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追憶:冬

 それは凍てつく晩のことであった。

 真夜中を過ぎても帰って来ない夫を、妻はいつものように待っていた。きっと氷のように冷たい頬になっているだろうからと、竃の火を絶やさないでいたのである。

 とても静かな夜は、ただならぬ喧騒によって壊れた。大酒を飲んでいた夫は、帰りの道中で足を滑らせて転倒してしまったという。強く頭を打った衝撃で意識を失ったまま、酒飲み仲間に抱えられてきたのだ。必死に呼びかけても微動だにしない血まみれの夫は、まるで死人のようであった。その日、妻は一睡もせずに夫の手を握りながら夜を明かした。


 目覚めた夫は、体の自由を失っていた。

 首から下が完全に麻痺してしまったのである。集落の人間は、気の毒だと同情する陰で、自業自得だと嘲笑していた。だが、彼の妻だけは違った。動けぬ身となった夫を厭うことなく、献身的な世話を始めたのだ。

 それから、夫の態度は変わった。

 妻が行うどんな小さい事にも、感謝を伝えるようになった。そして、感謝よりも多く口に出したのが、謝罪の言葉であった。彼はしきりに「すまなかった」と謝った。何度も何度も、一日の間に繰り返した。それに対し妻はいつも以上に優しく微笑み、決まって「いいのですよ」と返すのだった。


 感覚が消えてしまった手を摩り続ける妻に、夫は胸の内を曝け出した。

 父親は酒飲み、母親は賭博好きで、息子には愛情の欠片も与えられなかった。気まぐれに名前を呼ばれる時、それは理由の無い折檻が待っていることを意味していた。だからいつしか、自分の名がどこかから聞こえてくるだけで体が震えるようになった。

 本当は、愛してもらいたかった。

 されど、愛し方も知らぬ自分が、どうして愛を得られようか。

 "どうしようもない碌でなし"の生き方しか、彼には分からなかったのである。


「…私は、どうすれば良かったのだろうか」


 苦しげに絞り出された呟きは、惨めなほどに掠れていた。愛情を渇望し、孤独に怯える夫は、群れからはぐれた子羊にように、頼りなく見えた。なんて、なんて哀しいひとだったのかと、妻は涙を零した。声を押し殺して泣く妻を、夫は唯一動かせる首を傾けて見つめていた。

 妻の涙を拭ってやることができない自分を、夫は呪った。

 夫を縛る影に気付けなかった自分を、妻は怨んだ。


「ただ、微笑んでくださるだけで…良いのですよ」


 泣きながら、それでも妻はいつものように微笑んでみせる。

 その言葉、その仕草に夫は目を見開き、そして生まれて初めて温かな涙を流したのだった。


「そうか…っ、たったそれだけで、良かったのか。そんな簡単なことも、私は知らずに……」


 精一杯、微笑もうとした夫の表情は歪なものであった。しかし妻の瞳には、不器用すぎるその表情が、この上なく尊くて愛おしい笑みに映った。




 それから間もなく、夫は褥瘡熱に罹って死んだ。高熱に魘されながらも、うわ言の中で妻を呼び続けていた。彼女は片時も傍を離れず、呼びかけ全てに答えていたのだった。

 冷たい雪のようになってしまった手を握りしめて、涙が枯れるまで泣いた妻は、喪が明けても再婚することはなかった。この時代、寡婦のままでいることは、極めて異例の事態であったにも関わらず、彼女はそうしたのだ。独り身で過ごす娘を、周りは「気が触れたんだ」とか「子を成せぬ身体なんだ」と冷笑し、変人扱いするのを隠さなかった。それでも娘は、遊牧している家族のもとへ帰ることもなく、短い夫婦生活を送った家で暮らし続けた。


 夫は死ぬ前に「自分が死んだら、妻を自由にしろ。さもなくば死の復讐のため、枕元に現れてやる」と、見舞いに訪れた親族達を脅していたらしい。その脅し文句は、当時において最も効果的であり、彼の父親でさえ大人しくなったほどだ。

 よりにもよって夫を亡くしてから、秘められた優しさに触れ、彼への愛と感謝が深まるなんて。もっと早く本当の夫に出逢っていれば…いや、そうではない。もっと早く、自分から歩み寄っていれば。そうする機会は幾らでもあったのに、どうしてできなかったのだろう。


(忘れたくないのに…記憶から零れ落ちてしまう…)


 刻々と過ぎ行く時間が、想い出を霞ませる。大切に仕舞っていても、色褪せてしまう。

 独りに耐える寒い冬は何度もやって来た。その度に夫の顔は薄らいでいき、八十年が経つ頃には、もう殆ど思い出せなくなっていた。それを哀しいと思う気持ちも、いつしか鈍麻していった。

 けれども娘は、あの綺麗な琥珀色だけは決して忘れなかった。そして、あの色に再びまみえたいという願いも最期まで抱き続けていた。


(もう一度……もう一度、お逢いしとうございます───ニカ様)


 笑い合いながら、夕日に染まる道をあなたと二人で帰りたい。

 こと切れる間際に浮かんだ情景は、美しくて温かい、橙色の世界だった。

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