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雪の怪我も、一日経てば回復し、今では湿布を一枚張る程度となっていた。
そろそろ食材の切れる頃合いだったので、買い出しに繰り出そうと龍一は考えていたが、雪の右足に配慮して、一人で行こうとした。しかし、雪の強い要望で、結局二人で行くことになったのである。
これまで効率面から、放課後は龍一と雪が一緒になって帰り、必要があれば地元の商店街で買い物をするという流れができていた。しかし、稗田の目に留まったことから、昨日のような修羅場に発展したのも事実。それを考慮し、今日は隣町の商店街まで足を延ばすことにする。時間は掛かるが、確実な方法である。
同棲の下での集団登校などが、徐々に弊害をもたらし始めたと龍一は感じている。稗田に限らず、様々な生徒に様々な場面を目撃されているとみて間違いない。そろそろ、あらぬ噂が立つのではないかと不安に駆られる。今後の方針を見直す時期ではないかと考えざるを得ない。さしあたっての課題は、登下校の時間帯の再構成だろう。
だが今は、目の前の食料品の選定が最優先課題である。さくら荘から、一駅分も離れた商店街のため、前回のような大量購入は論外。また、卵も割れやすいので除く。長距離の持ち帰りに特化する物となると、かなり限定される買い物となってしまう。
「必要な食材は一通り買ったけど……やっぱり卵が無いのは、きついね」
「そうよね。いろんな料理に使うから、すぐ無くなっちゃうし」
「しかたない。一度、さくら荘に戻ってから、近くで買おう……ところで、本当に足は大丈夫なの?」
「大丈夫だってば。ほら、この通り」
証拠と言わんばかりに、雪は右足を軸にして一回転する。スカートがなびいてショーツが見えてしまい、龍一は赤面する。
「ま、まだ、ふらついているじゃないか」
「これは手荷物に勢いがついて……えっと、こういうの何て言うんだっけ」
「遠心力?」
「そう、それ。さすが龍一くん」
スカートの遠心力についても教えようかと、龍一は本気で考えてしまった。雪にしろ蛍にしろ、最近こうした催春的な姿が、やけに目に付く。龍一の二人に対する見方が変わってきた証拠だったが、当人には自覚のないことであった。
実のところ雪は、若干足に痛みを覚えて、ふらついた。龍一を心配させまいと、平気を披露した結果である。そして、その痛みを感じるたびに、昨日の保健室での出来事が気になってしまう。
稗田の指摘は前々から知りたいことだった。龍一が雪と蛍に対して、どんな感情を抱いているのかを。どちらが好きなのかを。
これを機に改めて聞きたいと思うが、あの龍一の怒気を見たばかりである。とてもそんな勇気はなく、現在まで至っていた。そこで雪は、別視点から切り出してみた。
「ね、ねぇ、龍一くん。保健室でのことだけど……なんであんなに怒ったの? あ、気を悪くしないでね。それなりの理由があったから怒ったんだと思うし。ただ、なんていうか……理解の範囲を超えていたかなぁって」
雪は、細かな視線を何度も龍一に投げかける。よけいなことを言ってしまったのではないかと内心は不安だった。
当の龍一は、気を悪くした風もなく、問われたことを純粋に考えていた。自分では正当だと思うことも、他者からは正反対に映ることもある。筋道を共有するためにも龍一は、きちんと説明する必要性を感じた。
「直接の原因は、稗田くんの言葉が理不尽に感じたからだよ」
理由の語りに雪は聞き入った。
「まず、僕は雪のことも蛍のことも嫌いではない。これはわかる?」
「う、うん」
「でも稗田くんは、どちらかを嫌いって言わせようとしたんだ。しかも二人の前で。つまり、理不尽な選択を突きつけて、どう答えても僕の印象が悪くなるように仕向けたんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それって……」
いくらなんでも偏屈な見方と思ったが、言葉にはできなかった。変に気まずくなるのを嫌がったということもあるが、淡々と語る龍一の態度に、もっと本質的な理由があるのではないかと感じたからである。
確かに龍一は稗田から、デリケートな内容の追及を行われたが、龍一の怒り方には違和感を拭いきれない。一言で言うのなら、怒る所が違う。
「仮に、そう仕向けてきたとしても、それは稗田くんにとって得になることなの? ここ数日の間で友達になったのに、それを簡単に壊すようなことをするなんて」
言いながら雪は、自分の発言の矛盾に気づく。五日前、蛍は龍一に関するエピソードをひけらかすように語ってきた。あの時の、蛍の嫌な笑みは忘れられない。感情の発露は、友好や打算に優先されるものなのだろう。
龍一は雪の問いに対し、足を止めて考えていたが、それもすぐにまとまったようで、再び歩き始めた。
「損得勘定で言うのなら、僕は損をしたことになるね」
「どういうこと?」
「いや、正確には稗田くんの言う通りにしていたら損をしていただろうってことだよ。僕は、あんな質問には答えたくなかった。さっきも言ったように理不尽だったからね。だってそうだろ? 人の意志を、質問する側が勝手に限定して、それ以外は認めないっていうんだから。そんな質問を稗田くんは平気でぶつけてきたんだ。なかば恫喝口調でね。あれには心の底から憎いって思ったよ」
話していくうちに思い返してきたのか、龍一は無表情ながらも怒気をまとっていた。その姿に雪も呑まれる。
「あのままだったら、稗田くんは自分の聞きたいことが聞けたっていう得をして、僕は言いたくないことを、脅された挙句、心にもない回答をするっていう損をしていただろうね。多少強引でも、それを認めさせれば真実になるんだから」
稗田が龍一の印象を悪くさせようとしたのかは結果論としてなので定かでないが、自分の知りたいことだけを強く要求してきたのは確かである。これに応じる気概は持ち合わせていなかった。
「ようするに一方が利益を得て、もう一方がわけもなく不利益になるのは間違っているし、許しちゃいけないってことだよ。これなら、わかってくれる?」
緊張した面持ちで聞いていた雪をほぐすため、最後は軽い口調で締めくくった。
確かに最後だけ聞けば理解できる話だったが、雪には全体像を把握しきれないでいた。それは龍一の本質的な部位、価値観や倫理観といったものが含まれているので、相対的な理解が困難なのも事実だったからである。最初に聞きたかった主旨からは脱線した感があったが、今まで知らなかった龍一の思想が垣間見えたことに、雪は新鮮さを感じた。
「それにしても、僕は雪の方に驚いたね。止めに入った時の雪の言動、あれは忘れられないよ」
瞬時に思い返した雪が赤面する。何か言い繕おうとするが、口を開閉するだけで終わる。あの時は必死になっていた中での行動だったので、冷静になると、よくあんなことができたと自問自答するばかりである。
「しかし、『元に戻って』っていうのは、なんていうか……凄いね。そんなに怖い顔してた?」
「そ、それは、その……」
軽口な龍一に対し、雪は結構深刻に思っていた。外面的にも、あの時の龍一が怖いと感じたのは事実。しかし、それ以上に内面的な変化に対する恐怖があった。いや、恐怖というよりも不安というべきであろう。いつも穏やかな口調と物腰を携え、時折見せる笑顔がひどく優しいということも、ここ数日で知ることができた。
自分の知っているそんな龍一が、まるで別人のように変わっていく――そのことに雪は耐えられなかった。だからこそ、なんとしてでも元に戻ってほしかったのである。その願望は自分の思っていた以上に強い力となって、制止行動へと及んだのだが、無我夢中だった雪に自身の行動原理を説明することは困難であった。
お互いに、しばらく無言で歩いていると、前方から突然強風が吹いてきて、二人の足が止まる。今はまだ暖かい日が続いているが、これから徐々に冷たい風が町並みを容赦なく通り抜けていくことだろう。十月に入れば学校も衣替えになる。季節は名実ともに秋色へ染められようとしていた。
(そういえば冬服も必要になってくるわね。また蛍に持ってきてもらわないと。あ、そうなると夏服はどうしよう……)
だんだんと今の環境に適応していることがわかり、雪は苦笑する。と同時に、いつかは龍一の元を去らなければならないことに思い至り、複雑な気持ちになる。龍一は気にするなと言うが、いつまでもこの境遇に甘えてばかりはいられない。もとはといえば、身内の問題から端を発して現在に至っているのだから。しかし、今はまだ家に帰る勇気が持てない。今でも左頬に手をかざすと、あの痛烈な衝撃が鮮明に甦るのである。
そんな考え事をしていた雪の右隣で、龍一は首を右に向けた状態で立ち止まっていた。その視線の先は、新井酒店という酒屋の店内だった。
「どうしたの? 酒屋なんか見て」
「……なあ、雪。今日の晩御飯はミートソーススパゲティにしようか」
ビール、ワイン、清酒、焼酎、ウイスキー、リキュール、スピリッツ――各種様々なアルコール飲料が所狭しと並べられている店内には、店主と男性客が売買のやり取りをしている。龍一と雪は、その脇を通って食品群の前で立ち止まった。酒屋とはいえ、アルコール飲料だけを置いているわけではないので、ハムやチーズ、缶詰に即席麺などがあり、乾燥パスタとミートソース缶も置いてあった。
龍一の眼前には、一種類しかないパスタがあるのだが、なぜか手に取ろうとせず、その場でじっと佇んでいる。
「パスタを買うんじゃないの?」
雪が話しかけると、龍一は手荷物を床に置く。空いた手でパスタを取るのかと思ったが、やはり静止したままである。
だいたい、なぜ酒屋でパスタなのだろうか。専門店ではないので種類もなく、ミートソース缶も一種類だけである。先程のスーパーなら、ここよりも種類が豊富で安いだろうから、その時にまとめ買いをすべきだったろうに。
それとも、夕飯のメニューを考え直しているのだろうか。だが龍一は、何かを考えているというよりも、何かを待っているといった感じだった。雪も倣って待機をしていると、店主と男性客のやり取りがまとまろうとしていた。
「では、ご注文の品を確認させていただきます。ビールの大瓶を一ケース、芋焼酎の一升瓶を一本、お子様用のペットジュースを一ケース、それとビール券を五十枚……お届け先は、さくら荘二〇四号室の野村様まででよろしいのですね」
「ええ。法事なので、なるべく早くお願いします。妻が家にいますので、品物が届いたら支払いをするよう、言っておきますので……あ、それと、ビール券の仕分け作業を早めに済ませておきたいんで、先にビール券だけもらえませんか?」
「はぁ、それは別に構いませんが……」
「いや、すみませんね。何せ引っ越してきたばかりで慌しいものですから、やることが多くて。仕分け作業が終わったら、ちゃんと戻って来ますので、車のキーを置いていきますね。あと私の電話番号も教えておきます」
そこまで聞いた龍一は、パスタを手に取ることなく、ゆっくりと店の出入り口まで戻り、そこで足を止めた。そして、
「さくら荘二〇四号室」
と一際高い声で言い放ち、野村と店主の注意を引き付けた。
「そこには香坂っていう男性が、一人暮らしをしている。僕もさくら荘の住人だけど、ここ数年間、二〇四号室の住人が入れ替わったり、まして家族で暮らしているなんて話は聞いたことがない」
ビール券を渡そうとしていた店主は、その手を引っ込め、野村を凝視する。
「店主さん。今、教えてもらった電話番号に掛けてみたらどうです? たぶん繋がらないか別の人が出ると思いますけど」
その途端、野村は外へ向けて駆け出し、龍一を押しのけようとしたが、避けながら足を出した龍一に、大きく転ばされて店外に出た。無様に這いつくばった野村は、それでもなりふり構わず逃げていった。
ビール券は金券であるため、チケットショップなどに持っていけば、相応の金額となる。店主も、ビール券が直接の現金でないことに警戒心を緩め、手軽に渡そうとしてしまった。あのままビール券を野村に手渡し、そのまま帰ってこなかったら、立派な詐欺の成立である。
それにしても、手口が狡猾であった。法事という言葉で急かし、目的のビール券だけを注文するのではなく、行事に則った人数分の品物を偽装注文する。そしてビール券を先に差し出させるため、それらしい担保をちらつかせて、いかにも納得させようとする。案の定、車のキーはただのガラクタ、電話番号も別人のものだった。
そもそも、車のキーを担保にするという行為自体が眉唾であるのだが、そこを急かして自分のペースへと巻き込んでいったのが、野村の強引ともいえる手口であった。おそらく、野村という名前も偽名であろう。
あとで警察に詐欺未遂があったことを通報するよう、龍一は店主に勧めた。
宣言通り、今日の夕食のために、乾燥パスタとミートソース缶を買って、店から出ようとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! さっきは、ありがとうございました。これはほんの御礼です。彼女さんと一緒に食べてください」
店主はそう言って、加熱容器から酒まんじゅうを二つ取り出し、龍一に渡した。かえって恐縮しながらも、店主の気持ちをきちんと受け取って、龍一たちは店を後にした。
「酒屋の中から、さくら荘という言葉が聞こえてね。気になって注目してみると、知らない人が住人を騙っていたから、胡散臭いと感じたんだ」
酒まんじゅうを頬張りながら、龍一は雪に酒屋へ入った説明をする。雪も、ついばむように酒まんじゅうを食べながら、二人並んで帰り道を行く。
「実はマスターから聞いていたんだよね。最近、個人商店を狙った寸借詐欺が多発しているから気を付けなきゃって。それで店内に入って様子を見ることにしたんだ。何事もなければ良かったんだけど、結果は見ての通りだったからね。何よりも、さくら荘の名前を使っての犯罪だったから、尚更許せなくてさ」
龍一の言葉を聞きながら雪は、熱を帯びた眼差しを彼に向けていた。
「そうそう、雪にはきちんと教えておくね。二〇四号室に住んでいるのは確かに香坂さんだけど、本当は女子高生で一人暮らしなんだ。さすがにそのまま明かすのは危険だったから、少し偽って――」
そう話していると、雪が龍一の肩にもたれかかってきた。突然のことに龍一は動揺し、固まってしまう。
「もう、心配したんだから。犯人が逆上して暴挙に出たら、どうするのよ? 龍一くんが、やられちゃうんじゃないかって……本当に心配だったんだから」
「ご、ごめん。気を付けるよ」
「でも、すごいよね……龍一くんは……そうやって人を助けることに……ためらいなく行けるんだもの……」
しなだれてきた雪に、龍一は動悸を早めた。混乱しそうになる頭を奮い立たせる。
「い、言っただろ? 一方が不当に利益を得て、一方が不利益になるのは間違っているって……そ、それだけのことだよ」
照れ隠しのような文言になってしまい、自分でもどういう状況に陥っているのか把握できない。そんな龍一にお構いなく、雪は顔を紅潮させながら密着を解かないでいる。
「わたしはね……あなたに救われたんだ……もうダメだと思っても……守ってくれた……優しくしてくれた……」
「ゆ、雪? もしかして、酒まんじゅうで酔って」
蕩けるような表情で雪の独白は続く。それは内心の吐露だったのかもしれない。
以前の雪は、今以上におとなしく、無口で内気で存在感のない子だった。それは、常に明るく振舞える蛍に気後れしていた面もあった。雪は姉であるが、双子なので、年齢の差異で優劣や損得を被る経験はなかった。しかし、双子で一緒にいると、いつも「蛍たち」と皆から呼ばれて辛かった。自分は蛍の影ではないかと本気で悩んだ日もあった。
そんな時、「雪たち」と初めて呼んでくれた人がいた。それが龍一だった。その日をきっかけに雪は、自分という存在を肯定し始め、同時に室瀬龍一という男子を意識し始めていた。
そして現在、様々な経験を経て、その想いは臨界点を突破した。
「そんな龍一くんだから……あなたのこと……好きになったの」
(続)
前半終了。次回更新は、しばらくお待ちください。




