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02

 昨日は、とうとう雪が帰ってこなかった。

 今日から、祝日を含む三連休の初日だというのに、蛍の気分は晴れない。むしろ一層淀んでいた。

 雪が家を飛び出した後、両親は、さすがに後ろめたく思ったのか、ケンカは無言のままに終わった。しかし、日が変わっても、両親の間には、まずい空気がはびこっている。

 だが、そんなことよりも蛍は、雪の方が気がかりだった。ケンカの際には完全に無視するよう取り決めておいたのに、勢いで割って入るものだから、とばっちりを受けてしまったのである。

 雪がいつ戻ってきてもいいように玄関の鍵を開けておき、寝ないで待っていたが、結局戻ってこなかった。女友達の家に厄介になっているのではないかと思い、陽が昇ってから、心当たりの人物達に、自分の携帯端末で通話を繰り返したが、誰も該当しなかった。

 今は正午前。昨日から一睡もしていない身が限界を迎えようとしていた。一時間くらい眠ってから雪を捜しにいこうと決めたところに、蛍の携帯端末が鳴り響く。

「雪が見つかったのかしら」

 先程、通話を試みた女友達には、雪を見つけたら連絡してくれるよう頼んでおいた。だが、携帯端末の発信者ディスプレイに表示されたのは、女の名前ではなかった。

「龍一? 何よ、こんな時に……あ、そうだ。龍一にも捜すの手伝ってもらおっと」

 しかし、蛍が通話を開始すると、そうする必要がないことを知らされた。そして、新たな問題に直面させられたのである。今、喫茶店「トマリギ」にいるという龍一に、そこから動かないよう指示した蛍は、すぐ駆けていった。龍一のその言葉の真相を確かめるために。

「昨日、雪はうちに泊まって寝たんだ」


 トマリギに着いた蛍は、すぐに店内を見渡した。そこには常連客の龍一のみがいるだけだった。つまり、雪はいない。

「お、おい、蛍。顔色、悪くないか?」

「雪は……どこ?」

 龍一の問いかけを無視して、蛍は結論を急いだ。少しでも長引くと睡魔に負けてしまう。息を整える間さえ惜しかった。

「電話でも言ったろ? うちにいるって」

 確かにそう言っていたような気がするが、朦朧とする意識と衝撃的な事実によって、会話の大部分が抜け落ちていたようだった。なにせ、あの内気な雪が一人暮らしの男の部屋に泊まるなど、想像の域を超えていた。

「雪に……何もしなかった……でしょうね?」

「あのな……」

 呆れた龍一は、とりあえず席に着けと蛍に促し、事の経緯を説明し始めた。

 雪が父親に暴力を受け、救いを求めに、さくら荘を訪れたこと。帰るのが怖くて龍一の部屋に泊まったこと――もちろん、蛍の思っているようなことは何もないので、この点は蛍の不安を取り除くためにも重点的に語る。まだ疑いの色を残していたが、なんとか蛍に納得してもらえたようだった。

 そして今、昼食用にということで、マスターに無理を言って、二人分のランチメニューをタッパーに詰めてもらっていた。その間に、蛍には雪のことを知らせておこうと思い立ち、自分の携帯端末で通話したところ、蛍は電光石火のごとく来たのだった。

「でもなんで、わざわざランチの持ち帰りなんて、やってんのよ? 雪と一緒に来て食べればいいじゃないの」

「一応、二人きりの現場を知り合いに見られないようにって考えたつもりだったけど……必要なかったかな?」

 龍一の配慮に蛍も押し黙る。加えて、女友達に雪のことで通話をしまくっていたので、雪が龍一と一緒にいるところを目撃されていたら、あらぬ誤解を与えかねなかった。先程の同衾疑惑も含め、蛍は自己嫌悪を覚えた。

「と、とりあえず、お礼を言っておくわ、ありがとう。じゃあ、あたしが雪を迎えに行くわね。あたしが一緒なら知り合いに見られても平気でしょ?」

「いや、雪には当分、うちで生活してもらうことになった」

 龍一の爆弾発言に、蛍の眠気も吹き飛んでしまった。たった今、龍一に対して申し訳ないと思った直後なのに。

 この感情の逆流をどうしようかと思い、もちろん龍一にぶつけるしかないと判断を下したところで、

「両親のケンカは、今どうなっているの?」

 と、いきなり事の核心を突いてきた。今更ながら、身内の恥をさらしていることに蛍も滅入ってしまう。相手が龍一でなかったら、すぐにでも逃げ出していただろう。

「そ、それはうちの問題よ! 龍一には関係ないわ。そんなことよりも雪を――」

「蛍、ここは大事なところなんだ。冷静に、ちゃんと今の状況を伝えてほしい。もう一回聞く。両親のケンカは、今どういう状態にあるの?」

 静かだが、はっきりとした龍一の口調に、蛍も息を呑む。好奇で聞こうとしているわけではないようだが、その真意がわからなかった。

「昨日も怒鳴り声が絶えなかったわよ。雪が家を飛び出してからケンカは収まったけど、ギスギスした空気は今も継続中よ……これでいい?」

「ありがとう、よく話してくれたね」

「あ、あんたが話せって言ったんでしょ!」

「ねぇ、早くケンカなんて終わってしまえって思わない?」

「そりゃ、そう思ってるわよ。毎度のことだけど、あんなの目の前で見せられたら嫌になるし。今後もこんなのが続くなんて思ったら、あたしだって……」

「雪なら、そんな危機を止められるかもしれないんだ」

 驚く蛍に龍一は、ひとつの逸話を語り始めた。


 ――あるところに、両親とその娘の三人家族がおり、両親は毎日のようにケンカをし、娘は耳を塞ぐといった状況が一般化していた。

 ある日、母親が、父親の携帯端末に、見知らぬ女性からのメールを見つけたことから、ケンカが勃発。激しい口論となった。父親は会社の仕事関係のみと主張し、母親は浮気を疑うという、これまでにない険悪な状態に陥る。

 これをきっかけに両親は、とうとう離婚を考えるようになり、親権問題まで話が進んでいった。

 娘はというと、両親については辟易としていたので、どちらに引き取られようと問題視していなかった。というよりも考えたくなかった。

 しかし、隣家に住んでいる幼なじみの少年と別れるのは、どうしても嫌だった。そこで娘は、少年を家に呼び、両親の見ている前で、少年とキスをした。

 突然の光景に、両親は取り乱し、少年は家から追い出される。そして、娘を交えた家族会議が始まった。

 娘は、以前から好意を寄せていた少年と離れたくない一心で、強引にしてしまったのである。両親は娘の浅はかな行動を叱責したが、自分達も娘をそこまで追い込んでいたことに後ろめたさを覚え、以来娘を非行から守るという名目で、離婚話はなくなったという――


「じょじょじょ……冗談じゃないわよ! キスだなんて」

 逸話を聞き終えた蛍は、声を震わせて憤慨した。

「龍一、あんたまさか、それが狙いなの? この、どさくさにまぎれて、雪とキキキ、キ、キスしようだなんて……最低よ!」

 その一点にこだわる蛍を、龍一は根気強く宥める。ここを通過しないと、本題に入れないので、時間を掛けてでも、冷静にさせなければならなかった。

 蛍が落ち着いた頃を見計らい、龍一は話を再開させる。

「いいか、蛍。重要なのは、思いの方向性なんだよ。この逸話には、今回の問題を解決する本質があるんだ。つまり、ひとつの対象に対する共通の認識だ」

 この娘の場合、少年との強引な接触により、両親の目が娘という一点に集約された。しかもその原因は、自分達の不仲が招いたものと理解できたのである。結果として娘の行動は、離婚話を霧散させ、両親を繋ぐクサビとなった。

 雪は今、父親の暴力によって家を飛び出した。その果てに、男の部屋に転がり込んだとわかれば、沢渡の両親は気が気でなくなるだろう。両親は動揺または激怒するだろうが、なぜ雪がそうなったのかを考えてくれれば、協和のチャンスは生まれるはず。あるいは雪自身が両親に対して、仲が戻るのなら、わたしも家に戻ると訴えてもいい。

 家出娘に対する共通の認識によって連帯感を強めてほしい。龍一はそこに賭けた。

「つまり雪には、両親に対しての、必要悪になってもらうんだ」

 蛍は呆然とした。龍一の、あまりに突飛な発想に付いていけない。

「ちょ、ちょっと待った、龍一。何なの……何なのよ、それ! マンガやドラマじゃあるまいし、そんな方法で本当に解決するって思ってるの?」

「でも、雪が飛び出してすぐにケンカは収まったんだろ? つまり、雪のことをちゃんと気にかけているってことだ。娘のことなんか、どうでもいいっていう親なら、この方法は使えないけど、そうじゃないなら有効のはずだよ」

「そ、そうだけど……そうだけども……!」

 龍一の言葉は、いちいち納得できるものがあり、それゆえに蛍は、言いくるめられているようで癪だった。なにより、雪が龍一と一緒にいる正当性が確立されるのが、ひどく嫌だった。しかし龍一は、そんな思惑を吹き飛ばすかのように、言葉を継いだ。

「昨日は雪が、たまたま僕を思い出して、うちに来てくれたけど、もし雪があのまま夜の街を徘徊していたらって思うとゾッとするよ。暴漢に襲われでもしたら冗談で済ませられないからね。家に戻るにしても、そこが安心できる場所だって思えないと、また同じことが起こると思うんだ。そうなると、あの雪のことだ。迷惑をかけまいと、もう僕のところにも来ないで、ひとり雲隠れするようになるだろう」

 それは、ひどく恐ろしい仮想であり、現実的な予想図といえた。雪が襲われたり行方不明になるなど、蛍だって望んでいるわけではない。

「雪に必要悪を提案したのも、よけいなことを考えないようにするため、役割を与えようと思ってのことだ。そうしたら雪は『わたしがそれをすることで、お父さんとお母さんが仲良くなるのなら喜んでする』って言ったんだ。僕も、そこまでの覚悟を求めたわけじゃなかったんだけど、あんな悲愴な顔で決意されちゃ、放ってなんかおけないよ」

 その時の状況を思い出すかのように、龍一は天井を見上げて回想を巡らせる。久しぶりに正面から相対する雪は、小学時代と変わらない、おとなしい性格の持ち主だったが、決断する時は迷いなく行える強い意志を兼ね備えていた。時にその決断が危なっかしく見えたりもするが、今はその成長ぶりに感心していたい。

 雪の意志を知った蛍は、ほどなく結論を出した。

「わかったわよ。これで反対したら、あたしが本当の悪になっちゃうものね。雪のこと、お願い……」

 軽く頭を下げて同意する蛍だったが、

「でも、キスはダメだからね!」

 と、念を押すのを忘れなかった。


 龍一から一通りの状況を知り終えた蛍に、再び睡魔が襲ってきた。自分の目で雪を見に行くと主張するが、所々意識が飛んでいるのは明白である。

 いったん家に帰って寝るよう、龍一に説得された蛍は、後で電話をすると言い残し、ふらつきながらも帰っていった。

 時計を見ると、午後一時を回っていた。雪を長く待たせるわけにもいかないので、龍一もすぐに戻るべく、すでに昼食の詰まったタッパーを抱える。

「それじゃ、マスター。ありがとうございました」

 マスターの秋津に礼を述べ、ドアに向かおうとしたところで、

「龍一、さっきの逸話だけど……お前、蛍ちゃんに嘘を教えただろ」

 と、やや険を含んだ口調を突きつけてきた。

 龍一は困惑する。

「どういうことですか?」

「俺もその逸話は知っている。そして龍一の話は、要点としては、まったく正しい。しかし、その娘が少年にしたのは、キスじゃなく……性行為」

 秋津と龍一の間で、一瞬、温度が上がる。

「もっとも、両親に見せつけるために、っていう目的でしたんじゃないわけで。そこは、龍一も言ったように、好きな少年と離れたくない一心で、強引にしてしまったのは確か。両親に見つかったのは偶然。結果として、一家は別の意味でまとまったって話だよな」

 龍一は、秋津に後頭部を見せる形で、直立不動でいる。

「龍一は、うちの常連だ。あまり、とやかく言う気はない。でも、感心しないな」

 性欲を満たすために嘘を吐くなんて――とは秋津もさすがに続けなかったが、どことなく気まずい空気が漂う。

 龍一は、ゆっくりとドアを開けて外へ出ようとしたところで、秋津に語った。

「訂正を求めます。僕は蛍に嘘を吐いたんじゃない。蛍を偽ったんです」


(続)


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