蛇足3本
マルカ嬢の日常は、思っていた以上に仕事を中心にして回っていた。
朝起きれば、朝食を摂ると地方から取り寄せた新聞を読んで、何やら書類に情報をまとめ出す。
それが終わると会議、商談、現場まわり、申請書類の承認。
あっという間に、日が落ちる。
「――ね? つまらないでしょう?」
専任騎士として派遣されてから、早二週間。
帰りが遅くなったため、今日は会議終わりにレストランで夕食だ。
メイドのアミ・フレッタとマルカ嬢、そして僕。
同じテーブルでパンをちぎりながら、前に座った彼女は言う。
――何が、つまらないでしょ、だ。
僕は握ったフォークを机に置いた。
行く先々で、マルカ嬢に向けられるのは、尊敬や羨望だけじゃない。
彼女がまだ成人を迎えたばかりの令嬢だから、と。
自分の息子との結婚はどうだ。婿でも取るのはどうだ。娘と茶会はどうだ。仕事なんて男に任せておけばいい。
直接言う奴もいれば、遠回しに伝える奴もいた。
そして、マルカ嬢はそれを全てあの笑みで返すのだ。
「ねぇ、あれってもしかして」
「ええ。エラ・レーゼ様で間違いないわ」
「前に座ってるのは誰? 私、見たことないわ」
「わたしも知らない。まるで町娘みたいに貧相な娘ね」
「せめて、愛想良く卿を楽しませようとは考えないのかしら。お高く止まっちゃって、彼と食事をしている自分に酔っているのではなくて?」
「無名の令嬢の相手もしなくちゃいけないなんて、あの方は優しすぎるのよ」
近くの席から、この二週間で聞き慣れてきた類の会話が聞こえる。
アミ・フレッタが隣で肉にフォークを突き刺しているので、きっとマルカ嬢にも聞こえているに違いなかった。
素知らぬふりで小さな口にパンを放り込み、もぐもぐと咀嚼をする彼女は通常運転。
僕は耐えかねて、横を向くと彼女たちに目を向けた。
こういう時、するべき表情は決まっている。
無だ。口角なんて上げてはいけない。目尻だって下げてはいけない。嗤って黙らせるのは逆効果。微笑みの種類なんて見分けられる訳がないから。
「「――っ!?」」
パートナーを置いてけぼりにして、女性ふたりで楽しそうなお喋りをしていた彼女たちは、ギョッと目を見開いた後に顔を逸らす。
「…………リカルド卿。整いすぎた貴方の顔で無表情をされると、怖いってご存知です……?」
前を向き直せば、そこには呆れた眼差しのマルカ嬢。
「さあ? 僕はただ横を向いただけだ」
彼女の無関心は自衛のためのもの。
言わせておけばいいと思っているのは、今日までのことでよくよく分かっていた。
その対処が間違っているとは思わないし、何なら僕も使う手だ。
だけど、マルカ嬢の専任騎士として。
僕は彼女に悪意を向けるものを、黙って見届けることはできない。
これは仕事だ。僕は僕が出来る最善を尽くすから、彼女の言葉は関係ない。
――それよりも、だ。
「僕の顔、そんな風に思ってたんだな」
容姿について、マルカ嬢から初めて言及された。
「……ああ。リカルド卿は、その恵まれすぎた容姿に無自覚なんでしたね」
すると、何故か哀れみの目を向けられる。
全く解せない。
どうして、今の会話だけで、僕はそんな目で見られなければならないのだろう。
「…………人より、少し好かれやすいというだけだ」
「驚きました。自覚がおありだったんですね」
目をパチパチと開いては閉じて。
マルカ嬢は本気で驚いたとでも言いたげな顔だ。
そんなことを直接言ってくる女性に出会ったのは、これが初めてだった。
「……あれだけ女性に囲まれたら嫌でも自覚する。男からは『顔がいいからな』と話のネタにされる」
「ご自分がこの国の乙女の希望の星だと分かっていながら、私なんかにあんな街中で誤解を招くようなことを言ったんですか。無防備ですね」
「その単語、君にだけは使われたくなかった」
眉間に皺が寄る。
彼女には。彼女だけには、言われたくない。
「知ってますか。リカルド卿」
「……何を……」
僕はやり切れない気持ちを、目の前のステーキにぶつけた。
ナイフでカットして一切れ頬張ると、タイミングを見計らったマルカ嬢が尋ねてくる。
「卿が私を守れば守るほど、貴方はご自分の未来を潰すんですよ」
そして、言われたことに、時が止まった。
「…………は?」
何日かぶりに素が出た。
本気の困惑だ。意味が分からない。
何かを察したアミ・フレッタは、席を立ってしまう。
「お忘れかもしれませんが、私は一応花盛りの独身貴族令嬢もやってまして。他に家族のいない女当主の屋敷に男性騎士を駐在させるなんて、事実だけ見ればただの同居です」
「…………」
「王宮騎士団副団長で顔も人柄もいい貴方がたったひとりで私の目付け役として寄越されたのは、あわよくばそのまま結婚してもらって、マルカ・サージェ・ペルルシャを手中に置いておきたいからでしょう」
「…………」
マルカ嬢は、ワインを仰ぐ。
「代わってもらった方がいいと思いますよ。貴方の力は、もっと他の人たちのために使われるべきだ」
長いまつ毛が、影を落とす。
彼女は空になったグラスに、ボトルを傾けた。
――そこまで。
そこまで分かっていながら、僕を突き放すのか。
自分の中に、得体の知れない何かが広がっていくのが分かった。
相手がもし、他の令嬢だったら、僕はきっとこんな気持ちになっていないだろう。
たとえば……そう、あの公爵夫人でも。
ガイアロン公爵に嫁いだ彼女を、僕はただ眺めるだけだった。
珍しくまともに会話をしてくれる大人しいリリアーネを大事にしたいと思ったことは、確かな事実。
だけど、避けられていると分かった時点で、僕は身を引いた。
たいして彼女の環境を理解しようともせず。
ただ一方的に押し付け、勝手に失恋して。
本当に情けない話だ。
マルカ嬢の言う通り、あの時の僕はとんだヘタレだった。
今なら、それが分かる――。
そして、僕は今。
本能も理性もぶち破いて、目の前の彼女を諦めるという選択肢がなかった。
マルカ・サージェ・ペルルシャという彼女に突き放されたという事実に、苦しいくらいに強く胸を締め付けられる。
これでは子どもの我儘だとは分かっている。
しかし、理屈じゃない。
僕は――。僕は、彼女の隣にいたい。
「――どうしてだ。何故、君は頼ってくれない」
きっと頭の切れる君なら、自分の結婚相手は限られた範囲でしか選べないと分かっているはずだ。
それなら、実家を継がない次男の貴族男子で、そこそこ見た目がよくて、若く、剣も振える僕を盾として使ってくれればいい。
もし結婚したとして。
僕は見張ることはあっても、決して君の仕事を奪いはしない。
男避けとしてなら価値があることも、分かっているはずだ。
頼ってくれ、なんて烏滸がましいのかもしれないけど、利用してくれなんて言ったら、君はまたあの笑みで笑うだろう――?
「僕は、君が義姉のためを思って探した婚約者候補のひとりなんだろう。なら、君にとっても悪い人間じゃないはずだ」
「…………」
マルカ嬢は押し黙った。
それは、いつも何かしらの反応を返してくれる彼女については肯定と同じだった。
沈黙を誤魔化すように、彼女はグラスに口をつける。
僕には、ここ数日マルカ嬢と一緒にいて、気が付いたことがある。
彼女は、落ち着いた声で淡々としているから冷たい人だと思われがちだ。
だけど、本当は、優しすぎる人だ。
彼女は――人の不幸を見ていられない。
たとえ性格のいいとは言えない母親と姉でも。好かれているかも分からない義姉でも。家族のためにお金が必要なメイドでも。そして、義姉に失恋したヘタレな騎士でも。――自分ができるだけの幸福を、与えずにはいられない。
それができるだけの力が自分にあると知っていて、そのためなら何億と稼げる。
政治のために利用される僕の不幸を見ていられないから、忠告しているのだ。
「僕が君の隣にいる未来を、不幸だと決めつけないでくれ」
ぴたり、と。
ワイングラスを持つ、マルカ嬢の手が止まる。
「……自分が今、何を言ったのか、ちゃんと意味を分かっています?」
「ああ」
真剣に頷けば、彼女はグラスを置いた。
その目は今までに見たことがない、まるで迷子の子どものように揺れている。
そして、ふうと熱を帯びた息をひとつ吐くと。
彼女は僕の目を真っ直ぐに見返す。
その瞳には、先ほどまでとは違う色が浮かんでいて。
「リカルド卿は、あの怪物公爵様が何の理由もなく私に剣を向けたとでも思っていらっしゃるのですか――?」
諦めのような。自嘲のような。
まるで泣き出しそうな笑みで、マルカ嬢はそう言った。