03
蛍との話が長引いてしまったので、龍一は急ぎ足で、さくら荘に戻ってきた。
雪には、誰が来てもドアを開けないようにと言っておいたので、龍一はチャイムを鳴らさず、いつものようにドアに直接鍵を入れる。
「ただいま」
ドアを開けたところで龍一は二つのことに気づいた。
一つは、ただいまと言って自分の部屋に入ったことだった。何年間も使っていなかった習慣なのに、中に人がいると思うと、その言葉が自然と出た。
もう一つは、今、部屋にいるのは一人の女であるということだった。今までのように男一人でいる時とは違う。だから雪が背肌をさらした状態で首を回し、龍一と目が合った時、両者の時間は止まった。
「ご、ごめん!」
最初に時間を動かしたのは龍一だった。弾けたように外へ出て、閉めたドアに背もたれながら座り込む。心地良い秋風が吹いていたが、龍一の脳を冷やすには至らなかった。
「……もういいわよ、龍一くん」
着替え終わった雪が、ドア越しから呼びかける。改めてドアを開け、固い足取りで中に入ると、雪が顔を赤くして、うつむいていた。
背中とはいえ、上半身裸の雪を直視してしまったことに、龍一は気まずさを覚え、お互いに沈黙する。状況が状況とはいえ、ノックもチャイムも無しに入ると、思わぬ事態を引き起こしてしまうことを知った。
昨日は、使命感にも似た思いから雪を泊めたが、今更ながら異性と同居している事実に、龍一は動悸を早め、意識を深めてしまう。なんとか意識を別に向けようとして、所在無げに部屋を見渡していると、いつもと違う清潔感が満ちていた。
「あれ? もしかして掃除してくれたの?」
「う、うん……龍一くんがいない間、特にすることもなかったし。それに今のわたしには、これくらいしかできそうになかったから。でも、元からそんなに汚れていなかったから、手の込んだ掃除は……」
「何を言っているの、とても丁寧にやってくれたじゃないの。僕も掃除は定期的にやっているけど、隅っこやテーブルの下は、めったにやらないし。そういう細かいところが綺麗だと、やっぱり違うね」
それとなく目に付く場所が綺麗にされていると、全体の雰囲気が変わる。几帳面な雪の性格の顕れだった。汗をかいたため、裸になってタオルで拭き終えることで、掃除の全過程は完遂されたのだが、それは龍一によって阻まれた。
昨日は緊急性から、寝床の用意と、今後の大まかな方針を打ち出したのみで終わったので、今日から具体的にどうするかを考えなくてはならなかった。
「今回はマスターに頼んだけど、これからは自炊しないとな。偏らない食事っていうものを考えないと」
「あ、あの……わたし料理もがんばるから、その……」
「だ、だから、そんなに重く考えなくていいって。ほら、食べよ」
昼食を並べながら龍一は、雪を制する。どうも雪は、すぐ思い詰める傾向がある。物事に対する決心を固めるのに、多少なりとも必要な傾向かもしれないが、行き過ぎた自己犠牲精神に陥りやすいのではと危惧し、龍一は不安を覚える。
「そうそう、トマリギで蛍と会ったよ」
「え? 蛍がいたの?」
「いや、僕が電話で雪のことを話したら、すぐにやって来たんだ」
食事を終えると龍一は、先程の蛍とのやり取りについて語った。
話の内容から、蛍がどれだけ心配していたのかが理解でき、雪はそっと目を閉じる。また思い詰めてしまうのではと思ったが、そこから重い雰囲気は流れてこなかった。まるで蛍なら、そうするだろうことをわかっている様子だ。
これが双子の、姉妹の、信頼性や共感性といったものなのだろうか。妹と過ごしたことのない龍一には、想像することすら難しかった。
今後の方針と夕食のメニューがまとまりかけたところに、蛍から電話が掛かってきた。
「おはよう、蛍。もういいの?」
「おはよう、龍一……って、もう三時過ぎよ。今どこ?」
「自分の部屋だよ。雪もいる。ちょっと待ってて。今、代わるから」
龍一は携帯端末を雪に差し出す。戸惑いながらも手に取った雪は、緊張な面持ちで端末を耳に当てた。気兼ねさせないため、龍一は少し離れて雪を窺う。時折、垣間見える笑顔が愛らしい。
こんな良い姉妹がいるのに、なぜ両親のケンカは絶えないのかと疑問に思う。沢渡夫妻も、結婚して子供もできているのだから、幸福に包まれているはずである。よく、人の想いは常に変わるものと言われたりもするが、そんな一言で簡単に済ませていい問題でもない。
「……うん、わかった。そんなに心配しないで、わたしは大丈夫だから。じゃあ、龍一くんに戻すね」
端末を受け取り、再び聞いた蛍の声音は柔らかいものとなっていた。蛍の安堵が想像できる。
龍一は、これからの事と、それに関する具体的な要求をした。今日は三連休の初日。休日が明ける前にケンカが終わっていればいいが、学校が始まってからも続く可能性が高い。これは今も両親の身近にいる蛍の率直な感想だった。
「雪の制服やカバン、教材なんかを持ってきてほしいんだ」
突然の長期欠席は周囲に余計な勘繰りを与えかねないので、雪には、できるだけ今までの日常を再現してもらう。当面は学校生活を滞りなく過ごすための一式があればいい。ちなみに昨日の時点で、雪個人の携帯端末はもちろん、靴も無い状態であったことが、雪の恐怖と狼狽のほどを物語っていた。それらの持参も蛍に忘れず伝えると、ほどなく了承の返事がきた。
「わかったわ、それらは持ってくけど……ねぇ、ずっと気になってたんだけど、雪の着替えとか、どうしてるわけ? 替えの服や、その……下着とか、ないんじゃないの?」
その点について、すっかり失念していた。それと同時に、鮮明に思い出してしまった。雪の、白くて綺麗な背中のことを。
「ちょっと、龍一? どうしたのよ、急に黙っちゃって。あんたまさか変なこと考えてるんじゃないでしょうね」
蛍の鋭い呼びかけに、龍一は我を取り戻し、半開きになっていた口を閉じる。今は妄想に浸っている場合ではなかった。
「そ、そうだな……栞先輩にでも相談してみるよ。事情を話せば、着ていない服を譲ってくれるかもしれないし」
とっさの発想を口にした龍一だったが、適当に言ったわけではなかった。ひとつ年上で、学校の先輩でもある工藤栞とは、蛍と雪に出会う前から知り合っており、いわゆる幼なじみである。
龍一の流れから、栞は、蛍と雪とも顔見知りであるのだが、
「ちょ、ちょっと先輩に頼もうとしてたの? お願いだから、そんな厚かましいことしないでよ。うちから雪の服をいくつか持ってくから」
「でも蛍だって大変だろ? 荷物が、かさばってさ。こっちで用意できる物は、こっちで整えるよ」
「いいのよ、龍一はそんな心配しなくて。あたしが面倒くさがってるなんて思わないでよね。これも雪のためなんだから」
と、いささか妙に張り切る蛍だった。龍一と栞が気兼ねない間柄といっても、やはり学校の先輩に頼るのは気が引けたのである。
すぐに荷物を持っていくと言い、蛍は通話を切った。
「蛍が来るの?」
「うん。明日以降でも構わないって言ったんだけどね。まぁ、自分の目で雪の姿を確認したいって言ってたし。本当に雪のことが心配だってことだね」
龍一の指摘に雪も照れてしまった。
近いうちに、雪には両親に対して、友達のところに厄介になっていると言ってもらう。息災であることは伝えないと余計な心労を与えかねない。また、名前から調べられて、さくら荘に乗り込まれたり、待ち伏せされても困るので、龍一の名前も伏せておく。
「あとは、どうすれば雪が戻ってくるかを、両親が自発的に考えてくれればいいんだけど……他人の財布は当てにするなって言うからね。こればかりは気長に待つしかないか」
夕食に作った肉野菜炒めを食べながら、龍一は基本方針の確認をする。
「……やっぱり塩コショウを掛け過ぎたかな」
「そ、そんなことないわよ。おいしいわよ」
そう雪は言うが、水を多く飲んでいる姿に説得力は欠ける。
ネットで手頃なレシピを検索し、雪と一緒に作った料理は、調味料が優先的なものとなった。
食後は、テレビの野球中継を流しながら、雑談に興じた。
「それにしても意外だよね。今まで蛍と雪が同じクラスになったことが一度もないなんて。双子は同じクラスにしないって校則でもあるのかね」
「ど、どうなんだろうね……でも逆に龍一くんは蛍とずっと同じクラスなのよね」
「あ、そういえば。あまり考えなかったな、そういうのって。雪はどうなの? ずっと同じクラスの人っている?」
「えっと……濱崎さんでしょ? あっ、稗田くんも、そうかな。あとは――」
これまで雪と二人きりでじっくり話をすることは、ほとんどなかった。近くて遠かった互いのことを知り合うのは、新鮮であり、楽しくもある。
学校のクラスでのこと。普段見ているテレビのこと。それぞれの趣味のこと。
話の尽きない中、チャイムが鳴らされる。
「蛍かな? ずいぶんと遅かったな」
電話で、すぐに行くと言ってから、すでに四時間以上が経っていた。果断な蛍らしくないと思いつつ、龍一がドアスコープを見ると、そこにいたのは蛍ではなかった。
「雪、ちょっと見てくれないか?」
龍一は手招きをし、雪と立ち位置を変える。すると雪は、見開いた目を、さらに見開いた。
ドアの前に立っている人物の顔に、龍一は見覚えがあった。といっても過去に数回しか会っていないので、記憶は曖昧である。だから雪に確認させてみたところ、解答が発せられた。
「お父さん!」
(続)