明後日に向かって行け!
陽の光が高い位置から降り注いでいる三月中旬。寒くもなく、暑くもないこの時期の気候は好きだ。数日前に卒業式が終わり、三年生がいなくなって、高校生活に何やら空間が生まれたような気もする。ほとんど関わりはなかったが、同じ場所に属した集団がごっそりいなくなるのは何度経験しても奇妙な感じがした。
こんな道の端で思うようなことでもないのかもしれないが、時間があったのでふと感慨深くなってしまった。こんなどうでもいい感傷に取りつかれている暇はない。とても忙しいのだから。
手でひさしをつくりながら目の前を見やる。そこには今時珍しいであろう紙の地図を穴が開くほど見つめている先輩がいる。
その先輩を見ながら思った。
推せるっ‼
「ちょっと待ってね、北原」
「いくらでも待ちますよ」
「こっち……たぶん、こっちなはず」
目の前でうんうん唸っている美少女を見る。
我らが乃野々宮佳澄生徒会長その人である。我が霞ヶ坂高校が誇る歴代一(独断)の生徒会長だ。
切れ長の目は知的な光を宿し、鋭いながらも暖かい優しさに満ちている。眉毛なんてあまりにもきれい過ぎて、標本にしておきたいぐらいである。スッと通った鼻筋は彫刻かと思うほどに美しい。彫刻といえば、鼻筋の美しさもさることながら、スタイルも恐ろしいほど整っており、ダ・ヴィンチの彫刻を彷彿とさせる。大理石のように染みのないすべらかで健康的な肌。もちろん大理石のようにカチコチではなく、弾力と瑞々しさに満ちている。なんかいい匂いもする。艶やかな黒髪は凛々しくも艶やかなポニーテール。鈴のなるような声はハキハキと通り、できることなら会長の口にイヤホンを突っ込んで直接耳に届けたいぐらいだ。無論、そんなことをするつもりはないが。
もちろん、内面の方も文句のつけようがない。厳しくも優しく、慈愛にあふれ、頭脳明晰、何事にも寛容で、思考は柔軟、理不尽さなど皆無だ。生徒会長として公正明大に生徒自治を行っている。ウチの高校は生徒自治の色が強いが、どこからも大きな文句は出ていない。生徒会長の手腕が存分に発揮されている証拠だ。校内で一、二を争う秀才で、テニスの腕は全国級。弓道と華道のたしなみがあり、なんなら歌もうまい。天は二物を与えないらしいが、どうやら百物ぐらいなら与えるのだろうと、会長を見ているとそう思う。
会長讃美を続けさせたら三日は止まらなくなる自信があるので、この辺で切り上げるが、乃野々宮会長がいかな存在か伝わっただろうか。正確に描写したいところだが、生憎のところ神々しいまでの魅力を十全に伝えられる気がしない。自分の語彙力を恨めしく思う。
そんな自分は北原純夏というしがない生徒会庶務である。庶務と言えば役職名があるだけの雑用係だ。もちろん、乃野々宮会長の雑用であれば喜んで引き受ける。命じられさえすれば、椅子にだってなるし、足ふきマットにだってなる。むしろ会長の御身足を体で拭けるとは至上の喜びでは? 会長に座って頂けるなら、椅子になるのはあまりにも名誉なことではなかろうか。
まあ、心優しい会長がそんなSM女王みたいな命令を出すわけはない。いや、そんな格好も似合うと思うし、見てみたい気持ちがないと言えば嘘になるが!
おっといけない。興奮してしまった。うんうん唸っている会長を見ていたら、妄想が爆発するところだった。
「今は……ここなわけだから……」
会長は変わらず地図を見つめ続けている。あの視線を独り占めとは羨ましい限りである。もしやあの地図は前世で徳を積んだ誰かの生まれ変わりでは? 会長に見つめられる地図人生もいいものだろう。頑張って徳を積んだんだな、あの地図は。
そんなとりとめもない感慨にふけっていると、会長がやっと地図から顔を上げた。
「こっちね。待たせたね、北原。行きましょう」
「はい」
交差点でもない、分かれ道も分岐もない一本道の途中で延々と悩んでいた乃野々宮会長は、そう言って今来た道を引き返し始めた。
文句ひとつ言うつもりはない。ただ粛々とついていくだけだ。
まさか、あの完璧超人、神に愛され過ぎた乃野々宮会長がこんなにも絶望的な方向音痴だとは思ってもみなかった。
こんなに可愛いトコがあるなんて!
素敵すぎる‼
そもそもなぜ、麗しき会長と二人で道に迷っているのかというと、生徒会業務の一環で、林間学校で使用する宿泊施設の下見に行く途中なのである。霞ヶ坂高校では一年次の五月後半に泊りがけの行事がある。通常ならわざわざ生徒会長が宿泊施設の確認なんて行わないのだが、前年まで使用していた施設が台風のあおりを食らって一時閉鎖されているのである。前年度までは臨海学校だったのだ。急遽、選定された施設であるため、心優しい我らが会長が、直々に施設を確かめる運びとなった。
教師に任せておいてもよさそうなものだが、そこは会長の責任感である。流石としか言いようがない。五月に林間学校が行われるのであれば、確認の時期としてはギリギリ過ぎるぐらいだ。学校側もちょうどいい場所の選定には手間取ったと聞いている。
そして生徒会長が行くならば、生徒会役員がお供しなければカッコつかないというものだ。大所帯で行く必要もないが、少なくともお供の一人は必要である。そこで、生徒会の雑用、庶務にお鉢が回ってきた……というわけではない。
実際は乃野々宮会長の友人であり、生徒会ナンバー2の斧研百鬼副会長が随行するはずだったのだ。
斧研百鬼桜華。
字面にしろ、読み方にしろ、えらく厳ついお名前である女傑だ。会長に負けず劣らずの才女であり、権謀術策が大好きなタイプ。少しクセのあるロブヘアに、鋭利な美貌の持ち主で、基本的に凄みのある微笑を絶やさず、スタイルに関しては会長を上回るスーパーボディ。隠しきれずにあふれ出る女王様的Sっ気が多くの生徒(男女を問わず)をノックアウトする。黙って動かずにいれば、素敵なお姉さまなのだが、いかんせん腹黒く、謀略が得意なので本性を知ってしまった人間からは怖れられている(猛烈なファンになる場合もある)。個人的には全然苦手ではないし、尊敬にたる先輩だと思っている。自分には副会長にイジメられたい願望はないけれど。そもそも彼女は本性を表に出すこと自体、滅多にないので、基本的な評価は乃野々宮会長の有能すぎる右腕という立ち位置だ。
清濁併せ吞む度量と器量を持ち合わせ、表から裏から会長を献身的に支えている。会長を聖なる太陽だとするならば、裏でうごめく宵闇の星空というところだろう。
色々と恐ろしいところのある人だが、野々宮会長の重度のファンというところは一致しているので、個人的に様々な下請け的作業を振られることが多い。
そもそも霞ヶ坂高校の生徒会は副会長から、会計、書記、そしてこの庶務にいたるまで、少なからず野々宮会長に惚れ込んでいる人物で構成されている。会長を支えるために惜しみない努力ができる人間たちだ。そんな独特な濃ゆいメンバーの中でも副会長は一線を画している。乃野々宮会長とは幼稚園からの友人だというし(羨ましい‼)惚れ込み方も一味違う。会長を愛でたい気持ちが負けているとは思わないが、流石に勝てる気がしない。
そんな会長一直線な副会長が、この道中に同伴していないのは単純に体調がすぐれないからだ。おそらく斧研百鬼副会長は体を引きずってでも来たかったと思うのだが、会長は親友の体調不良を見逃す人ではないし、そうなると余計な心配をかけてしまう。だから副会長は泣く泣く同行を諦めて、この雑用係――つまりは庶務にいつものごとく連絡をよこしたわけだ。
連絡があったのはつい昨日。金曜日の夜の話だ。自室の勉強机に向かい、今日の生徒会業務というか、会長のお言葉を思い返していると、スマホがシューベルトの『魔王』を奏でだした。着信が『魔王』なのは斧研百鬼副会長だけだ。ジョークで設定しているものの、バレたら怒られるかもしれない。だが、副会長が目の前にいる状況で、副会長から着信があることはまず考えられない。
少なくとも今のところバレてない。
「もしもし、北原ですが」
『こんばんは。斧研百鬼よ。今、時間あるかしら?』
「大丈夫ですよ。副会長のためとあらば、時間がなくても作るのが庶務の務め」
『大げさよ。時間がないのに作れ、なんて……基本的には言わない』
「たまには言うんですか?」
『たまにはあるかもしれないでしょう。ふふ』
スマホの向こう側でかすかに笑うような声が聞こえた。もしかしたら何か思い出したのかも。
「で、どうかしました?」
『少し相談があってね』
「なんか、ちょっと声かれてます?」
『相変わらず妙に鋭いわね。そんなに変化があるとは思えないんだけど。まあ、その通り。ちょっと体調を崩している』
「鋭いというか、普段の桜華さんの声を覚えていれば、気づくと思いますけど」
副会長本人に語り掛けるときは『桜華さん』と呼ぶ。斧研百鬼は厳つすぎて、そう呼ばれるのは好みではないらしい。本人がそう言うのなら是非もない。
個人的にはひそかな目標として、副会長を下の名前で呼んでいる流れで、なんとか乃野々宮会長を『佳澄会長』と呼べまいか、と画策しているのだが、中々うまくいっていない。
なんか、ちょっとおそれ多いし。
『それが鋭いって話なんだけど……まあ、いいわ。急な話なのだけど、明日は何か予定があったりする?』
「明日ですか? まあ、遅まきながら春物の服を買いに行こうかと思っていましたが」
『本当に遅いわね……でも、そう。予定があるならいいわ』
何事か思案しているような声音。
はて。明日は何かあっただろうか――待て!
ちょっと待て‼
誰に何を待ってもらうのかはさておいて、脳内で猛烈なスパークが起きた。
明日は会長と副会長が林間学校の施設の下見に行くのではなかったか⁉
そうだ! そういう予定だったはず。それがあるうえで、副会長がわざわざ連絡を⁉
体調不良気味の副会長が! 連絡を‼
明日の‼ 予定を確認してるっ‼
『仕方ないわね……会計――灯に頼むことにしましょう。ありが――』
「ちょっとお待ちを! 骨喰藤四郎の奴には頼まなくてもいいです! 骨喰藤四郎には!」
『……灯のことをいつまでも苗字で呼んでいるのあなただけよ?』
「いや、なんか面白い苗字なんで。というか、そんなことどうでもいいです。明日の話ですよ」
『でもあなた、予定あるんでしょう?』
「いえ! 服などいつでも買いに行けますから! どうせ一人の予定でしたし、取りやめたところで誰にも迷惑をかける恐れはありません! それよりも副会長のお話の方が重要かと愚考します!」
『いきなり元気になったわね。一体何に気づいたのやら』
「何の話やらさっぱりです。気づく……?」
『白々しいわね……別にいいけれど』
「そんなわけで、こちらの予定はもはや何もありませんが、桜華副会長のご用事はなんでしょうか」
『明日の件は覚えてるかしら?』
こちらの思惑は看破しているはずだが、斧研百鬼副会長は律儀に話を合わせてくれる。
「明日というと、下見の件ですね。林間学校の」
『そう。佳澄と二人で行く約束だったのだけど、この通り私の体調が悪いからね。代わりに行――』
「行きますっ‼」
『早いわよ! わかってないふりするなら最後までしなさい』
笑いを含んだ呆れたような声が聞こえる。
返答を逃したくないあまり、食い気味に答えてしまった。
「ちょっと焦っちゃいました」
『焦る必要ある?』
「気持ちの問題で。ちょっとおかしな感じになりましたけど、行くのは行きますよ。なんの問題もありません。行きます。絶対行きます。行かせてくださいお願いします」
『あなたの決意が固いのはわかったから。じゃあ、お願いね』
「いやっほう‼ 休日に会長と二人でお出かけとか、最高じゃないですか! 最高の休日ですね! うおっしゃあ‼」
椅子から立ち上がってガッツポーズを決めてしまった。おっとっと、落ち着け落ち着け。
『ガッツポーズでもしてそうな勢いね……』
「まさか、そんなわけないじゃないですか」
さすがに鋭い。誰にも見られていないが、そそくさと椅子に座りなおす。
『あと、そういう感想を口に出すのは電話切ってからじゃない?』
「止められませんでした。あとは共感してくれそうな人に聞いてほしいという願望が」
『はいはい』
「えー何着て行ったらいいですかね~。はっ! も、もしや会長の私服が拝めるのでは⁉」
『盛り上がってるところ悪いけれど、制服よ。一応、学校行事関連だから』
「あ、そうですか。まあ、それでも全く構いませんよ」
会長は何を着ていようが会長である。制服だろうが、ぼろきれだろうが輝きがくすむわけじゃない。
もちろん、私服が拝めるならそれでよかったのだが。
『じゃあ、純夏。集合場所の住所を送るから、そこに八時集合』
「八時ですか? 別に何の問題もありませんが、早くありませんか?」
聞き流しそうになったが、少し変だ。集合場所の住所とは。確か、下見は電車で行くと言っていなかっただだろうか。なら駅に集合でいいのでは? 本チャンの時はバスで行くというような話だったが、電車で行けなくもないらしい。最寄りの駅からはそこそこ歩く必要があるらしいが。
『あー……まあ、早く感じるかもしれないわね』
斧研百鬼副会長の歯切れが悪い。珍しいこともあるものだ。この人はあまり言いよどんだりしないタイプなのだけれど。
「結構、遠いんでしたっけ?」
『いえ、確かに近くはない……八時にスタートしたら、まあ、昼過ぎには着くのが妥当だと思うのだけれど』
「だけれど?」
『……流石に説明しないのは不自然ね。仕方ない。ここから先の話は口外不可よ』
「はあ……」
なんだろう……曰くつきの場所なのだろうか。
『「はあ」ではなく。返事は?』
斧研百鬼副会長の口調が冷える。これは真面目なヤツだ。
「委細承知であります。口外しません」
『いいでしょう。もし口外したらわかってるわね?』
「もちろんです。副会長との約束を破る庶務ではありません」
桜華さんの苛烈さを知っている身としては破るつもりなど毛頭ない。
『じゃあ、言うけれど、心して聞きなさい。佳澄の話なのよ』
「会長の」
『ええ。佳澄はね……』
「はい」
会長と集合時間の速さの関連性が見えない。どこに着地するんだ、この話。
『佳澄は方向音痴なの』
「はい?」
『だから、方向音痴』
「会長が?」
『ええ。それも重度のね』
スピーカーから深いため息が聞こえた。
「…………」
ほうこうおんち……そういう誉め言葉があっただろうか。字面が思い浮かばない、と数秒考えこんでしまった。方向音痴という言葉と会長のイメージがあまりにも遠すぎて、うまくくっつけられない。
『ちょっと聞いてる?』
「あ、すいません。えっと、それって、普通の意味ですか? なんか、アンドロメダ銀河の辺りで宇宙人が使っている会長讃美の言葉とかではなく?」
『何言ってるの?』
「自分でも何言ってるのか……ということは、道に迷うって意味なんですね?」
『当然でしょう。なんでアンドロメダで使われてる言語を私が知ってると思うの?』
「はあぁあ……あの会長が……」
『まあ、普通そういう反応になるわよね』
「今一つ実感がわきませんが、桜華さんがそんな意味不明な嘘をつくわけありませんしね」
斧研百鬼副会長があえて会長のイメージを下げることはまずない。少なくとも、今、この瞬間に言うとは思えない。メリットがどこにもない。
しかし、あの会長が方向音痴とは。
『悪いけれど、今あなたが想像してるような可愛い方向音痴じゃないわよ?』
「別に想像ができてたわけではないですが」
『どのレベルとかというと、学校に一人で着けない』
「はい?」
『正確に言えばたどり着くだけなら可能ね。恐ろしい時間がかかるけれど。私たちが一緒に登校してるのは知っているわね?』
「知ってますけど」
羨ましいと思ってますし。
『佳澄一人じゃ心もとないから、一緒にいるのよ。佳澄だけじゃ、夜中に家を出ないと遅刻すると思う。危なっかしくて試したことないけど』
「それはまた……」
『もうすぐ通学路も三年目になるのよ? それでこの有様。おそらく、校内ですら一人で行動すれば迷うレベルだわ』
「…………」
校内でも、か。それはもはや方向音痴で済む話なのだろうか。
『悪いことに、佳澄自身は方向音痴である自覚がない。本人は少し地図を見るのが苦手に思っているぐらいなのよ。本人にそれとなく、伝えてみたこともあるのだけど、どうにも認めないのよ』
「会長が意固地になるのもすごく珍しいですね」
『認めないというより、感覚が理解できないのでしょうね。佳澄にとって、目的地に辿り着くという行為は時間がかかって当然なのかもしれない』
「他人を見てもよさそうですけど」
『そのあたりが佳澄の中でどう処理されているのかはわからないわ。ただ、いつのも聡明さはこの件に関して発揮されない。そんなわけで、佳澄は校内で迷うような壊滅的な感覚の持ち主であると気づいてない』
会長は人気者なので、一人で校内をうろつくことは滅多にない。移動教室なども、友人に囲まれながら移動しているはず。それゆえ自分の感覚に気づいていないのだろう。人波に逆らわなければ目的地にはたどり着く。周囲の友人も移動教室なんかで迷う人間がいるとは思ってないから、怪しまれることもない。他の校内行動、例えば生徒会室やらに行くときはさりげなく斧研百鬼副会長がフォローしているのだろう。
『そんな佳澄が知らない場所に行こうとしてる。下見なんて、一人じゃ絶対できない。一人で行ったら、到着した頃には林間学校が始まってそう』
冗談めかした言葉だが、副会長の口調はいたって真剣だった。
「そうですか……」
『……幻滅した?』
「なぜ桜華副会長に幻滅するんです? 長年、友人のフォローを続けたであろう人に幻滅なんてするわけじゃないですか」
『どうして私の話なのよ。佳澄のことよ……って今のが答えね』
「ああ、会長に幻滅したかという問いでしたか。思いつきもしませんでしたよ。なんでそんなことで幻滅しなきゃいけないんですか。むしろ……」
『むしろ?』
「最高に可愛いポイントだと思いますね! ギャップ萌えってヤツですよ。正直、人間らしい欠点があって、ますます好きになれそうです! 会長の欠点、苦手、短所、美点も得意も長所もすべてひっくるめて会長なんですから。乃野々宮会長のすべてが尊敬できます。そもそも幻滅なんてありえませんよ。自分は会長になんの幻想も抱いてませんから。幻など滅しようもないわけです。等身大、素のままの会長のファンですから!」
『ぶれないわね、あなたも』
鼻息荒く語ったのだが、帰ってきたのは苦笑いだった。
『まあ、あなたならそう言うだろうと思って、話したわけだけど。灯に話をもっていかずに済んでよかったわ。あの子はショック受けそうだし』
「骨喰藤四郎の奴は、少々了見が狭いですね」
『いや、あなたが変わった女なんだと思うけど』
「それは認めてもいいですけど、桜華さんも似たようなものですよ?」
『かもね。じゃあ、八時に集合ね。なんにしても、明日はお願いするわね、純夏』
「任せてください。会長が方向音痴だということは、普通より、二人で歩ける時間が長いってことですもんね!」
『だから、そういう感想は電話を切ってからにしなさい』
次の日は楽しみ過ぎて、五時半に目が覚めてしまった。流石に早すぎる。しかし、興奮により冴え切った頭では二度寝できなかったので、制服にアイロンをかけたり、埃を払ったりして過ごした。長丁場になることを覚悟し、朝食をしっかりと食べ、八時に間に合うように家をでた。制服姿には一分の隙もない。カッターシャツは一番上のボタンまで留め、ネクタイをかっちり結びあげ、ジャケットを着こむ気温でもないので、カーディガンのみ。アイロンを当てたスラックスはかすかな皺もない。ローファーは時間があったので磨き上げてある。
送られてきた住所は個人宅のようだった。
すわ乃野々宮会長のお宅にお出迎えにいけるのかと思ったのだが、住所は副会長の自宅であった。会長とはお隣さんらしい。
羨ましいっ!
しかし、お隣さんということは、副会長の家に辿り着けば自動的に会長のお出迎えもできるはずなので、気を落とすことはない。
スキップでお邪魔したいぐらいだったが、さすがに不審者扱いされそうなので我慢する。
狙った通り、十分前には目的地に到着した。本当は一時間ぐらい前から出待ちしたいぐらいだったが、さすがに個人宅の前で長時間立っていると不審者扱いされそうなのでやめた。自分は不審者ではない、ただの純朴な後輩である。
北原家の三倍ぐらいありそうな一軒家が二つ並んでいる。片方は三階建ての豪邸。もう片方は立派な日本家屋だ。表札は豪邸が乃野々宮。日本家屋が斧研百鬼。
乃野々宮家のインターホンを押したかったが、斧研百鬼副会長に到着を知らせておいた方がいいだろう。日本家屋の方インターホンを押すと、でかい門の横の小さな扉から(あの扉なんだっけ。『くぐり戸』だったか?)斧研百鬼副会長が姿を現した。
マスクと冷却シート、紅葉色と海老色の格子柄のドテラ姿だ。
「おはようございます。大丈夫ですか?」
「おはよう。見た目ほど悪くはないわ。少し頭が痛くてね」
「お大事にしてください。今日のことはお気になさらず」
「むり。絶対、この頭痛は心配だからだわ」
はあ、とマスクの中でため息をつく副会長。
「早い時間に悪いわね」
「いえ、まったく問題ありません。あれですね? 駅集合だと会長が危ういというわけですね?」
「そうよ。理解がはやくて助かるわ。普段、バス通学だし、駅を使う機会がないから」
またもや、はあ、とため息が聞こえる。その時、横から声がかかった。
「おはよう、桜華。おはよう、北原」
「おはよう、佳澄」
「おはようございます、会長!」
現れたのは、当然というべきか、乃野々宮会長その人だった。
「まったく桜華。無理せず、寝ていればいいのに」
「大丈夫よ。そんなに重症じゃないから」
挨拶を終えると同時に副会長の体調を心配する乃野々宮会長。
今日も今日とて凛々しい顔に優しげな笑みを浮かべ、キューティクル万歳と叫びたくなるような艶やかポニーテールを引っ提げて、ジャケットを着こんだ胸元のリボンが恐ろしく決まっている。膝上のスカートの裾が妖しく揺れる。スカートをはくのは嫌いだが、会長のスカート姿は絵になるものだ! スカートの裾からのびるのは黒いストッキングに包まれた御身足! 素敵! 足元は輝くローファー!
眩しい! 姿が眩しすぎる‼
「どうかしたの、北原」
「いえ。今日も素敵だなと思いまして」
「そう? ありがとう」
にこっと笑う会長。
ぐぅううう。心の臓が持たんぞ!
心の中でのたうち回っているのを見透かしたように、斧研百鬼副会長が冷たい視線をくれる。外面には絶対出してないはずなのだが。まあ、会長関連については似た者同士だから読み取られるのかもしれない。
「北原、今日はよろしく」
「はい。こちらこそ」
あーわくわくするなぁ。
「純夏。本当にお願いよ?」
さりげなく近づいてきた斧研百鬼副会長が囁く。
「もちろんです。任せておいてください」
「何かあったら連絡して。もしも順調にいっても連絡して」
「わかりました。とかく報告しろってことですね」
副会長は頷いて離れていった。
「じゃあ、桜華、行ってくる」
「いってらっしゃい。気を付けて」
「いってきまーす」
そわそわと落ち着かない様子の副会長に手を振られて見送られながら、力強く歩き出した乃野々宮会長の後を追った。
どきどきわくわくのお出かけの始まりだ!
そして話は冒頭に戻ってくるのである。
「ごめん。私、地図を見るのが苦手で」
「いえ、とんでもありません。会長がしっかり確認してくれるからこそです」
会長は申し訳なさそうにこちらを見ているが「気に病まないで!」と叫びたいぐらいだ。
「だけど、安心して。初めて行く場所だから、昨日しっかり確認してきたからね」
あーしっかり確認してきて迷うタイプなんだ。新しい一面を知ったなぁ。
感慨深く思いながら、会長と並んで歩く。
さっきは逆向きに進んでいたのだが、どういう理屈でこうなっているんだろう? 感覚的には目的地に近づいたり、遠ざかったりしながらのろのろ進んでいるのだが。
〃歩きなんたら〃を良しとしない会長は地図を見ながら歩くということをせず、少し歩いては地図を取り出す、という行為を繰り返している。
スマホの地球規模マップを使えば、音声案内もしてくれるだろうに、会長はアプリを信用してないらしい。
今までの情報から推測するに、間違っているのはアプリではなく、会長の方なのは間違いなさそうだ。おそらく指示された道を進めていないのだろう。それが積み重なって、アプリへの信用をなくしたに違いない。
「こっちね」
そう言いながら乃野々宮会長の会長が曲がったのはあまりに細い裏道だった。道というか、隙間だこれは。ブロック塀とブロック塀の間だもの。
絶対もう一本先を曲がるのだと思うのだけど。ただ、少なくとも方向はあってそうだ。それに回り道は嫌いじゃない。特に会長と一緒なら。
「狭いですね。服が汚れないようにしないといけませんね」
「そうね。気を付けて」
「はい」
会長は迷いない足取りでずんずん進んでいく。おそらくこの迷いのなさは普段からこういう道なき道を進みなれているからだろう。道なきというか、道らしくない道か。
会長の揺れるポニーテールを見下ろしながら後ろに続く。シャンプーのいい匂いがする。横並びで歩くのもいいが、後ろをついていくのも悪くない!
そんなことを思いながらグニャグニャと蛇行した隙間を進んでいると、徐々に両側から壁が迫ってきた。
こ、これ通れるかな? と心配になったところで、隙間道は終わり、大通りとは言えないものの、やや広い道へ出た。
「ここを通ってきたわけだから、今はこの辺ね」
会長が地図を引っ張り出している。後ろからのぞくと、会長がこの辺と思っているところと現在地にはやや隔たりがありそうだった。交差点二つ分ぐらいは違いそう。
少し歩いて、交差点にたどり着いた。正しい交差点なら右折だが、ここは目的の交差点の二つ手前だ。直進なら問題なく、右折したとして、遠回りになるが問題はない。交差点でしばらく地図とにらめっこした後。
会長は左折した。
そうきたか! せっかく徐々に近づいていたのに、また少し遠のいてしまった。三歩進んで二歩下がる、みたいな進み具合である。これがまた絶妙なところで、決して離れ続けるわけではないのだ。トータルで見れば確実に目的地に近づいているところが憎めないポイントである。
しかし、先は長そうだ。
「会長はどうして下見に行こうって思ったんですか?」
黙って歩くだけなのも暇なので、少し気になっていたことを尋ねてみる。
「え?」
「いや、別にわざわざ会長が行く必要はないじゃないですか。会長自身がいくわけでもないですし」
「そうは言ってもね。今までとは違う場所だから。何かあったら困るでしょう? 利用するのは新一年生なのだから」
「そりゃ、林間学校に行くのは一年生ですけど」
「仮に私自身が行くなら下見にはいかなかったと思う。一年生が利用する場所だから行こうと思った。高校は中学よりも地域が広がって、人間関係も広がる。ただでさえ慣れない環境に放り込まれる一年生が、初めて集団で行動する場所が安全じゃないなんて許されないと思っている」
「確かにその通りですね」
「そして生徒の安全を守るのは生徒会の役目の一つ。ならば私が出向かないわけにはいかないでしょう」
会長の真摯な瞳に撃ち抜かれそうだ。
「ま、何か具体的な危険があるとは思ってないけどね。私自身が自分の目で確かめたいだけ。自己満足のためよ」
最後に少し茶化したけれど、この人はいつもこんな感じだ。いつでも霞ヶ坂の生徒を想って行動できる。だからこそ大人気の生徒会長なのだ。
この気遣いと行動力に助けられた人間はたくさんいるはずだ。星の数ってのは言い過ぎだが、少なくとも霞ヶ坂高校の生徒で会長の恩恵に預かっていない生徒はいないと言える。
私がこの制服、シャツとスラックスに身を包めているのも会長が戦ってくれたからだ。スカートが嫌すぎて体操着のジャージを制服にしていた私を助けてくれたのは間違いなく乃野々宮会長だ。
確かに時流はある。世間の流れでも男女の制服差などなくなってきている。それでも霞ヶ坂高校で一番最初に声を上げてくれたのは乃野々宮会長である。
一番最初に行動することの難しさは誰でもわかるだろう。乃野々宮会長は必要があればそれをためらわない。学内でただ一人、目に見えてスカートに反抗していた私のために、会長は声を上げてくれた。声どころか、あっという間に制服の垣根を取っ払ってくれた。
「よく似合っているよ、北原」
私がジャージ姿を脱したとき、乃野々宮会長はそう言ってくれた。
きっと会長にとっては当たり前のことで、特別なことをしたつもりはないのだろうと思う。それでも会長の行動は眩しく映った。素直にすごいと思えた。
その瞬間から私は会長のファンになったし、その恩義に報いたいと強く想った。
まさかここまで心酔することになるとは思わなかったけれど、一切後悔はしていない。
会長と共に生徒会に属せることに感謝をささげたい!
「わかりました! どこまで力になれるかはわかりませんが、一緒に安全を確認しましょう!」
「頼りにしているよ、北原」
「はい!」
その後、しばらく直進した会長は右折を二回繰り返した。道は違うが、方向的には元に戻る形になる。また少し目的地に近づいたわけだ。ほんの少しだけど。
大き目な交差点に辿り着く。会長はまたもや地図を引っ張り出し、難しい顔をして覗き込む。方向的には直進か左折なのだが、会長はどうするだろうか。
会長はこういう大きめの交差点で地図を引っ張り出したくなるようだ。
歩道の隅に寄って集中し始めた会長。手持ち無沙汰になったので、副会長の報告しようと会長から少し離れた。
『斧研百鬼よ』
よほど心配だったのか、副会長はワンコールもしないうちに出た。体調悪いのに、ちゃんと休めてるのかな、この人。
「北原であります。定時報告をば」
『別に時間を決めていたわけじゃないけれど、無事かしら?』
「うーん。定義によるかもしれませんが、どこにも損害は出てません」
『迷ってないことはないはずだけど』
「盛大に迷ってますが、命に別状はありませんよ」
『それは流石に……と言えなくもないのが、佳澄の恐ろしいところだけれど。近道だと信じて崖を降りようとしたこともあるからね』
「今のところその兆しはありません」
まだ街中なので崖はない。施設の周辺は緑が多いはずなので、もしも崖が出てきたら気を付けよう。
『調子はどう?』
「すこぶる快調です。会長となら三千里ぐらい歩けそうです」
『あなたが元気なのはわかった。佳澄は?』
「体力的には問題なさそうに見えます。控えめに言っても尾行をあぶり出しているのかと思うような道順をとっていますけれど」
『なら通常運転ね』
「少し進んでは地図をよくよく確認しながら歩いていますね。その繰り返しです。今も地図を確認してますね。その隙をついて桜華さんに連絡しているところです」
『地図を……佳澄なりに気を使っているのね』
「と言いますと?」
『私と歩くときはそこまで頻繁に確認したりはしないのよ。おそらく純夏と一緒だから、確実を期しているつもりなのね』
「そ、そんな……! 自分ごときにそんな気を使っていただけるなんて!」
会長は気づかいが過ぎる! なんて素敵なのだろう!
これだから会長のファンはやめられないぜ‼
『佳澄の基準だと、人類みな自分と同じ方向感覚だと思っているから、自分がしっかりしていたいのだと思うわ。正直、純夏に任せた方がいいのだけど、それを佳澄にわからせるのは難しいから』
「そんなことを聞いてしまっては、ますますやる気がわいてきます。会長が自分を想って!」
『はっきり言うのは無理でも、うまくフォローはしなさい。でないといくら時間があっても足りないから』
「はあ」
『いくらあなたが佳澄と延々歩き続けたいと思っていても、よ。ただでさえ歩く行路なのだから、短縮できるならした方がいいの。あなたは佳澄のおかげで無限体力かもしれないけれど、佳澄の体力は無限じゃないから』
やんわりと釘を刺されてしまった。確かに斧研百鬼副会長の言う通りだ。
それに会長が私に負担をかけまいと頑張ってくれているのに、私だけがのんきに喜んではいられない。働かねばならないだろう。
「わかりました。うまいことやってみます」
『頼んだわよ。また連絡してね』
「委細承知であります」
副会長と通話を終え、会長の元へと戻った。乃野々宮会長はまだ地図とにらめっこしている最中だ。
「月下南交差点かぁ」
道路標識を見ながら口に出してみる。会長に「ここは月下南交差点ですよ」とアピールしたつもりなのだが、どうだろう聞こえただろうか。
ちらりと会長を窺うと曇っていた表情がぱっと明るくなった。
「……ここね」
小さく呟きも聞こえた。
うおっしゃあ‼
心の中で盛大にガッツポーズをとる。
会長をさりげなくフォローすることができた! 自分でも会長の助けになれるのだ。それにこれなら斧研百鬼副会長に怒られる心配もない。
「体力に問題ないね?」
「まったく問題ありません」
「じゃあ、進むよ、北原」
「はい!」
会長は逐一、こちらを気遣ってくれる。
やっぱり会長は最高だぜ‼
そこから適度に呟き作戦や、地図を示して、今はここじゃないですか作戦を展開し、会長をフォローし続けた。
私たちの努力が功を奏したので、それまでに比べると格段に早く行動できるようになった。時折、明後日の方向へ進むこともあったが、もはやご愛敬というものだろう。
そんなこんなな大冒険の末、普通であれば考えられないほどに時間をかけた私たちの目に、目的地が映ることになった。
「やっと着いたわね」
「そうですね」
「少しだけ待っていて」
「はい」
会長は歩き出した。ここまでくると、会長一人を歩かせるのはやや不安があったが、さすがに目に見える範囲では迷いはしないだろう。この隙に斧研百鬼副会長に連絡だ。
『斧研百鬼よ』
「北原でございます」
相も変わらず斧研百鬼副会長はすぐに電話にでた。
さては全っ然、休んでないな、この人。
「とりあえず着きました」
『え? もう? ずいぶん早いわね』
「え? いや結構かかりましたよ? まさかこんなにかかるとは思いませんでした」
『……えっと、着いたってどこに?』
「駅です」
電話口の向こう側で盛大なため息が聞こえる。
『駅なの……。それじゃスタートラインじゃない……』
まあ、そう言われればそうかもしれない。
林間学校の宿泊地には電車で向かうのだ。私と会長は、八時に会長の自宅から駅に向かって出発したのである。それから二時間延々歩き続けた。もちろん自宅から駅までと、駅から宿泊地までの道のりを比べれば、圧倒的に後者が遠い。
『まさかまだ電車にも乗ってないなんて……どういうことなの、純夏?』
「え? いや、自分は精一杯やりましたよ⁉ ちゃんとフォローしましたし!」
『ふぅん?』
「ぐぅ……た、確かに会長と歩くのが楽しすぎて時間を忘れていたかもしれませんが、できる限り努力しましたから! 特に一度、桜華さんに連絡してからは!」
『三十分も前でしょ』
「いや、しかし……」
確かに会長の自宅から駅までは、普通ならのんびり歩いても、三十分はかからない。それを延々、二時間歩いていたのだから、お叱りを受けても当然か?
『まあ、いいわ。佳澄のフォロー一度目にしてはよくやった方でしょう』
「だったら脅すようなこと言わないでくださいよ」
冷や汗をかいてしまった。
『誘導のコツは掴んできた頃じゃない? 電車に乗ったらもう少しうまくやりなさいね。ちゃんと日が暮れる前に帰ってくるように』
「わかりました」
向こうで日が暮れてしまったらどうしよう。もしや、か、かい、会長とお泊り⁉
『「お泊り」とかないからね?』
う。エスパーか、この人。
桜華さんの冷ややかな声を聴きながら思う。
「当り前じゃないですか~。おっと、会長が戻ってきそうなので、いったん切りますね。向こうの駅についたらまた連絡します」
『十時十二分発がある。おおよそ四十五分後ね』
遅れるなってことですね。わかりました。
見えてもいないが、スマホに向かって頷いてしまった。
まったく空恐ろしい人だ。
会長が切符を買って戻ってきた。
「持たせたね。しかし、駅がこんなに遠いとは思ってなかったな」
「まあ、会長はあまり利用しないからではないですか」
こんなに遠いわけではないので、なんとも言えない。フォローになっているのかわからない言葉でお茶を濁しておく。このまま会長と他愛ない雑談としゃれこみたいが、十時台の発車時刻が迫っている。それに桜華さんとのタイムリミットもある。
ちんたらしてられない。
これまでの道中を思えば、まだまだ時間がかかるのは確かなのだから。向こうに着いたら全く知らない場所になるわけだし。
「それじゃ、会長、行きましょう。ずっと会長に案内してもらっていたので、駅は自分にまかせてください。調べてきましたから」
「そう? じゃあ北原に任せようかな」
会長はにこやかに笑った。
素敵すぎ‼
会長から切符を受け取り、笑いながら言った。
「まだまだ先は長いですからね」