プロローグ
——むかしむかし、この島が今よりも豊かだった頃。
名主の倅に「浅之助」という男がおったそうな。
浅之助には好きな子がいた。
それは幼馴染で歳の近い「おつな」という女童だった。
そして、いつしか二人は惹かれ合い、恋仲となる。
二人の仲は村でも周知されてはいたが、おつなには親が決めた許嫁がおり、親や村人からは別れるように言及され、二人とも仕置きを受けていた。
しかし、恋は盲目ともいう。二人はそんな困難も乗り越えて、一緒になることを願ってやまなかった。
当時、藍ヶ島では女性の月経を穢れとして忌み嫌い、月経が終わるまでの期間、他火小屋に隔離する風習があった。そして、その他火小屋に男が近づくことは禁忌とされていた。
そんなある日、事件が起きる。
他火小屋での逢引を村人に目撃されてしまったのだ。
先の通り、男が他火小屋に近づくのは禁忌である。
村人はそれを名主に報告すると、名主は怒り狂い、手に槍や斧を持った者を数人引き連れ、実の息子である浅之助を追い回した。
もちろん、素手の浅之助が武装した村人に対抗できる手段など持ち合わせていない。
なんとか村の外れにある高倉まで命辛々逃げ延びた浅之助は、そこで静かに身を潜めた。そして、その縁の下で錆びた斧を見つけた。
好きな人と一緒に居ただけなのに、なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか。浅之助の中にぐつぐつと燃える「復讐」の炎が、油を注がれたように一気に大きくなる。
浅之助はその斧に怒りを込めて磨き、村人たちに反撃に出ることにした。
そして、高倉に隠れて八日目の深夜。
浅之助は息を潜めながら集落まで戻ると、手近な家に押し入り、まずは一人目を殺した。
寝ている家人の喉元めがけて斧を振り下ろす。
思ったよりも呆気なく人が死んでしまうことに、奇妙な快感を覚えた。
そして、二人目、三人目と次から次に殺していく。
慣れてきたのか、行動が大胆になってくると、騒ぎを聞いて目を覚ました村人達が武器を持って集まってきた。
ここで捕まるわけにはいかない。
逃げながら合計七人を斬り殺し、四人に重傷を負わせ、隠れるようにとある家に押し入る。しかし、運命の悪戯か、その家というのが恋仲の「おつな」の実家だった。
二人の仲を引き裂いた元凶の人物。
浅之助はおつなの実の父親を見つけ、力の限り頭めがけて斧を振り下ろした。と、その瞬間――
ガキンという鈍い音とともに、斧が大きく弾かれた。
浅之助は何が起きたのかわからず再び斧を振るう。
しかし、同じように弾かれる。
ぼんやりと光る何かが、おつなの父親の前に立ちはだかり彼を守っている。
浅之助は幾度となく斧を振り回すも、何度も弾かれ、しまいには柄のところがポッキリと折れてしまった。
そして、武器を無くした浅之助は逃げるようにその場を去り、再び追われる身となった。
逃げ惑いながら、いつの間にか神子ノ浦まで辿り着いた浅之助。もう後がないと思い、覚悟を決めて海に飛び込む。
しかし、藍ヶ島の周りは潮の流れが非常に速く危険である。打ち寄せる荒波に揉まれた浅之助は、海に飲み込まれ、結局そのまま帰らぬ人となってしまった。
「疲れた……」
山手線の外回り電車に揺られながら、ついつい口からまろびでた。
おそらく乗車している誰もが思っているだろう。
目の前に座っていたスーツの男性が、スマホから目を外しちらりとこちらを見た。
基子は何となく恥ずかしくて、自分のスマホをバックから取り出すと、ポチポチと緑のアイコンをタップした。
画面が切り替わり、彼氏との……もとい、「元」彼氏とのやり取りのが映し出され、一瞬びくんと心臓が跳ねた。
昨日、大学の頃から付き合っていた彼氏と些細なことで喧嘩して、そのまま、別れた。
仕事のストレスや彼氏に対しての積もり積もったものが限界まできていたのか、基子の心は決壊したダムのように突然壊れ、口から吐いて出た言葉が、濁流となって容赦なく彼を飲み込んだ。
気の強い彼。いつもなら間違いなく言い返してくるはずだった。基子もそれを予想していた。しかし、手に持った四角い塊から反論の声は聞こえてこなかった。
耳元から聞こえるのは、微かな彼の息遣い。
『別れよう』
しばらくしてポツリと放たれたその台詞に、今度は基子が言葉を失う番だった。
頭の中は急に霞がかったように真っ白になる。いつの間にか瞳から零れ落ちた涙が頬を伝う。
『ごめん』と短く言って切られ、無機質なツーという音が、基子の脳内を左から右に通り過ぎていった。そして、泣き明かし、目を腫らしたまま職場に向かうと、案の定、「なにかあったのか?」と質問攻め。
「大丈夫? 元気だしなよ」とか「男なんて五万といるんだから、次はきっといい人見つかるよ」とか、表面上は皆良い人を演じて慰めてくれるが、恐らく本心から心配してる人なんて一人もいないだろう。
基子がいなくなったところで「ざまあみろ」とか「最近調子に乗ってたから、ちょうど良いお灸ね」とか陰口を叩かれるのだ。
基子の勤めているアパレルブランド「アダムエモッペ」の銀座店はグループの中でもトップクラスの売り上げを維持していた。そして、全店でも基子の個人売りは上位の方だった。
個人売りが高いと、店長や本社の人間からは褒められるのだが、一緒に働く店舗スタッフからは何故か忌み嫌われる。
入社して一年半ほどしか経っていないにもかかわらず、先輩たちを差し置いて高い売り上げをたたきだす基子。本人は真面目に働いているだけなのに、その結果が孤立無援。
新人教育として当てられた先輩ですら、早々に役目を放棄し、寧ろ率先して裏で陰口を叩いていた。
つい先日も休暇中のスタッフの顧客様が来店され、臨時で対応に入ったら「基子ちゃんの方がしっかりとついてくれるから助かるわ。今度から基子ちゃんにお願いするわね」と唐突に鞍替えされ、後日、担当していたスタッフと軽くいざこざがあった。
自分のせいではないはずなのに、何故か嫌味を言われこちらが頭を下げる羽目になる。
「文句があるなら実力で売上上げてみろ!」と言ってやりたいのをぐっとこらえ、愛想笑いでその場を凌ぐ。
しかし、優れているからという理由で妬み、憂い、排除しようとする姿勢はどうかとも思う。
基子自身、昔から好きなブランドだったので、こんなことで辞めるのも嫌だった。そして、何よりも悔しい。
歯を食いしばりながら、ギリギリのところで耐えていたのにも関わらず、昨日の元彼との出来事。
基子の真ん中で踏ん張っていた一本の芯が、ポキッと軽快な音をたてて折れた気がした。
しかし、幸か不幸か、来週からしばらく夏休みを貰っていた。
——どこか、旅にでも出ようかなぁ……
スマホをバックにしまい、吊り革に両手を預け、なんとなく中吊り広告に目をやる。
「特集! 今注目の離れ島 一度は行ってみたい絶景スポット」
基子は再びスマホを取り出すと、ポチポチとそれを操作した。