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 雪だけでなく、蛍まで奪われる。沢渡夫妻は、そのような危機感を募らせた。

 龍一が療養生活を始めてから、蛍は看病のためと称して、毎日さくら荘に通うようになった。彼が怪我をしたのは蛍のせいではないのに、なぜそこまでする必要があるのか。

「あたしが好きでやってるんだから、いいでしょ?」

 蛍は両親に、そう答えた。何気ない一言だったが、その受け止め方は微妙に違った。「好きで」の前に置かれる言葉を、母は「世話をするのが」と捉え、父は「龍一のことが」と捉えたのだ。

 あの、いけ好かない男に、娘が全員篭絡されてしまう――それは父親として、自分が毛嫌いする相手に対して、どうしても受け入れられないものだった。

 母親も、龍一のことを許容しているとはいえ、二人ともとなると話は変わってくる。女性の立場から二股というのは、生理的にも論外であった。

 加えて、体育祭での事件後、被害者の龍一に注目が集まったことから、蛍と雪の通い詰める風景が目に付かれるようになる。看病のためとされているが、そこから良からぬ想像を働かせる者もおり、その手の風聞が両親の耳にも入り始めていた。

「私たちが悪かった。雪と話がしたい。話し合いの場を設けてくれないか?」

 父から蛍は、そう懇願され、トマリギで雪と両親が会合するようにセッティングしたのだった。

 つまるところ、世間体に負けての歩み寄りである。だが動機はどうあれ、修復を成し遂げられる絶好の機会がやってきたのだ。

 龍一を放置することもできないので、蛍は同席を見合わせたが、マスターも事情を理解してくれている。両親がおかしな行動を取るものなら適切に対処すると約束してくれた。

 長い話し合いの結果、雪は自宅に帰ることを決める。現実問題として、いつまでも龍一の厄介になるわけにはいかないと思っており、また両親の反応から、これまでのような険悪さも薄れていると感じられたからである。

 ただ、娘たちを無事に取り戻せて万々歳だ、という表情で安心しきった両親が癪だったので、何かあったら、すぐに龍一の元に戻ることを強調しておいた。それが効いたのかは知らないが、戻ってきたら家族で食事に行こうと、まくし立てるのであった。


「なるほど。雪が必要悪となって仲直りさせる目論見だったけど……いつのまにか、必要悪は僕になっていたわけだ」

 話を聞き終えた龍一は、そう結論付ける。自嘲めいた物言いに、蛍は気遣わせな表情を浮かべ、龍一のおかげで問題が解決したことを、殊更に強調したのだった。

 何はともあれ、事態の沈静化は為された。家庭問題の解決など到底無理だと思っていたが、皆が力を合わせて進んでいき、その一助になれたことを、龍一は誇らしげに喜べた。

 つまり、これで全てが終わったのである。

「この生活も、終わりか……」

「そ、そうね。雪も、龍一に迷惑を掛け続けるわけにはいかないって言ってたわ……」

 龍一も蛍も、その後の言葉が続かずに沈黙。なんだかんだ言いながら、それなりの名残惜しさはあった。

「そうそう。僕は今、こんな状態だけど、来週には学校に行こうと思っているんだ。でも一人だと、なかなか準備が大変でね。朝の登校だけでも、介添えをしてくれる人がいると助かるんだよね」

 唐突に語る龍一。その意味するところを察した蛍は、明るくなる。

「し、しょうがないわね。しばらくは、あたしが……あたしたちが登下校に付き合うわよ。二人で看病してるってことは皆も知ってるんだし、何の不都合もないわよね」

 胸を反らして得意げに語る蛍が、おかしかった。雪も当然そこに加わるものとして話が進み、明日から新たな取り組みを行っていくこととなる。


 翌日の金曜日。学校を終えた蛍と雪は、さくら荘から荷物の搬出を始める。カバンや制服、必要な教材など、来週からすぐに使うものを優先して出し、沢渡家との往復を行っていた。

 龍一も、登校に向けて着々と準備を整えていた。まず、今回の件において当然の処置をする。龍一には、弁護士そして探偵の知己もおり、彼らの協力を得て、加害者に向けた治療費や慰謝料の請求の手続きを進めていた。素直に謝罪と賠償をする者には穏便に済ませ、ごねたり居直ったりしてくる者には、証拠や証言を揃えて徹底的にやっていくつもりである。

 それでなくとも、上級生やクラスメイトから目の敵にされている加害者である。代償もなしに温和に過ごせると思ってもらっては困るというものだった。

 この辺のことは専門家に任せることにしているので、現在の龍一は、あいかわらず松葉杖での歩行訓練をしている。

「それにしても、こんなに荷物ってあったっけ?」

「ははっ、いつのまにか増えちゃうものなのね」

 蛍と雪が、何往復目かの搬入出を終えたところで、感想を漏らす。

 最初はわずかでも、人ひとりが増えると生活環境が大きく変わるものなのだと、三人とも実感した。調理器具など、大型の鍋やフライパンは、当分使いそうもないので、これらも引き取ってもらうよう、要請しておく。

 日も暮れてきたので、今日の作業はここまでとしてもらった。そして今日から、雪は自宅で過ごす。

「雪、今更こんなこと言うのも、おかしいけど……大丈夫か?」

「うん、ありがとう、龍一くん。わたしは平気よ。妙な話だけど、自宅からの登校にも慣れておかないとね」

 冗談交じりに話せる雪の姿に、龍一は心強さを感じたため、迷いなく送り出せたのだった。


 土日は朝から作業ができるため、緩急を付けた荷物の運び出しができ、スムーズに進んでいった。少しでも早く龍一との縁をなくしたいのか、沢渡夫妻も手伝うと言ってきたが、お互いにいろいろと蟠りのある間柄である。対面するのは物心ともに生産性が悪いと考え、丁重に断らせてもらった。

 こうして、一〇四号室内は、ほぼ元通りとなった。雪が使っていた部屋は、そのままにしてある。また同じようなことが起こるかもしれない。受け皿として、すぐに対処できる形は残しておこうと考え、できればそんな機会が訪れないことを願って、龍一はドアを閉めた。


 そして翌日の月曜日。龍一にとっては、一週間ぶりの登校となる早朝。

「おはよう、龍一!」

「おはよう、龍一くん」

 さくら荘一〇四号室のチャイムを鳴らして、元気な声を上げる蛍と雪。龍一は左足でしか移動できないため、ドアを開けるのに時間が掛かってしまうが、二人とも承知の上なので、黙って待っている。

 やがてドアが開き、朝食は食べたか、忘れ物はないか、先週から冬服へ衣替えされているので用意できているか、と確認を徹底。新たな三人での登校が始まる。

 松葉杖のため、龍一はカバンではなく、背嚢を使う。蛍が最初、カバンくらい持つと言ってきたが、いつでも蛍が身近にいるわけではないので、最低限の荷物は自分で持ち運べるようにしないといけない。

 加えて、必然と歩みが遅くなるため、少しでも負担を減らす工夫も必要であった。今日も普段より、かなり早く起きての出発である。蛍と雪は構わないと言ってくれるが、龍一も多少は気に病んでしまう。

 そうした環境の中、龍一の右隣に蛍が、左隣に雪が付く体制で、三人は出発する。すでに松葉杖の熟練度は十分に上がっており、龍一の歩行は、予想よりもスムーズにできていた。これなら余裕をもって登校できるだろうと考えていたところに、一人の男子生徒が立ち塞がった。稗田紀彦である。

「皆、おはよう……」

「……おはよう、稗田くん」

 基本の挨拶を済ませる稗田と龍一。蛍と雪は、無言で会釈するだけだった。

 偶然会うには都合が良すぎる。おそらく待ち伏せていたのだろう。

 体育祭での集団暴行。その原因の一つに、稗田の支持者が、彼の意を汲んで暴発したというものがある。つまり、責任の元は稗田ということになる。

 蛍も雪も、それが理解できているので、今も稗田に対して、よそよそしく距離を置いた態度を取っている。雪のことが好きな稗田にとっては、これ以上にない冷淡な仕打ちであろう。

 しかし龍一は、稗田に責任があるとは思っていない。本人が実際に殴ってきたわけでも、第三者に命令したわけでもない。龍一自身、稗田が忖度を武器にするような卑劣漢とは思っていなかった。

 むしろ実行犯に名前を使われて、結果的に自分の価値や品性が著しく損なわれてしまっている。清廉に見えて、実は腹黒い奴という評判まで聞こえてくるほどだった。これを名誉挽回するのは至難の業といえよう。

 稗田自身にも思うところはあろうが、彼は相対的に罰を受けたと龍一は見ている。だから、稗田が頭を下げようとした時、制止させて、龍一は言った。

「そんなことをする必要は全くないよ。責任を取らせる相手は、きちんといる。その中に稗田くんは入っていない。それでも責任を感じているのなら、自分のクラスを、これまで以上に引き締めて、健全なものにしてくれないか? 雪もいるクラスなんだからさ」

 それを聞いた稗田は、無言で頷き、そのまま足早に学校へ向かうのだった。


 冒頭から深刻な場面に見舞われたためか、龍一たちの雰囲気も、やや暗くなってしまった。それを払拭する意味も込めて、龍一が話題転換する。

「あ、そうだ。雪にも重要な秘密を教えておこうと思っていたんだ」

 いきなり、そんなことを言われた雪より、蛍の方が驚く。こんな往来で、何を言おうとしているのかと。

「え? 何の秘密なの?」

「双子の見分け方について」

「ダ、ダメ!」

 雪の疑問に応じた龍一の内容に、蛍が即反対する。

「そ、そんなこと教えちゃダメよ。絶対に!」

「なんで? 蛍だけ知っているのは、やっぱりフェアじゃないだろ」

「双子の見分け方? 何それ、聞きたい」

 特別でいたい蛍が、公正を図ろうとする龍一を制し、雪も詰め寄ってくる。

 そんな押し問答の中、バランスを崩した龍一が雪に倒れかかり、雪は龍一を抱きしめた。

「ご、ごめん、雪」

「いえ、わたしも悪かったわ」

 そう言い終えて、しばらくそのままの状態になる二人。龍一は、『わたし』という言葉と青いリボンから、沢渡雪の存在を改めて認識した。

「いつまで抱き合ってんのよ、離れなさい!」

 怒った蛍が、拾った松葉杖を龍一に突き付けてくる。

 態勢を立て直した三人は、その後も、騒がしくも楽しい掛け合いを繰り返し、これから秋も深まっていこうとする中、新たな気持ちで校門を潜っていくのであった。



 ――この半年後、龍一は蛍と雪を前にして告白をし、一方と結ばれた。こうして二人は、めでたく両想いとなったのである。その結果、龍一と蛍と雪を取り巻く三角形は、あっけなく崩壊したのであった。

 そして、このことが三者三様に、このうえない悲劇をもたらすこととなる。その時を振り返り、取り返しのつかないことをしたと、自らを苛み続けるのだった。

 しかしそれは、誰もが知り得ない、未来の話。現在において運命は決まっていない。今はただ、自分たちの信じる道を迷いなく進んでいこう。

 絶えず形を変えつつ、だがその面積は変わらない、三角形を抱きしめて。


(終)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。初めての長編小説でしたので、緊張しましたが、無事にお届けできたことを嬉しく思っています。ご指摘がありましたら、いくらでも遠慮なくおっしゃってください。改めまして、長い間、お付き合いくださり、ありがとうございました。

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