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聖女は英雄になれなかった

作者: はるしの

 

 必死に伸ばした手と縋って向けた視線の先に、聖女マレーナは絶望を見た。


 助けてほしくて手を伸ばした。

 気付いてほしくて視線を向けた。


 けれども、その手が掴まれることはない。視線が交わることもない。

 その時マレーナが見たのは、自身に背を向けて走り出す、勇者(すきなひと)の背中だった。


 どうして、と。


 呆然と見ていた彼女は、彼の向こう側、宙に舞う美しい金の髪に気付く。

 切り立った斜面に作られた、細い山道。そこから落ちそうになっているのは自分だけでないと悟った瞬間、マレーナの心を支配したのはどす黒い嫉妬だった。


 どうして、私を見てくれないの?

 どうして、私を助けてくれないの?

 なんで、私をちらりとも見てくれなかったの?

 なんで、私を心配してくれなかったの?

 どうして、どうして、どうして。

 なんで、なんで、なんで。


 どうして、なんで、と延々繰り返す醜い感情。そんな想いを自覚すると同時に、マレーナの心はふわっと軽くなる。


 慈悲深き、清廉なる聖女。それがマレーナの役割だった。

 醜い感情を抱かず、慈悲慈愛のみを身に宿す、穢れを知らぬ乙女。それが人々の望む聖女の姿。

 だから人々の期待する人物になりきるため。そして何より、好きな人が必要とする人物であり続けるため。

 自分で自分に暗示をかけ、今日の今日まで完璧に、清廉潔白な女を演じていたというのに。

 最期の最後で、気付いてしまうなんて。


 

 私は、勇者の仲間(えいゆう)に、なれない。


 

 伸ばすことをやめた手。小さくなって、見えなくなっていく、勇者の背中。

 最期だからと目に焼き付けるように、マレーナは彼の背中を見つめた。

 何度も何度も助けてくれた、広くてたくましい、大好きな彼の背中。

 こんなに強く熱い視線を送っているのに、勇者は振り返る素振りひとつ見せない。

 それが答えだ。


 悲しい答えだった。

 悔しい答えだった。


 でもだからこその彼だと思うのだから、きっとマレーナは救いようがない。だって彼女が好きになった彼は、いつだって正しく間違わない、正義の人だったから。


 マレーナは高いところから、下に広がる深い森へと落ちていく。

 勇者の背中が完全に見えなくなって、今度は視界いっぱいに青空が広がった。

 彼の声が聞こえる。どうやら反対側に落ちそうになっていた彼女は、無事に助けられたようだ。


 私は助けてもらえなかったのにと嫉妬するが、同時に彼女は助かってよかったと、素直に思える。それがとても、嬉しい。

 嬉しくて、悲しくて、笑みが零れ、涙が溢れる。

 仲間たちの、そして勇者の中の自分が、清廉潔白な女のままで死ねることに安堵しながら、マレーナは落ちていく。


 勇者には幸せになってほしいけれど、自分の死が傷になってほしいとも願った。

 それは聖女の思考ではない。浅ましい嫉妬に狂う、醜い女の呪い(ねがい)だ。


 そうして、聖女になれなかった女は落ちていった。どこまでも、どこまでも、落ちていった。

 

***

 

 マレーナが勇者と出会ったのは三年前。魔王討伐のために旅をしながら仲間を集めていた勇者が、治癒魔法を使う女の噂を耳にしたことがきっかけだった。


 マレーナは教会に併設された孤児院で育った孤児だった。身請けされることなく大きくなり、修道女見習いとして孤児院で働く、何処にでもいる女だった。

 そんな彼女だが、ひとつだけ普通ではないところがあった。それは強力な神聖魔法を使えること。

 神聖魔法は聖女のみが使える特別な魔法だったが、マレーナはそれを周囲に隠していた。理由は簡単で、自分が聖女になれるはずがないと知っていたからだ。


 マレーナはとても利己的な人間だった。慈悲深く慈愛に満ちた、優しさと神聖さの権化たる聖女とは、正反対の女だったのである。

 本人はそれを強く自覚していたし、聖女として認定されれば人々の思い描く聖女像を強要されることもまた、理解していた。

 なのでマレーナは力を隠して、平凡な女として平穏すぎる日々を過ごしていた。


 だがある日のこと。マレーナが怪我をした子供の手当をしていたところ、勝手に治癒魔法が発動してしまう。それを司祭に見られてしまい、彼女の平凡な日常は終わりを迎えた。

 あなたは聖女ですか?

 いいえ、わたしは聖女ではありません。

 そんな押し問答を無限に繰り返し、いい加減逃げ出してやろうかと思い始めた、そんな頃。



「あなたが治癒魔法の使える聖女ですか?」



 それはマレーナにとって聞き飽きた台詞だった。普段ならば一刀両断する、答えるに値しないくだらない質問。

 けれど、どうしてか。マレーナは自然と頷いていた。

 それは質問してきた男があまりに美形だったからもあるが、運命を感じたから、が一番の理由だった。


 勇者を名乗る、金髪碧眼の青年。マレーナは直感で理解した。この男は神より選ばれた、真の勇者で間違いないと。

 そうして、マレーナは聖女となった。聖女という勇者の仲間として、彼と共に魔王を倒すための旅に出発した。


 勇者の名はエストといい、マレーナの住む国の第三王子だった。彼は勇者としても、王族としても、ただしく正義の人だった。世界のため、民のため、世界に平和をもたらそうと望んでいた。

 正直なところ、マレーナは世界の平和にも民の安寧にも、あまり興味がない。自分と自分の周囲だけ、平和で穏やかならばそれで良かった。

 けれど、それではいけないのだと、マレーナは徐々に思い始める。

 共に旅していく内に、勇者とて普通の青年であることを知った。


 甘い顔立ちで、絵本から飛び出してきた王子様みたいな見た目なのに、中身は正義感のある悪ガキみたいで、性格がちょっと子供っぽいこと。

 正義を信じている割には悪事にかなり寛容で、人々の迷惑にならないことなら結構融通が利くこと。

 衆目があるところでは王子様らしく綺麗に笑うけれど、本当は大口を開けて快活に笑うこと。

 愛馬が白馬じゃなく真っ黒な馬で、それについて陰口を言われては憤慨していること。

 

 当初マレーナは勇者のことを、弱きを助け強きを挫く、勧善懲悪な人物だと思っていた。それでなくとも王族なのだから、高貴で慈悲深く、自分とは全く違う雲上の人だと思っていた。

 でもそんなことは一切なくて、勇者であろうと王子であろうと、エストは普通の男で、きちんとひとりの人間だった。

 マレーナは知れば知るほどエストが好きになっていった。そして彼に見合う存在にならなくてはと、理想の聖女として振る舞うことを心がけた。

 利己のため利他的に行動するようになると、マレーナの評判は鰻登りで上昇していった。


 そうして出来上がったのは、清廉潔白で慈悲深く慈愛に満ちた、人々が求め望む穢れなき聖女。


 誰もがマレーナを聖女と崇めるように、マレーナ自身も自分が立派な聖女であると自己暗示をかけていた。

 勇者であり王子である彼の隣に相応しい人物になろうと、女は自分の本性を忘れようとした。

 けれども、人間の本質は変えられないものだ。


 どんなに理想の聖女のように振る舞っても、最期の最後に表れたものが、その人本来の姿なのだ。

 自分のために他者に優しくした。自分のために自分を犠牲にした。

 本当は他者のことなんてどうでもよくて。マレーナはたったひとり、エストにだけ、良く思われたかった。


 好きになってほしかった。愛してほしかった。

 彼にとってのただ一人の存在、彼の唯一になりたかった。

 本当にただ、それだけだった。

 だから真実を抜き出せば、これは愛されたがりの女が勝手に死んだ、それだけの話だ。


 

 ……魔王を倒し王都に帰還する途中で、『聖女』は不慮の事故により亡くなった。

 人々にとってはそれが真実。誰ひとり聖女の振りをしていた女の本性など知るよしもなく、誰もがその悲劇に涙を流したのだった。

 

***

 

「いい加減、この話題に飽きないのかしら」


 新聞の見出しに踊る、悲劇の聖女という文字。この三年間で嫌と言うほど目にしたそれに、女は呆れかえっていた。


「もっと楽しい内容を書けばいいのに。勇者と仲間たちの愉快な珍道中とか、売れると思うのよね」

「お前な……苦楽を共にした仲間を一人失っておきながら、のんきに冒険譚なんぞ語っていたら非難囂々に決まっているだろうが。このたわけ」


 女のぼやきに正論を返したのは、頭に漆黒の角を生やした少女だ。彼女は女の前にお茶の入ったカップを置き、自分の分のお茶を持って椅子に座る。


「生前の彼女のことを後世に残したい、とでも言えば文句なんで出ないわよ。人間はみぃんな好きよ? そういうくっだらない美談」

「……常々、お前は生まれる先を間違ったと感じるな。魔王よりも魔王らしい考え方をしてどうする、清廉が売りの聖女が」

「あら、奇遇ね。私も思ったことがあるわ。私なんかよりずっと優しく慈悲深い存在が魔王だなんてってね。本当、お互いにとんだ悪夢だったと思わない?」


 女、マレーナは哀れみが満ちた目を、魔王たる少女へ向けた。その表情はまさしく聖女として相応しいものだったが、マレーナの本性を知っている魔王は嫌そうに顔を歪める。


「我を通して自分を哀れむな、気色悪い」

「自己憐憫なんてしてないわ。本当に、貴方には同情しているのよ。強い魔力をもって生まれただけなのに、魔王と貶められた貴方を」

「口ではなんとでも言える。お前は自身で分厚い聖女の仮面を作り上げ、しかし中身まで聖女になれなかった愚かな自分を、ひどく哀れんでいるのさ。自分で望みながら自分で壊したから、自身に哀れむ権利はないと思い込んでいるだけでな」


 魔を統べる役割を負い、長き時間を生きてきた魔王の指摘は、毎回マレーナの痛いところを的確に抉る。

 見た目は幼いが、中身はマレーナの何十倍も生きている老獪だ。口では勝てないとマレーナは沈黙する。

 聖女は死んだ。だからマレーナというただの女は今、魔王と共に暮らしている。

 

***

 

 世界の平和を脅かす魔王と呼ばれていた存在こそ、実は世界の調和を保つために、世界中で生み出される魔力を統括している者だった。

 紆余曲折あってそれを知り、最終的に和解した勇者たちと魔王。彼らはお互いに協力して、世界を守っていくことを誓い合った。

 ひとまず魔王は倒したことにして、魔王は自由に動けるように。そして勇者たちは魔王の行動が邪魔されないように、人々を制御し導いていく。

 そんな行動方針を決めて魔王と別れ、勇者たちは王都へと帰還することになった。


 マレーナが落石を避けた拍子に足を踏み外し、切り立った斜面の高い位置から転がり落ちたのは、その帰路のことだ。

 斜面に体中をこすりつけ、木々に激突しながら地面へと叩きつけられたマレーナは、当たり前だが死を覚悟した。

 ところが神はマレーナを見捨てなかったようで、自分たちとは正反対の方向へ旅立った魔王が、偶然にも彼女の近くにいたのだ。

 魔王いわく、妙な予感がしたから転移魔法を発動させたら、マレーナのところに飛ばされた、とのこと。

 ともかく、マレーナは魔王のその予感のおかげで一命を取り留めた。


 ……しかし、ならばなぜ、聖女は死んだことになってしまったのか。

 それは現場状況と魔王の世間知らずが原因だった。

 魔王がやってきた時点で現場は血だらけ、周囲には魔獣が群がり始めている地獄絵図。

 彼女は大急ぎで魔獣を蹴散らしたあと、死にかけているマレーナを治療するために、転移魔法で自身の拠点へと移動した。その場に大量の血痕と、引き裂かれた衣服と、たくさんの魔獣の死体だけを残して。

 補足するならば、長き時を一人で生きてきた魔王は人の常識にとても疎かった。それにさすがに魔王とはいえ、突然の事態に気が動転していたこともある。

 だから勇者たちに連絡をするなどという、当たり前の考えはいっさい浮かぶことがなく。

 そしてマレーナが意識を取り戻した頃には、王都にて聖女の葬儀が行われた後だった、という顛末である。


 聖女は死んだことになってしまったと魔王に謝られたが、マレーナはまあいいか、と軽く受け入れた。自分の醜さを思い知った状態で、あのこっぱずかしい聖女然とした振る舞いなど、出来るはずもない。

 ならばただの女として平凡に生きよう。

 事情を理解したマレーナは即決断した。そしてマレーナに罪悪感を持っていた魔王に話を持ちかけ、共に暮らすことに同意させた。


 ふたりは今、北の果ての果てにある深い森の奥深く、そこに建てた小さな家に住んでいる。人外魔境のど真ん中だが、生活するにあたって不便は全くない。

 魔王は長距離転移魔法が使えるし、移動魔法が使えないマレーナのためにと、世界各地に転移魔法陣を繋いでくれたのだ。実は人間社会の中で生きていた時より、ずっと快適に過ごしていたりする。

 遠くへ買い物へ行くことも、孤児院の様子をこっそり見に行くことも、ほんの数秒で行けてしまうのだ。

 まるでここは理想郷だと、マレーナはその大きな感動を魔王に素直に伝えた。魔王もまんざらではない様子で、行ける場所がどんどん増えていった。

 ……おそらく今後、元の生活に戻ることは出来ないだろうな、と内心密かに思うマレーナである。

 

***

 

 転移魔法陣はマレーナの住んでいた国の王都にも繋いであるので、最新の新聞を入手することだってとても容易だ。だからこそ、マレーナは憤慨していた。


 聖女が死んで丸三年、もうすぐ四年目に突入する。

 最初の一年間は、どこの新聞も聖女の死を悼む記事ばかりだったことを、仕方のないことだと諦めた。

 そして二年目に入り、その話題がほぼ見なくなったかと思えば、聖女の命日に近づくと、また聖女の話題で埋め尽くされて。

 まあ二年目だものな、と思ったものの、三年目の今もまた、同じ状態になりつつある。


 魔王と戦い生き残ったのに、帰路の途中で命を落とした、悲劇の聖女。

 聖女としての仮面を完全に捨て去ったマレーナは、その言葉が嫌いだ。

 狭い崖道で落石が起きたのは事故であり天災で、運悪く二人同時に落下しそうになり、結果片方しか助けられなかった。

 それらはどうしようもないことで、誰が悪いという問題ではない。

 だから偶発的な死を悲劇だなんだと騒ぐくらいなら、平和になったことへの喜びを表現してほしい。それが正しい世界の在り方だ。

 だというのに、こんな鬱々とした記事しか出ない理由。それはまさかの勇者が原因だった。


「もう三年、もうすぐ四年になるっていうのに、私の死をまだ引きずってるとか。エストがこんなに女々しいとは思わなかったな」

「……お前、本当に人でなしだよな。人の心がない」


 魔王の冷たい視線を無視して、マレーナは新聞をテーブルに投げ置いた。

 聖女の死を悼む文章と共に描かれている肖像画は、勇者であり第三王子でもあるエステバン殿下、つまりエストだ。

 一緒に旅していた彼は十八歳だった。当時はまだ少年らしさが少し残っていた顔立ちも、今では完全な成人男性のそれになっている。

 もはや王子様というより勇士や騎士のような、とても美しい武人といった容貌をしていた。実際、勇者としての功績により騎士爵を賜っている。そう新聞に書いてあった。

 勇者として帰還し、今は騎士となった彼の通り名は、冷えた月光の騎士。

 冷たい目をして一切笑わない冷徹な美貌と、満月の光を思わせる金の長い髪。あまりに美しくも冷え切ったその様に、周囲は冷えた月光と表現したらしい。


 最初にそれを聞いた時、マレーナは自分の耳を疑った。彼女の中のエストといえば、感情表現の豊かな、とても明るい人物だ。そんな人が一切笑わなくなるなど、別人と入れ替わったのか、と。

 そして調べた結果。どうやら聖女を助けられなかった悔恨から、前のように笑えなくなったと言われているらしく。

 そんな未だに喪に服しているような状態のエステバン殿下に慮って、聖女の命日に近くなると、どの新聞も聖女の追悼記事を特集しているらしかった。


 それを聞いたマレーナは怒った。それはもう激怒した。

 マレーナは落ちていく最中、確かに自分がエストに傷になればいいと願った。だが、長々うだうだと引きずってほしいとは、微塵も思っていなかったのである。

 喪に服すのは一年くらいで、あとは時折思い出してくれる程度の傷で良かったのだ。誰が、周囲を巻き込んで、盛大に、うだうだうじうじ後悔しろと言ったというのか。

 何度も言うが、マレーナは利己的な人間である。しかし未だに神聖力を持つ、本質的な聖女でもあった。


「……決めました。エストから聖女の記憶を抹消します」

「は?」

「いつまでもうじうじうだうだいじいじと……周囲もいい加減鬱陶しいと思ってるに決まってるもの。もう強制的に忘れてもらいましょ」

「つまり、神聖力で記憶をいじって飛ばすつもりか? お前な……お前を失ったことからの感傷だぞ? それくらい好きにさせてやれんのか」

「度が過ぎているっていうのよ。仲間がひとり死んだくらいでここまで引きずられるとか、予想外もいいところだわ」

「仲間がひとり、ね」


 魔王の含みある言い方に、マレーナは眉を跳ねさせる。


「何か間違っていて? 私はちらりとも視線を向けられなかった、とっても頼りになる勇者の仲間でしょ? 心配する価値もない、お仲間の聖女さま」

「……お前もずいぶんと拗らせているよなぁ」

「かもね」


 聖女は、勇者の仲間だった。たくさんの窮地を協力し助け合い、共に乗り越えてきた、かけがえのない戦友だった。

 だからよく知る強い聖女よりも、か弱い少女を優先したのは、当たり前のことだ。自分が勇者だったとしてもそうするに違いない。だって、その判断が正しいのだから。


 そう、当たり前だった。当たり前なこと、だったのに。


 勇者が、自分へ一度たりとも視線を向けなかったことが、マレーナはひどく悲しかった。

 自分だったら、勇者の無事をすぐさま確認するから。好きな人が無事かどうか、気になって仕方がなくて。

 けれども、勇者はマレーナに目を向けることなかった。落ちていく少女だけを真っ直ぐに見て、駆け出していた。

 そも、落ちかけていた少女は仲間の魔法使いであると同時に、正真正銘、勇者の妹だった。対して、マレーナは聖女という役割を持つだけのただの仲間、まさしく他人で。

 他人と家族ならば、家族を優先するのは当たり前のこと。重々理解しているというのに、どうして。あの時はなぜ、あんなに苦しかったのか。


 ……分かっている。あの時抱いた感情は、男に恋した女の愚かな願いだった。

 家族よりも自分を優先してほしいと。いや、誰よりも何よりも、自分を最優先してほしいと。

 そう、勇者に願っている自分に気付いて、マレーナは愕然とし絶望したのだ。


 強いから大丈夫だと信頼されていた。それは本来、喜ばしいことだった。ただそれが、マレーナの望むものでなかっただけで。

 せめて一目でも、自分に目を向けてくれていたのならば。

 きっとマレーナは自分の本性に気付かず、今も聖女として表舞台に立っていたかもしれない。

 しかし、現実はこうだ。だから、マレーナは自分をあざ笑う。


 聖女は英雄になれなかった。そんなものじゃ満足できなかった、愚かで浅ましい、強欲な女だ。


「一応、忠告しておこう、聖女。限界まで追い込まれた手負いの獣に手を出すことは、自殺行為だと」

「ご忠告どうも。でもその傷を消すために手を出すのだから、すぐに回復して大人しくなるわ」

「我は忠告したからな。まったく……お前は似ていないと思ったが、まさか一番そっくりだったとは。恐ろしい」

「誰にそっくりなの?」

「お前たちの信仰する、くそったれな神ってやつにだ」


 吐き気がするほど自分勝手で、傲慢だ。

 魔王の吐き捨てた悪態に、マレーナは笑った。それはとても優しい笑みだった。

 

***

 

 穏やかな風が吹く、海を一望できる丘の上。そこに聖女の墓碑はあった。

 彼女が育った教会と孤児院が建つ街の近くで、王都からは少々離れている。そんな場所に、毎年勇者は墓参りに来ていた。

 風に吹かれて揺れる、ひとつに括った金の髪。

 冷たく凍った碧眼は、まっすぐに墓石に刻まれた文字を見つめている。

 手に抱えていた花束を墓碑に供えたあと、勇者はその向こう側に広がる海に視線を向けた。


「エスト」


 聖女の声がした。勇者はぴくりと肩を揺らすものの、振り返らず海を眺め続ける。


「エスト」


 再び、声がした。それでも勇者は振り向かない。

 頑なにこちらを見ない勇者に、マレーナはため息を吐く。どうやら勇者は彼女の呼び声を、どうやっても幻聴にしたいらしい。


「ちょっとエスト。反応くらいしてくれてもいいんじゃなくて?」


 強めに、けれど親しみを込めてそう言えば、今度は大きく勇者の肩が揺れた。そしてゆっくりと、何かに怯えるように、そうっと振り返る。

 そして聖女の姿を目に映した瞬間、冷たい美貌がふわりと溶けた。


「……やっと会いに来てくれたんだ、マレーナ」


 そう呟いて、嬉しそうにエストは笑う。

 彼の視線の先、聖女のシンボルである純白の衣をまとったマレーナは、呆れた顔をして肩をすくめた。


「本当は会いに来るつもりなんて全然なかったんだけど、エストがあんまりにも女々しいから、文句を言いにきたわ」

「そっか。文句でも恨み言でも何でもいいよ。君に会えるなら、それでいい」

「そんなに私に会いたかった?」

「うん。とても会いたかった」


 エストは笑う。静かに、綺麗に、微笑んでいる。それはマレーナが好きだったエストの笑い方ではなく。


「だったら、もっと嬉しそうにしなさいよ」

「三年間、表情を動かさなかったから、表情筋が固まってしまったみたいだ。とっても嬉しくて、今にも泣きたいくらいなのに」


 きっと伝わってないね、とエストはまた笑った。

 その表情がとても苦しそうに見えて、マレーナは自身の顔から感情を抜いた。そして聖女の笑みを浮かべて、告げる。


「ねぇエスト、もういいんだよ。私のことは、もういいの」

「うん」

「私は、エストに幸せになってもらいたい。だから、私のことは、引きずらないで。いっそ、忘れちゃっていいよ」

「うん」


 聖女の言葉に、エストは微笑んで頷くのみ。ここでマレーナは違和感に気付く。


「エスト?」

「……うん。嬉しいな、マレーナが僕の名前を呼ぶ声、ずっと聞きたかったんだ」


 困惑するマレーナをよそに、エストはゆっくりと、後ろへ下がっていく。


「マレーナがいなくなった日から、僕は一度も、マレーナの姿を、夢でさえ見ていない。声が聞こえたこともなかった。そして優しいマレーナのことだから、もし会えたとしたら、もし声が聞こえたとしたら。僕に幸せになれって、自分のことを忘れてもいいって、言うだろうと思ってた」

「エスト……?」

「残酷だよね、忘れられるわけないのに。でも、それでも。また一目でいいから、君に会いたかった。声が聞きたかった。そしてそれは今、叶った。マレーナにマレーナを忘れて幸せになれって言われたら。こうしようって、決めていたんだ」


 エストは後ろへ下がることをやめない。墓碑の向こう側に遮るものなどない。下に海が広がる丘の端へと、彼は近づいていく。

 もうあと数歩で地面がなくなる。分かっているはずなのに、エストが歩みを止めることはなく。


「マレーナがいない世界で幸せになんてなれない。好きな女を見殺しにしてしまった僕は、自分で自分が許せない。だから」


 エストは躊躇うことなく、後ろ歩きで空中に一歩を踏み出した。彼の体が傾いて、金の髪が宙に舞った。


「ありがとう、マレーナ。会えて良かった。ずっと、永遠に、愛してる」


 告げて、エストが丘から落ちて姿が消えた瞬間と、マレーナが慌てて走り出したのは、ほぼ同時で。


「ちょっと待ちなさい! というか待てっ! 言い逃げするな!」


 マレーナが勢いよく丘から飛び降りる。助走があり飛び込み姿勢も完璧だったマレーナの落下スピードはどんどん加速し、先に落ちたエストを抱きしめることに成功する。


「マレーナは、温かいね」


 そう言って嬉しそうにマレーナを抱き返すエスト。その気が抜けた笑顔は、マレーナの好きだった飾らない笑みだった。

 勇者として、きっとエストは限界を迎えていた。誰よりも世界に絶望していたのはこの男だったのだと、今更にしてマレーナは気付いてしまった。


 ああもう、くそったれ!


 マレーナは心の中で盛大に悪態を吐きながら、エストと共に海面へ叩きつけられた。

 

***

 

「だから言っただろうが。他人の感傷を勝手に奪うなと」


 呆れを通り越して無に近くなった視線と声色に、マレーナは返す言葉がなく黙り込むしか出来ない。

 魔王はそんな彼女を見て、深くて長いため息を吐き出した。


「それで、どうするつもりだ?」


 ちらりとマレーナの後ろに向けられた視線。その先にあるものを考えて、マレーナはがっくりと肩を落とした。


「どうするも、こうするも」

「お前は結局、捨てられなかったんだ。拾ったならば最期まで面倒を見るべきだし、その覚悟がないなら手出ししてはいけなかった。そうだろう?」

「その通りだけど」


 マレーナの煮え切らない返答に、魔王は冷たい目で彼女を睨み。


「諦めろ、もうどうしようもない。そうだろう? 勇者」

「うん。責任を持って僕を幸せにしてくれるよね?」


 魔王の意見に賛同する声が、マレーナのすぐ後ろから発せられた。それは背中からぴったりと彼女に抱きつく、勇者だった男の声だ。


 結局、エストもマレーナも死ぬことはなかった。影からことの成り行きを見守っていた魔王に救出されたからだ。

 やれやれと呆れながらも、魔王は意識を失った二人を家に持ち帰った。

 数日後、最初に目を覚ましたのはエストで、魔王からことの経緯を聞いた。そして、勇者としての自分は死んだので、どうかここに置いてほしいと、魔王に頼み込んだ。魔王は渋々ながら、それを許可した。魔王は押しに弱かった。


 そうして、魔王を倒し世界を救った勇者は行方不明となった。

 勇者は愛する聖女に再び出会うため、長い旅に出たのだと。やがて人々は噂するようになる。

 ふたりは伝説の勇者と聖女として、後世に長く語り継がれていくことになるのだが、そんなこと、今を生きている当事者たちが知るはずもない。


 共に暮らしているとはいえ、家主は魔王である。家主が許可したならば、マレーナがどんなに嫌がったとしても、拒否権はなく。

 ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるエストを恨めしい目で見たあと、マレーナは勢いよく椅子から立ち上がった。その動作にあわせて、エストも彼女の首に腕を回したまま立ち上がる。

 マレーナはどうにか彼を振り払おうと身をよじるも、エストは何処吹く風で受け流し、最終的にマレーナが折れる。魔王にとってはもう見慣れた光景だ。


「……、買い物にいってくる」

「僕も行くよ。荷物持ちが必要だろう?」


 嫌な顔と態度を隠そうともしないマレーナと、喜色満面で無邪気に笑っているエスト。まるで子供のようなやりとりをする大の大人たちを眺めて、魔王はそっと息を吐く。


「勇者も聖女も、神に気に入られた人間がなるもの。なれば結局、奴と性質の似ている者が選ばれるのだろうなぁ」


 とはいえ、今目の前にいる二人は、もう聖女でもなければ勇者でもなく。


「そんなに言うなら大量に食料を買い溜めさせてもらいましょうかね? 大食らいの誰かさんが居座っていることですし?」

「はは、耳に痛い話だね。でもマレーナのご飯はおいしいから、しょうがないよ。それに、これからもずっと食べさせてくれるんでしょう? 嬉しいな」

「なっ……!」


 当て擦るただの女と、それを喜んで受けるただの男。

 魔王はそんな不器用でいとおしい二人の人間に、こっそりと慈愛の笑みを浮かべるのだった。

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