第10話 「こんなに周る余裕、無かったな」
時刻は午前十一時半前後になって俺たちは大学へと到着した。この日は文化祭の初日。文化祭は既に始まっていた。
「離れるなってことなら、今回はしっかり離れないようについてきて」
キャンパス内に入ってすぐに美玲にこう言われたので、俺は頷いた。
「わかった。俺だって同じ轍は踏まないさ」
今回こそは、である。美玲が歩く速度を早めたので、俺もそれに合わせた。
キャンパス内は人で溢れかえっている。道沿いには屋台が所狭しと設置され、食べ物から飲み物、アクセサリーまでありとあらゆる物が並んでいる。
通行人たちの中にはピエロの格好をした男性やチャイナドレスを着た女性たちが自分たちの出展内容を宣伝しようとチラシやパネルを持って頑張っている。ここから少し離れた所にはメインステージが設置されている。この文化祭のために広場に作られた物だ。そのステージの上では何かの催しが行われている。登壇者たちが何をしていてどんなことを言っているのかまではわからなかった。
俺と美玲は人だかりの中をはぐれないように距離をできるだけ近づけて歩いていく。そうしているとどうしても恋人みたいな距離になってしまう。彼女に振られてしまった手前、気をつかってしまう。そういう気持ちなものだから手を繋ぐことができない。本当なら、この混雑具合で離れないようにするには手を繋ぐくらいしても良いのかもしてなかった。
前方を行く美玲は一体どこに向かっているのだろうか。それについては何も聞かないまま俺は彼女の後ろをついていく。美玲はやがて、講義棟の中へと入った。棟内も人の行き来が激しく常に人とすれ違う。ところが、階を上がるにつれて人気がなくなってきた。美玲が向かっている場所がなんとなくわかった。なので、俺は美玲の横に追いついて話しかける。
「読書サークルに行くんだな?」
美玲は頷いた。
「ええ。それ以外に目的地がある?」
彼女は至極当たり前だとでも言いたげだった。
「そう言われると無いな」
俺たちが所属する読書サークルは毎年メンバーが直近一年間の中で各自読んだ本を紹介するという企画を行っている。メンバーの内何人かはレビューを執筆し、それらをまとめたサークル誌を発行して一部二百円くらいで販売したりもしている。
俺たち読書サークルにあてがわれた出展場所は大学内でも辺境の地であった。この講義棟の中でも、日が当たらず普段誰も使わない最上階の一番端の小講義室。中に入ると薄暗い部屋の中に何人かの見知った顔が店番をしていた。
読書サークルのブース内は、至ってシンプルなテーブルの配置をしていた。部屋の真ん中あたりで長机四つを縦にくっつけて並べている。その長机の上にはメンバーが読んだ本やサークル誌の見本が置かれている。
これらの様子を見て俺はこの文化祭が去年のことだというのに何年も前の出来事みたいに懐かしく感じられた。それは美玲も同じようなことを考えていたのかブースの様子を見て「懐かしい」と独り言を呟いていた。それから程なくして美玲は俺の方を向いて小声でこう言った。
「確か、この後が大変だったのよね」
俺もそれに応じて小声で言葉を返す。
「ああ、そうだったな」
この時点では、俺たちの出展は人の入りが悪かった。今この瞬間でさえ、お客さんは俺と美玲だけである。つまり、今、本来ここはお客さんが誰もいない時間帯だったのだ。だが、この後恐ろしいことにこの部屋が多くの人でごった返すことになった。そのせいで午後から店番をすることになっていた俺と美玲、それに樹や紗良さんは大変だったのだ。
理由は至極簡単だ。それまでやってなかったことを初めてやったからだった。美玲は話の続きを切り出した。
「去年、最初に朗読会をやろうと言ったのは誰だったっけ?」
そう、俺たちの読書サークルは去年初めて文化祭の企画の一環で朗読会を開催した。その結果、この小講義室が人で溢れたのだった。俺は美玲からの問いかけに対してこう答えた。
「確か、矢口だったと思う」
「ああ、矢口くんか」
美玲の声に急に怒りが籠る。俺だってそうだ。矢口に対しては色々言いたいことがある。それの理由については美玲が言った。
「矢口のやつ、結局本番二日間とも来なかったのよね」
あいつは俺たちに色んなことを提案して負担を増やしたくせに本番はいなかったのだ。本番二日間を留守にした理由はわからない上、本人と二〇二三年十月末以降会っていないのである。結局謎のままである。それでも、彼が提案した朗読会というのはやってみると案外好評だったので、結局この翌年、つまり俺たちにとっての今年も実施したのだった。
室内の時計を見ると時刻は十二時過ぎになっていた。俺たちは一旦この小講義室を後にし、朗読会が始まる十四時直前になったらまた様子を見に行くということになった。講義棟を出て、キャンパス内を二人でうろつく。一時間くらい回ったところで俺たちはお腹が空いた。なので、丁度近くにあった焼きそば売りの屋台で俺は二人分の焼きそばを買った。二つ買った内の一つを美玲に渡す。
「わざわざありがとう」
美玲はありがたそうにそれを受け取ってくれた。たまたま空いていたベンチに二人で腰掛けて焼きそばをいただく。
その焼きそばは、失礼な言い方かもしれないが、ソースの濃さが濃ゆ過ぎず薄すぎず、麺がもちもちとしていて普通に美味しかった。可もなく不可もなくという味わいなのが丁度良かった。それを食べていると美玲は遠くの方を眺めてまたしてもぽつりと独り言を言った。
「去年の私たち、こんなに周る余裕、無かったな」
俺は麺を食べる手を止めて同じ方向を向いた。確かに、当時の俺は初めての大学の文化祭で右も左もわからず、あまり満喫する余裕が無かった。この前の二〇二四年での文化祭も結局サークルの出展で忙しくてそれどころではなかった。
今、こうして一お客さんとして文化祭を体験すると、色々なものを見る余裕があった。俺の目の前はとても賑やかだ。この賑やかさが俺は好きなのだと今になって気づいた。俺たちはそれから、焼きそばを食べ終えるまで無言だった。
焼きそばを食べ終えてから、俺たちはしばらくあちこちを巡った。そうこうしている間に時間はあっという間に過ぎていよいよ午後十三時半になっていた。
「そろそろだな」
俺は前方を歩いている美玲にこう告げた。美玲はこちらを振り向いて頷く。俺たちは再び読書サークルのブースへと向かう。その道中で思いがけないことが起きた。朗読会開催を宣伝するプラカードを掲げた魔法使い姿の樹と出会した。
この樹は二〇二三年当時の樹だが、俺は思わず彼の様子を見てしまった。すると目が合ってしまった。サングラス越しなので、多分向こうは俺たちだとは気づいていないだろう。樹の方から声を掛けられた。彼の表情はどこか不安げである。
「すみません、読書サークルの者です。あの、実はですね、宣伝で困っていまして。手伝って頂けないでしょうか?」
予想外の提案である。俺は咄嗟に美玲の方を見る。彼女は呆れたような様子で無視をした。樹が話を続けてくる。
「俺も派手な格好をして目立つようにはしているんですが、その、お二人といるともっと目立つかなと思って……」
俺は再び美玲に目を向けた。彼女は指でオッケーのサインを出してきた。どうやら、手伝ってやろうという判断だった。俺は出せる限りの低い声を作って返事をした。
「良いですよ。手伝います」
樹は途端に明るい表情になった。
「ありがとうございます!」
まあ、これくらいの手伝いなら、歴史の流れは大きく変わらないだろう。俺は樹からプラカードを受け取ると三人で一緒にキャンパス内を練り歩き始めた。