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稗田紀彦は、小学五年生まで沢渡雪と話したことはなかった。日直や行事などで話し声を聞いたことはあるが、まともな会話というものをしたことがなかった。五年間、同じクラスだったにも関わらず、稗田にとって雪は、まさに空気だった。
小学五年生になった時、転校生がやって来た。隣のクラスのことだったので、稗田も特に接点がなく過ごしていたが、この頃から雪の存在が明らかになってきていた。
これまで、沢渡といえば蛍というのが常識だったが、双子の雪がクラスにいるのだと認識し始める。彼女が躍動していく姿を徐々に目で追うようになっていき、その度に可愛いと感じるようになり、気がつくと好きになっていた。
だがこれまで、まともに会話もしてこなかったので、どのように接すれば良いのか戸惑い、長らく無為に過ごしてきたのだった。
ジョーカーを手にした龍一が雪を連れていく――そう思い至った稗田は我慢できず、龍一の腕をつかんだ。明確な妨害行為。だが、好きな女子が目の前で連れ去られると思うと、攻撃色が強くなってしまい、結果、まずい空気を発生させてしまっていた。
(こんなことなら、俺が借り物競走に出て、ジョーカーを引いた方が良かったかも)
きっかけが何であれ、雪と近づく機会があるのなら、それを使うべきだったと稗田は後悔した。
それぞれの感情がさまよう中、体育祭は午前最後の競技、女子のクラス対抗大縄跳びが行われていた。雪が一所懸命に跳ぶ姿を、稗田は目に焼き付ける。これまでの分を取り戻すように。
かなり長く続いた結果、なんと二年五組は最後まで残り、一位となった。折り返し点で勝利したことにより、稗田たちの士気は一気に上がったのだった。
昼食の時間となり、各々でお弁当が広げられようとしている。龍一も、彰たちと円を作ろうとしていたが、
「向こうで、おかずの交換会をやってるみたいだぞ。俺たちも行って、やってみないか?」
と、彰が言ってきた。余所のイベントに飛び入り参加するようで気乗りしなかったが、相手方も特に気にせず、交換しなくても普通に皆で食べ合おうという気質だった。
これも交流の一環と思った龍一は、おかずの交換はともかく、普段とは違う集団への参加に勤しむことにした。
自然とできた大きな円の中に、二年生の男女が規則性なく座って、お弁当を広げている。おかずを交換する人々もいれば、黙々と一人で食べている人もいて、一種のイベントスペースとなっていた。
その中には雪と、そして稗田の姿もあった。二人きりというわけではなく、向こうも複数人の集団で交換会に加わりに来たという感じだった。
「一緒に食べないか?」
稗田の方から、龍一たちに提案してきた。借り物競走のぎこちなさが残っていたが、だからこそ早めに払拭しようと思ったのだろう。龍一たちも断る理由はなく、雪も安心した表情を浮かべていたので、喜んで一緒になった。
稗田の繋がりか、二年四組の数人も加わり、龍一たちは十人の集団となる。円になって座り、稗田がお弁当の包みを解くと、皆も倣う。やはり稗田は、物事の中心に据えられる人物なのだと、龍一は改めて思った。
「ねえねえ、君ってさ。借り物競走に出てたよね」
そんな折、四組の女子が気さくに声を掛けてきた。お互いに自己紹介をし、その女子、赤司宮子は、借り物競走での龍一の行動に興味を示したようだ。どうして雪と一緒にダルマを運んだのかを龍一が簡単に説明すると、
「きゃははっ! 何それ、面白いわね。やるじゃん」
と、赤司は屈託なく笑い、龍一と雪を交互に見て和む。彼女は明るく爽やかな気質の持ち主と判断でき、龍一も自然と笑顔になれた。そんな龍一を雪は、不機嫌そうに一瞥する。
ともあれ、初手から打ち解けて始まったことを皆は歓迎し、各々が披露したお弁当を手に付けようとした。
それに気づいたのは、直前に龍一と雪を見ていた赤司だった。
「あれ? 室瀬くんと沢渡さんのお弁当って同じなのね」
中身の内容物から配列、そして弁当箱に至るまで全く同じという状況。特別なものを共有する関係。
これにはさすがに龍一も動揺を隠せず、瞳孔を開いた。このような事態に陥るとは、想定外というしかなく、乗り切るための思考が回らない。周囲からも興味の視線が集中し、雪は同じく動揺、稗田は驚愕していた。そこに、
「ねえねえ、もしかして二人って、付き合ってるの?」
などと、さらに赤司が追撃してきたので、もはや事の露見は避けられそうになく、絶体絶命となった。
「んなわけないでしょ」
そこに現れたのは蛍だった。龍一と彰の間に入って座り、自分のお弁当を皆に見えるように開く。またもや同じものが出てきて驚かれたが、
「お弁当が同じだと付き合ってるって言うなら、あたしもそうなるよね。これには、龍一の家庭の事情ってやつがあるの。赤司さん、だっけ? あまり深く追求するのは良くないわよ」
やんわりと、そして含みのある蛍の言葉にたしなめられ、赤司は謝罪する。龍一と雪は、気にしないでとアピールし、なんとか事なきを得たのだった。
そこからは和やかなランチタイムとなり、雑談や交換会が行われていく。まだ龍一たちの関係が気になる者もいたが、先程の蛍の言動によって、聞くのがはばかられる空気になっており、蒸し返されることはなかった。
タイミングを見計らって、龍一が小声で蛍に感謝を述べる。
「ありがとう、助かったよ。あのままだと危なかった」
「もう、気を付けてよね。偶然通りかかって聞いてたから良かったものなんだから」
そう言う蛍だったが、本当は一緒にお弁当を食べようと、龍一を探して来たのだった。そうなると、蛍が龍一と同じお弁当を広げる場面もあったわけで、それを絶妙に回避した結果でもあった。
想定するのが難しいことだったとはいえ、慣れのせいか、気の緩みを実感してしまう。今一度、緊張感を持たなければと龍一は感じ、蛍にもその意を伝えた。
そんな二人が仲睦まじく見えた雪は、唐揚げをつかむ箸を止める。機転を利かせてくれた蛍には感謝しているが、笑顔で話す二人の姿を見ていられず、視線を隣にずらす。そこには、いまだ疑念を払拭し切れていない稗田がおり、龍一を視界に収めながら、感情をくすぶらせ始めていた。
午後の部が開始された。まずは応援合戦。そして、一年生によるクラス全員リレーを終え、次は二年男子による棒倒しが始まろうとしていた。
一組と三組と五組、二組と四組と六組のチームに分かれて競い、先に相手チームの棒を倒した方が勝ちとなる。棒の周りには、何重にもなる防衛人がおり、攻撃側はこれを崩し、かいくぐって進んでいく。
龍一は攻撃側として参戦。防衛側では、その体の小ささから何の役にも立てないと主張し、相手チームの陣地で陽動をすると買って出ていた。本番の試合なので真面目にやるが、こんな荒々しい競技は早く終わって次に行ってほしいというのが、龍一の本音だった。
開始の合図がなされ、両チームの攻撃人が一斉に駆け出す。その迫力に観戦者も沸き立った。次々と防衛人の背中に貼り付いていき、攻撃人からの衝撃が間断なく続く。稗田は先頭を切って、早くも棒に手が届くほどだった。
そんな中、相手チームの棒の周りを龍一が駆け、行ったり来たりしている。上に昇ろうと見せかけては距離を取るという行為を繰り返し、相手チームを惑わすことに専念していた。
競技も中盤に差し掛かった頃、龍一は様々な方向から衝撃を受け始める。最初は競技上の接触という認識だったが、徐々に回数が増し、次第に故意によるものと感じるレベルになっていた。
気がつくと、十人近くの選手に包囲される形となり、明らかに敵意を向けてきている。そして、誰かが龍一の襟首をつかんで押し倒し、それを合図に一斉に蹴りかかり、踏みつけてきた。何が起こったのか理解できない龍一は、必死に体を丸めて防御態勢を取ることしかできず、それでも止まない集団暴行に対し、やがて気絶した。
(続)




