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E.O.616 重ねたい面影

 手枷が外された訳でも、まして包帯を巻かれた訳でもない。単に牢屋へ戻されただけだ。背中は痛むし、落ちた体力はそのままである。だがエミマは胸の奥に、仄かな希望の光が灯るのを感じていた。こうも簡単に期待するのは楽観的すぎるかもしれない。


(でもわたくしは知っている…憶えているのです)


 ニカノルは優しいひとだった。とても、とても優しいひとだったのだ。本当のあのひとは、堅固な殻に囲まれて見えなかっただけ。周囲の人々も、そしてエミマも。彼の本質に触れた時には何もかもが遅くて、だからこそエミマに消えない後悔を残したのだ。


(今のわたくしに、できる事……)


 かつての自分は、日々の仕事を果たすのみだった。それが夫のためにできる最善だと思っていた。だけど違った。受け身でいるだけでは、何も変えられない。手を伸ばしてもすり抜けてしまうなら、掴めるまで諦めない粘り強さが必要だった。


(同じ関係でなくとも構わない、そう決めたのはわたくしですわ)


 おもむろに顔を上げたエミマの瞳に、もはや憂いは無かった。


 治療薬は貰えずとも、安静は何よりの薬になった。加えてパルシーの正しい処置と若さも手伝い、エミマは順調に回復していったのである。病は気からとも言うが、仄かでも宿った希望はエミマを力付けたに違いなかった。


「まだ痛むんやないの?」

「少し引き攣るような感じはしますが、これくらいなら平気です」


 そうは言っても、生々しい傷痕はずっと残るだろう。歪な凹凸ができてしまった背中を見て、パルシーは悲しげだったが、当の本人は言葉の通り平然としていた。あまりにもあっけらかんとしていて、終いにはパルシーが呆れてしまうほどであった。


「もうちょっとくらい、サボったって良いと思うけどなぁ」


 傷口が塞がるとすぐ、復帰を申し出た友人に対し、パルシーは唇を尖らせる。


「嘘は良くないですよ」

「そうやけど普通、苦役なんてやりたくないでしょ。真面目を通り越して、変わってるって」

「ふふっ。よく言われました」


 エミマは以前にも増してよく笑うようになった。それこそ、ちょっとした嫌味を言われてもだ。


「まあ、うちも薬草ばっかりいじってて、周りから変人扱いされたけど」

「では変わり者同士ということですね」

「そうやね!」


 薄暗い牢屋にはいつも、少女達の明るい囁き声があった。




 エミマが労働に戻ってから、ニカノルが見回りに来ることはなかった。ところがある日、いきなりエミマだけが執務室に呼ばれたのだ。何の前触れも無かったにも関わらず、彼女は落ち着いていた。指示に従って執務室に行けば、思った通りニカノルが居たのだった。


「お礼を申し上げます」


 部屋に入って真っ先にエミマがしたのは、感謝を伝えることだった。書類から視線を外したニカノルと目を合わせると、彼女は微笑んだ。すぐに目は逸らされてしまったが、微笑むのをやめなかった。


「何の事かわからないが」

「…ご主人様のご配慮のおかげで、傷はすっかり良くなりました。その事についての感謝です」


 今のニカノルを何と呼ぶべきか、一瞬エミマは逡巡した。彼の部下でもないのに中佐と呼ぶのは何だか奇妙だし、かと言って愛称を使うのはもっと躊躇われた。そう呼んで激怒されたのも理由ではあるが、あれはエミマにとって重要な呼び名。妻として大切にしようとしてくれた夫の象徴なのだ。エミマのことを奴隷と見ている今の彼を、想い出の詰まった名で呼ぶ気にはなれなかった。


「…貴様のためにした覚えはない」

「そうかもしれませんが、結果的にわたくしは助かったのですから、お礼を申し上げるのは当然のことですわ」

「下らない事はいい。貴様が汚した場所を綺麗にしろ。気分が悪い」


 顰めっ面のニカノルが不快感を顕に指差したのは、エミマが押し倒された机の上だった。適当に拭いただけなのか、そこには血の染みが転々と付着している。


「申し訳ありません。すぐに掃除いたします」


 それから彼女は掃除し終えるまで口を噤み、机を磨き上げることに専念するのであった。


「いかがでしょうか」

「突っ立っている暇があるなら、私の靴を磨け」

「わかりました。ブラシと靴墨はどちらにございますか?」

「その辺りの引き出しを勝手に探せ」

「はい」


 どこまでも冷やかな青年に対し、エミマは優しい微笑みで応える。


「…流石、売女は己を売るのに余念が無いな」


 剥き出しの嫌悪感を受けても、気落ちすることはない。もういいのだと、割り切っていた。


「…その節は失礼いたしました」

「弁解も無しか」

「わたくしの言葉を信じてくださるのなら、弁解します」

「誰が奴隷の言う事など信用するか」

「ですから、謝罪だけにいたします」

「………」


 何と罵っても微笑みしか返ってこず、ニカノルはとうとう押し黙ってしまったのだった。


 その後も部屋の掃除をしろだの、書棚の整頓をしろだの、細々した雑用を言い付けられた。それら全てを、エミマは従順にこなした。嫌々どころか全く恐れない態度に、何か思うところでもあったのか。ニカノルの暴言は次第に少なくなり、最後の方は指示を飛ばすだけになっていた。

 牢屋に戻る道すがら、エミマは物思いに耽るのであった。


("ニカ様"なら、赤の他人のいる空間に戸惑っていたのでしょうね)


 鬼中佐と怖れられる青年も、かつての夫と重ねて見てみると、荒々しい言動の裏に隠された本当の姿に触れられそうだった。

 なかなか家に帰って来なかった夫だが、流石に土砂降り日まで飲み歩くことはしなかった。そういう日は家事に勤しむエミマに背を向けながら、酒を飲んでいたものだ。けれども、ふと背中に視線を感じることがあり、エミマは振り返るものの、目が合うことはなくて。多分、夫は気配を感じるとすぐ顔を背けていたのだろう。落ち着かなくてそわそわしていたのかもしれないし、話しかけようとしていたのかもしれない。そこまではエミマにも判らないが、ニカノルも足元に転がる幸福を探していた事は知っている。振り返ったあの時、自分から目を合わせにいって、自分から声をかけていれば何かが変わっていたはずだ。


(だからといって、少しお喋りが過ぎたでしょうか…?)


 先程のやりとりを思い返し、エミマは内心で首を傾げる。言葉が足りなかったことを悔やむあまり、気が急いた感じは否めない。"ニカ様"と重ねるなら、あのひとは優しいのと同じくらい不器用でもあった。気張り過ぎたら、また彼の怒りを買うことになるかもしれない。始まりが以前より最悪であると忘れないようにしなければ、同じ轍を踏むことになるだろう。




 一日中働かされ、疲れて眠るという毎日を繰り返すこと、はや三ヶ月。エミマもパルシーも少し痩せはしたが、協力し励まし合いながら苦労を乗り越えていた。今日の仕事は、捕虜全員分の洗濯である。


「うぅ…風が冷たくなってきた」

「そろそろ秋も終わりですね」

「これから水仕事が辛くなるわぁ」


 洗っても洗っても減らない服の山を前に、パルシーは珍しく愚痴をこぼしている。


「手荒れに効く軟膏があるんやけど、何とか作れんかな」

「軟膏の配合をご存知なんですか?」

「お父さんに教えてもらったんだ」

「パルシーはすごいですね」

「そんなに難しくないよ。材料さえ揃えば、エミマにも作ってあげられるのになぁ」

「パルシー印のお薬は、よく効きそうです」

「えへへ、ありがと」


 パルシーの愚痴は長続きすることはなく、あっという間に朗らかな笑顔に変わった。エミマとはまたひと味違う、天真爛漫な笑い方である。


「エミマだって、何か特技あるでしょ?」

「これといって…あっ」

「なになに?」

「わたくし、うずらを使った料理が得意なんです」

「へぇ!食べてみたいわぁ。けど、うずら限定なの?」

「いえ、一番得意というだけで、だいたいの動物は調理できますよ」

「うわぁ…想像したらお腹が空いてきちゃった。最後に満腹まで食べたのっていつだったか、もうわかんないな。でも友達と一緒なら、パン一個でも悪くないよね」

「そうですね…」


 独りぼっちの食卓はとても寂しい事を、エミマはよく憶えている。


(あのひとは、執務室にお独りで…)


 捕虜としての生活が始まってしばらく経つが、面と向かって彼の名前が呼ばれるのを、エミマは未だ耳にしていない。辛うじて聞いたのは、パルシーが説明してくれた際の一度きりである。兵士達は徹底して彼を「中佐」と呼び、決して「ニカノル中佐」とは言わなかった。"冷酷無慈悲"なんて二つ名が付くくらいだから、何となく予想はしていたが、彼はまたしても自分の名前を聞くのが煩わしいようだった。


(なんて…哀しいひと…)


 今のニカノルが、そうなった経緯をエミマは知らない。けれども、それ相応の辛い経験があったはずだ。でなければ、自分の名に嫌悪感など抱かないだろう。そんな人生、とても幸福とは思えなくて、エミマは遣る瀬無くなった。


 この日は珍しく、いつもより早めに作業が切り上げられ、就寝時間も早まった。たっぷり眠って体力をつけようと、エミマ達はお喋りもそこそこに目を閉じる。寝台なんて上等な物はもちろん無く、敷き詰めた藁の上で雑魚寝である。それでも疲れていれば、案外どこでも寝られる事をエミマは学んだ。

 今夜もすぐに寝入ったものの、彼女は一時間も経たないうちに目を覚ました。見張りの兵に足で小突かれたからである。横で熟睡するパルシーに気付かれないよう、エミマは慎重に身を起こす。兵士は短く「来い」と言った。物音を立てないようにしながら、彼女は牢屋を出るのであった。夜の相手として呼ばれたのかと身構えたが、数ある部屋を通り過ぎ、廊下の端まで来た時には流石に怪訝に思った。途中で足枷まで嵌められ、謎は深まる一方だった。そして疑問は解消されないまま、エミマは外まで連れ出されたのである。

 服の隙間から入り込む夜風は冷たく、冬が近いことを語っている。薄着のエミマは小さく身震いした。


「中佐、連れて参りました」

「ご苦労。下がっていい」


 中佐という呼びかけに、エミマが振り向こうとした直後であった。頭から冷水を浴びせられた。比喩表現ではなく、文字通りびしょ濡れになったのである。しかも、いきなりだ。状況を理解できずに立ち尽くすエミマから、ぽたぽたと雫が落ちていく。呆然と見開かれた瞳に映ったのは、木桶を手に持つニカノルの姿だった。


「朝が来るまでここから動くな」

「………」

「返事はどうした」

「…は、い……」


 反射的に返した頼りない返事を聞くと、ニカノルは木桶を放り捨てて、戻って行ってしまった。木桶の転がる乾いた音が、何とも虚しい。ご丁寧に扉の鍵は閉められ、その扉は朝まで開くことはなかった。

 エミマは中途半端に開いた口が塞がらずにいた。いったい、何が起きたというのだろうか。彼の気に障ることを仕出かしたのか?しかし心当たりがあるのは、三ヶ月も前のことだ。あの時以降、言葉は交わしていないし、視線が交わることすらなかったのに。彼が怒る理由に見当がつかず、エミマは途方に暮れる。

 髪を伝って落ちる水をぼんやり見ているだけだったが、エミマは吹き付ける風の冷たさによって我に返った。ただでさえ冷える夜。そこへ水までかぶったために、濡れた肌から容赦なく体温が奪われていく。背中を丸めて蹲ってみても、大して効果は無かった。歯がかちかちと鳴るのを止められないのに眠るなんてとんでもなく、エミマは一晩中寒さに震えながら過ごす羽目になったのである。




 律儀にも昨晩放置された場所から動かなかった彼女を、ニカノルが迎えに来た。迎えというより確認だろうか、血の気がすっかり失せたエミマを暫し見下ろしていた。ニカノルを恐ろしいとは思わなかったが、こんな目に遭う理由がわからないのは不安だった。

 無言で手首の鎖を引かれたので、エミマは立ち上がろうとした。だが、長いこと座り込み、体の芯まで冷え切ってしまったため、足に力が入らなかった。それでもニカノルが鎖を引っ張るのを止めないので、必死の思いで立ち上がる。せめて足枷は外してほしかったが、もはや口も回らず、エミマは独房みたいな部屋に収容されたのだった。


 やっと寒さを凌げる部屋に入れたのはいいが、当然ながらエミマは風邪を引いた。健康体だった頃ならいざ知らず、此処へ来て体力が低下した彼女に、ニカノルの仕打ちは耐えられなかったのだ。

 際限なく襲ってくる悪寒に、エミマは短い呼吸を繰り返していた。しかし、不意に誰かの仰天したような声が反響する。薄目を開けると、そこには驚きを滲ませるパルシーがいたのである。


「…パルシー…?どう、して…」

「それはこっちの台詞やって!何があったん!?うわっ、酷い熱!」


 大騒ぎしつつも、エミマを診る手並みは鮮やかで、流石という他ない。パルシーはこちらが質問するより先に、全部話してくれた。


「起きたらエミマがおらんもん。びっくりしてたら、兵士が『病人の世話係を一人出せ』って言うもんで、まさかと思って志願したら案の定やったね。昨日の夜、どこに行ってたん?」

「…外で、一夜を過ごせと…言われて」

「は!?何それ!あの"鬼中佐"が言ったの?」


 エミマは黙って頷く。


「本当に鬼畜やわ…どうせ腹いせか何かやって。最近、反乱軍側が押され気味だって噂やし」

「………」

「病人をこんなじめっとした所に押し込めるなんて、信じられん!隔離するにしても、もっとマシな場所くらいあるのに。こうなったら、うちがちっきり看病してあげるね。風邪は侮ったらダメやけど、正しく対処すれば大丈夫やから」

「…ありがとうございます。パルシーには、助けていただくばかりですね」

「お互い様でしょ?」


 パルシーは果敢にも、巡回してくる兵士に薬を要求した。だが、意外にもあっさり承諾され、逆に拍子抜けしてしまう。兵士の間で病気が蔓延すると困るからだろうか。何にせよ薬が手に入ったのは有り難い。

 それから、パルシーの手厚い看護によって、エミマは一週間とかからずに全快したのだった。


「まあ貴女たち!無事だったの!?」

「風邪でしたらすっかり…」

「風邪?何を言ってるの?」


 通常の牢屋に戻ったエミマ達を、驚愕の声が包んだ。同じ牢で過ごしていた捕虜達は、お化けでも見るような視線を向けてくる。訳が分からず、エミマはパルシーと揃って首を傾げた。


「ここの近くに教皇様が来るから"献上品"を贈るって、通達があったらしくてね。若い娘が何人か選ばれたのよ」

「確か、五日前だったわね」

「私達、てっきり貴女たちが選ばれて、連れて行かれちゃったと思ってたの」


 エルフリーデ皇国において、教皇の結婚は認められていない。それでいて"献上品"を贈るという事は最悪の場合、証拠隠滅を理由に殺されるだろう。命だけは助かっても、以後この世に居ない者として扱われるのは必至であった。


「禍を転じて福となす、やん…うちらは運が良かったなぁ。ね?エミマ……エミマ?」


 パルシーは黙ったまま棒立ちになっている友人を案じるも、当の本人の耳には届いていない。ただ、握りしめた両手が小刻みに震えているだけであった。

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