。こういう飲食店での頼む物の決め方一つとっても自分たちの変化をまざまざと感じさせられる。この日から一年ちょっとで自分たちはこんなにも変わってしまったのかと思うと心の中が変にざわついた。
俺たちは頼んだ物が届くまで何も喋らなかった。過去の俺たちはその逆で、注文を済ませてからもずっと喋っていた。少したってこちらの席の方が先に頼んだ物が届いた。二人分どちらも届いたので最低限いただきますを二人で済ませると俺たちは無心になって食べたり飲んだりした。それらを味わう余裕は無かった。過去の俺たちはというと頼んだ物が届いて食べ始めてからも何かをずっと喋っていた。
「あの状況を体験したはずなのに、当時あそこで何を話していたのか忘れちゃったな」
美玲がジュースを一口飲んでグラスを置いたタイミングでこう言った。
「同感。あそこで何を話していたんだっけ俺たち」
美玲は歯痒そうにこう続けた。
「この日君と話したこと、全部覚えておこうと思っていたのに。一年経って忘れているなんてね。大事なはずの思い出すら忘れてしまう私自身が嫌になる。こんなにあっさりと思い出って消えてしまうのね……」
俺は咄嗟にこう言い返した。
「頼むからそんなに自分を責めないでくれ。俺だって、この日有ったことを忘れないって決めてたのに、気づいたら記憶の中からどんどん思い出が抜け落ちていたんだ。こうやって、楽しかった思い出が無かったことのようになるんだな……」
俺はジュースを一口飲んだ。かつての俺たちは食べながらとても楽しそうに話しているというのに。俺たちのテーブルには食べ終わって空になった食器たちだけがあった。
過去の俺たちが食事を済ませてカフェを出たのは入ってから四十分くらい経ってからだった。俺たちもそれに合わせて店を出ようと支払いを済ませることにした。自分で頼んだ物の代金を払ったら財布の中が空になってしまった。店を出て近くに有った時計を見る。時刻は午後十六時過ぎ。過去の俺たちはまた歩き出した。確か、食後の俺たちは園内の湖のほとりに向かっていったはずである。俺と美玲は引き続きかつての自分たちの後を追いかけた。
程なくして記憶通り、過去の自分たちは湖のほとりに到着した。それほど綺麗な湖ではないのだが、大きさはあるので、この辺りの学生のデートコースとしては定番だった。過去の俺たちは芝生の上に座り込んだ。俺たちも少し離れたところにあったベンチに腰掛ける。会話は聞こえないが二人で大笑いしている様子が見えた。はじめは少し距離を空けて座っていた過去の俺たちだったが次第に距離が縮まっていった。程なくしてどちらからともなくお互いの手を握り合った。それが俺たちにとっての重要事項だった。
「私、この時、健太にちゃんと惚れたんだと思う」
右横に座っている美玲が懐かしむように言った。
「俺もそうだった。この時、手を繋いで、美玲のことを良いなって本格的に思った」
過去の俺たちは手を繋いだきりお互いのことを見つめ合って動かなくなった。キスはしなかった。だが、俺たちにとってこの瞬間はかけがえのないものだった。残念ながら今の俺たちにとっては遠い昔のことである。