第一章 其ノ肆
階段を下りて、自転車を借りるため事務所の扉をノックする。中から「はーい」と佐々木の声が聞こえた。カチャリと扉が開き、頭に手拭いを巻いた佐々木が顔を出した。
「どうかされましたか?」
「えっと、自転車を借りようと思ったんですけど、いいですか?」
遠慮がちに基子が言うと、佐々木はにこりと笑った。
「ちょっと待っていてください。すぐに鍵取ってきますから。良かったら裏のソファーで座っててください」
バタンと扉が閉まり、中からバタバタと音が聞こえる。基子は事務所の裏に周ると、来た時に座ったソファーに腰掛けた。
しばらくして、佐々木が自転車の鍵を持ってやってきた。
「自転車まで案内しますね。どうぞ」
外に出て、来た時とは逆の方向からぐるりと駐車場に回る。そこには屋根のついた簡易的な駐輪スペースがあり、赤い自転車と青い原付が置いてあった。佐々木は赤い自転車を手に取って基子の前に出すと、持っていた鍵をサドルの下にある鍵穴に差し込んだ。カチャンと小気味良い音が響く。
しかし——どこからどう見ても、ママチャリだ。電動式のバッテリーはついていない。確かに期待はしていなかったが、せめて、ピストバイクやマウンテンバイクであればもう少し楽に島を回れるだろう。横から見ても、前から見ても、斜に構えてみても赤いママチャリだ。不意に出そうになった溜息を誤魔化すように微笑を浮かべ、基子は佐々木から自転車を受け取った。安定感抜群のサドルに跨り、ペダルの感触を確かめる。
——これ、ギヤないやつかぁ……
右手ハンドルに付いている付属品は、鈍い黒色をしたベルのみ。実に良い音を奏でくれそうな相貌だ。
基子は笑顔で「行ってきます」と言うと、明日の筋肉痛を覚悟しながらゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
車で送ってもらった道を戻るように進む。すると、直ぐにT字路にぶつかった。左は町の中へと続く道で家々が密集して見える。右は恐らく山への道なのか、木々たちの密度が明らかに濃厚になっていた。とりあえず、町の中を散策しようと左側に折れる。くねくねとした道を上り下りして進みながらしばらく行くと、右手に大きな建物が見えてきた。基子はなんの建物だろうと思い、表札がないか壁を見渡したが、それらしいものは全く見当たらなかった。きっと何か重要な施設なのだろう。
謎の大きな建物を通り過ぎて道なりに進むと、右手奥にまた大きな建物が見えた。しかし、そちらに直接続く道はどこにも見当たらない。基子は仕方なくそのまま前進する。しばらくして、今度はガソリンスタンドが見えてきた。その建物の隣は似たような車が数台停まっていることから、おそらくレンタカー屋だろう。そして、その反対側に大きな倉庫のようなものもあった。
すると、その倉庫からツナギを着た白髪のおじさんが、タバコに火をつけながら外に出てきていた。
「こんにちわー」
基子は自転車を止めてそのおじさんに声をかけた。普段なら知らない人に声をかけることなど絶対にしないはずなのだが、旅先だからか、天気が良くて気分がいいからか、自然と話しかけていることに、自分でも少し驚いていた。
「ん? こんにちわ。 お嬢ちゃん、見ない顔だね。観光かい?」
「はい、さっきこちらに着きました」
「ほう。何にもないところだけどゆっくりしていきなよ。ところで、なんで自転車なんか乗ってるんだい?」
おじさんは不思議そうな顔で基子を見ている。
「宿泊先で借りたんです。折角だから町の中を散策しようと思って」
「ここは坂がきついから大変だろ。そこにレンタカー屋があるから、車でも借りていけばいい」
おじさんは目の前にあるガソリンスタンドの横のレンタカー屋を指さし言った。
「いえいえ、大丈夫です。残念ながら私、免許持ってないので……」
少し困ったように基子が答えると、おじさんはそうかいと言って苦笑いをした。
「まぁ、気をつけて観光しなよ。何もないから、何かあっても誰も来ないからね」
おじさんはそう言って手を挙げると、ポケットから携帯灰皿を取り出してタバコを消しながら倉庫の奥へと消えていった。
——確かに、迷子になったら大変そう。