第一章 其ノ参拾参
宿に着き、軒先で車を停めてもらい早足で玄関を潜る。
診療所を出た時はぱらぱらと小降りだった雨も、いつの間にか本降りに変わっていた。
服に付いた水滴を叩き、スニーカーに付いた砂利を落として靴箱に入れる。
パタンとスリッパを出して廊下を進む。
基子は恭平を待っていようと思い、事務所裏のソファーに腰掛けた。
しばらくして、玄関がガラガラと開き、パタパタと足音が響いた。
「あれ? 部屋に荷物置きに行ったと思ってた」
車に傘は無かったのだろうか。びしょ濡れになった恭平が、何かを抱えながら言った。
「うん。恭平がすぐ来るだろから待ってた。で、何抱えてるの?」
「ん? あぁ、これか。図書館で借りてきた本だよ。濡らしちゃまずいだろうから、服の中に入れて持ってきた」
カジュアルシャツとその中に着たTシャツの隙間から、タイトルの書かれていない薄黄色の本が顔を出した。
ドクンと心臓が跳ねる。
「えっと……それ——」
視線が泳いだ。
まるで、触れてはいけないものだと身体が拒否しているようだった。
変な汗が背中をつつっと流れ落ちる。
基子の様子がおかしいことを察したのか、恭平は本を隠し、話題を変えた。
「そう言えば、夜は飯食べてから向かうか?」
「あ、うん——そうしよっかな……」
恭平から目を逸らして外を見る。
風に煽られた雨粒が、時々窓を叩いていた。
「わかった。じゃ、準備しとくから、基子は部屋で休んでろよ。出来たら呼びに行くからさ」
「うん。ありがとう」
そう言って席を立つが、上手く足に力が入らなくてふらりとよろける。
「おい、大丈夫かよ!」
手を貸そうと恭平が腕を伸ばした。基子は反射的にパチンとそれを払ってしまう。恭平は唖然とした表情を浮かべ、宙に残された自分の腕を見つめている。
「あっ、ごめん! びっくり……しちゃって。その——ごめん」
基子は逃げるようにその場から離れ、階段を駆け上がって自分の部屋に戻った。
鍵を閉め、へたりとその場に座り込む。
あの本を見てから何かがおかしかった。
違和感は基子の心を不安にさせ、考えなくていいことが頭を埋め尽くす。
「恭平に悪いことしちゃったな……」
陰鬱な考えを打ち消すように、独り言りながら虚空を見つめる。
——後でちゃんと謝らなきゃ。
「よし」と小さく呟くと、立ち上がって
薄暗い部屋の中に入り、広縁の椅子に腰掛けた。
ボディーバックをテーブルの上に置いて、暗闇に染まった外界をガラス越しに眺める。
パチパチと窓を叩く雨。風もだんだんと強くなっているようだ。
ぐでっとテーブルに突っ伏して、目を閉じてその音に耳を傾けた。
再び思考は不安に駆られる。
基子は倒れる直前に見ていた薄黄色の本のページを思い出した。
「——なんで『鬼』なんだろう」
「鬼」なんて伝説上の生き物だ。実在したはずがない。ということは、あの本は誰か書いたフィクションなのだろう。
今朝の夢と重なったことも、きっと何かの間違いだ。
——きっとそうだ。
そう思い込む様にして深呼吸をすると、意識がだんだんと微睡んでいった。




