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04

 室内にはテレビの音だけが響いていた。海外の野球中継をしており、そこで活躍する邦人選手を大きく取り上げている。

 我に返った雪は、ドアを開けようと手を伸ばすが、龍一がその手をつかむ。

「何しようとしているんだよ」

「だって、ここにお父さんが来たってことは、もう――」

「早まるな。ちゃんと状況がわかるまで、軽はずみに動いちゃいけない。僕が応対するから、雪は後ろにいろ」

 もう一度、ドアスコープからその姿を確認する。眼鏡の奥の厳しい顔つきと、休日にも関わらず背広を着込んでいる姿が、ここへの訪問目的を明確に物語っているように思えた。ドアをひとつ挟んだ室内外に、寒気のする緊張感が張り詰める。

 蛍は、この事を知っているのかと思い立ったところ、その蛍から電話が掛かってきた。そして、電話に出るなり、

「もしもし、龍一? 今、どういう状態?」

 過程を全て飛ばした一言が、蛍から紡がれた。このタイミングで、ここまで一直線だと、かえって清清しい。だから龍一もそれに応える。

「蛍のお父さんと、ドアを挟んで対立している状態だ」

 携帯端末の向こうで、盛大な溜め息が聞こえた。予想通りといわんばかりの蛍の呼応に、龍一は推察する。

「蛍、もしかして、雪が僕のところにいることを、お父さんに喋ったのか?」

「ち、ちがう!……い、いや、ちがわな……じゃなくて! その……」

「落ち着け、蛍! 今は目の前の問題を解決する。しばらく電話できないと思うから」

「待って、切らないで! ちゃんと聞いて!」

 誤解は嫌とばかりに、蛍は一部始終を話した。


 午後三時過ぎの電話の時、蛍は自室で話していたのだが、その会話の内容を、偶然父親に聞かれてしまっていたという。母親も一緒になって雪の居所を詰問してきたが、蛍は決して喋ろうとはしなかった。重苦しい雰囲気が長く続いたが、

「リュウイチとは誰のことだ?」

 という父親の一言が皮切りとなった。蛍の話していた電話内容で、その名前を思い出したのである。これに答えたのは母親だった。沢渡の両親と、何度か面識を持っていた龍一は、父親の方には忘れられていた(というよりも相手にされていなかった)が、母親の方には娘の男友達として、きちんと認識されていたのである。

 龍一という個人名を特定されてしまった以上、そこから調べを付けられるのは必至であったため、蛍は全てを喋った。そして、なぜ雪が出て行ったのか、龍一がどれほど雪のことを考えてくれているのかを強く訴えたのである。

 だが、蛍の訴えは父親に届かず、調べを付けた父親は、そのまま、さくら荘へと足を運んでいった。残った蛍は、母親に延々と説教を受け、家から出ることすらできなかったのである。


 蛍の事情を聞き終えた龍一は、特に思うところもなく、返答する。

「なるほど、そういうことだったのか……まぁ、気にしないで。いずれバレることだったんだ。それが今日になったってだけだよ」

 何かを言おうとした蛍に被さるように、チャイムが再び鳴らされた。

「おっと、敵軍のバッターから作戦タイムが長いってクレームが来たようだ。もう切るぞ。大丈夫、うまくやるよ」

 こうして状況把握の終わった龍一は、強打者と相対するためのマウンドに上っていった。

「はいはい、どちらさまですか? 球種なら教えませんよ」

「……君が室瀬龍一くんだね? ドアを開けて雪を出しなさい」

 野球談議を一蹴した沢渡の父親は、ドア越しから命令した。年長者にものを言わせた見事な態度に、龍一も感心する。

「名前も知らない相手の言う事を聞く気はないですよ、沢渡氏」

「ふざけるな! 名前を知ってるじゃないか!」

「フルネームを知っているわけじゃないですからね。なんなら、お父さんと呼びましょうか?」

「貴様にそんな呼ばれ方をされる筋合いはない! いや、そんなことはどうでもいい。さっさと娘を返せ!」

 雪が背後で震えている。父親の恫喝に脅えているのか、龍一が責められていることに堪えかねているのか。おそらく両方だろう。

 龍一は雪の肩に手を置いてから、再び沢渡氏に向かった。

「いいんですか、沢渡氏? そんなこと大声で言っても。いろんな意味で世間体が気になるんじゃないんですか?」

 その言葉に、沢渡氏は逡巡する。娘が男の部屋に入り浸っていると自分から公言していることに、恥辱を覚えた。

 やがて様々な方向からドアが開けられる。さくら荘の住人が騒ぎに反応し始めたのだ。

「ちょっと、あんた。一〇四号室に何の用だ? 変な事してると警察呼ぶぞ」

「やだ、もしかしてヤミ金か何か?」

 一〇五号室の住人、森野伸二と井川貴子が出てきた。二十代前半の男女から、不審な眼差しを向けられた沢渡氏は、一歩あとずさったが、

「森野さんですか? 大丈夫、その人は不審者ではありません」

 一〇四号室内からの龍一の言葉で、身の潔白を証明されてしまった。

「沢渡氏、僕に後ろめたいことはありません。だから、あなたに電話番号を教えます。続きはそちらで話しましょう。今はここから立ち去ってください」

 ドアの隙間から差し出された紙片を受け取り、沢渡氏は足早に去っていった。

「龍一、あの人は、いなくなったぞ」

 森野の確認によって、龍一は表に出る。さくら荘の親しい隣人に対して、余計な手間を取らせたことに謝辞を述べていると、雪も後に続き、お辞儀をした。

「あらあら、まあまあ」

 井川が、含みのある笑みを浮かべ、困ったことがあったら何でも相談に乗るわよと妙な張り切りを見せた。森野も喜色満面でいる。温かいのか、生温かいのか、理解しがたい雰囲気だった。


 部屋に戻ると、ほどなく電話が掛かってきた。第二幕が始まったのである。

「沢渡氏ですか?」

「……雪に代わってもらおうか」

「前置き無しで話を進めるの、遠慮してもらえませんか? やりづらくって、しょうがないんですよ」

 電話口からでも、憤慨する様子が伝わってきたが、大人の冷静さを発揮した沢渡氏は押し留まる。そして改めて雪との会話を礼儀に則って要請してきた。龍一も、親子の会話から解決の糸口を見つけられれば幸いと判断し、雪に携帯端末を渡した。

 だが、その内容は帰ってこいの一点張りだった。雪が何を言おうと聞く耳を持たず、同じ文言を何度も繰り返す――その様子に、龍一も結論をまとめた。

「もしもし、電話を代わりました」

「何のつもりだ! まだ雪との話は終わっていない!」

「沢渡氏、雪は……雪さんは、あなたに殴られたことがショックだったんですよ。物理的にも精神的にも。それを謝るなり労わるなりといった関係修復をしようともせず、ますます悪化させて、どうするんですか」

「子供が、さかしげなことを言うな! これはうちの問題だ。他人が出しゃばってくることではない!」

「雪さんは僕を頼ってきたんです。僕には、その信頼に応え、雪さんを守る責任があるんですよ。家に戻れば理不尽な仕打ちが待っているとわかっていて、どう快く帰せというんですか」

 だが沢渡氏の主張は、雪の時と同様、帰らせろの一点張りとなっていった。挙句に、警察を呼ぶと言ってきたが、龍一は気にしなかった。民事不介入を原則とする警察が、家庭内のいざこざに動かないことを知っていたし、何より身内の恥を世間に公表するような真似を率先してやるとは思えない。世間体を気にする姿勢は先程で証明済みである。

 その後も龍一は、涼しく受け答えを繰り返し、開始からすでに一時間以上が経過した。

「ええい、さっきから屁理屈ばかり並べ立てて……雪に何かあったら、どう責任を取るつもりだ!」

「別にどうもしませんよ。何を言っているんですか?」

「ななな、なんだと! 貴様、まさか雪を……」

「勘違いしないでください。僕はあなたから雪さんを託されたわけじゃないんです。だからあなたに対して責任を負う必要はないんですよ。僕が責任を負うのは、僕を頼ってきた雪さん、そして僕自身の信念に対してのみです。そこだけは、はっきりと覚えていてください……そろそろ電池が切れそうなので、今日はここまでです。また電話をしてきても構いませんが、いきなり怒鳴ったり、一日に何件も間断なく掛けてきたり、この日を境に僕が不穏な空気を感じた場合、沢渡氏からの連絡は予告なく遮断しますので」

 通話を切った龍一は大きく息を吐いた。右耳が熱を持っているのがわかる。

 雪も熱のこもった視線を龍一に投げかけていた。呆然とも憧憬とも取れる瞳は、今まで目の当たりにしたことのない光景に対するものだろう。なにより、そこまで自分を大事にしてくれる姿勢が、純粋に嬉しかった。

「蛍にも電話をしないとね。さすがに疲れたから、もう少し経ってからにするけど」

 食器を片付けようとする龍一を雪は制し、休憩するようにと勧めた。龍一もそれに従い、携帯端末を充電器に差し込んで、くつろぐことにした。その間に、先程のやり取りを振り返って考える。

 娘を想う親の気持ちというものがある。だが親としての責任を果たしていない者にも、想う資格はあるのだろうかと。

 テレビに視線を向けると、すでに野球は終わっており、別の番組が流れていた。


(続)

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