表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

E.O.616 出逢いの紅花栄

 父親を喪い、そして同じ名を持つ過去の記憶が蘇り、塞ぎ込む日々が続いた。だが季節が二つ、移り変わろうとする頃、エミマは自分自身を取り戻していた。記憶の中にいる自分も、今ここに居る自分も、同じエミマなのだと受け入れたのである。前世の記憶と共に生きる決意ができたのだ。それは偏に、かつての自分が願った事を思い出せたからだった。


(『もう一度逢いたい』と…願ったのはわたくしですもの)


 夫だったひとは寒い冬の日に急逝した。まるで父のように。どれだけ過去の記憶を遡っても、明るい思い出の方が少ない。だからこそ沢山の後悔を残したのだ。

 エミマは鏡に映る顔に触れてみた。

 昔の鏡といえば青銅を磨いたもので、今の鏡のようにくっきり映ることはなかった。だから、全く同じ顔だと断言はできないが、恐らく似たような容姿をしていると思う。エミマを成す色彩は変わっていないからだ。

 エミマが同じ名を持ち、再びこの国に生まれたのだから、あのひとだって同じような運命を辿っていてもおかしくはない。記憶と気持ちに整理をつけたところで、差し当たって気掛かりなのは、前世で深く関わった夫の存在である。


(あのひとは……ニカ様は、いかがお過ごしなのでしょう)


 何百年も前、エミマが嫁いだ青年の名はニカノルといった。しかしながら、夫はそう呼ばれるのを疎んでいたために、エミマは「ニカ様」と呼んでいた。旦那様と呼んでも差し支え無かったとは思うのだが、夫婦仲が少しでも改善されればと、ささやかな願いを込めた愛称だった。残念ながら返ってきたのは、怪訝そうな視線だけであったが、エミマは最後までその愛称で呼び続けた。


(あんまりお酒を召されていないと良いのですが…)


 酷く酔うと暴れて手がつけられなかった夫。

 あのひとも再び生を受けている可能性はある。だが、エミマとまったく同じとも限らなかった。

 彼には記憶が無いかもしれない。

 以前の彼とは容姿が異なるかもしれない。

 もしかしたら名前も違うかもしれない。

 そもそも同時代に生まれていなかったら?

 何も確証など無い。すべてはエミマの想像であり、願望なのだ。実際、彼女の両親は顔の造りは前と似ているものの、名前が違う。エミマも、ルラキという家系ではなかった。だから、ニカノルという名前の別人だったり、違う名だが同じ人格の男性だったりする可能性も有り得るのである。


(それでも…わたくしはもう一度お逢いしたいです)


 たとえ彼が覚えていなくとも。

 たとえ彼が記憶にある姿と違っても。

 ニカノルが今もこの世界を生きているのなら、エミマは逢いたいと思う。類稀な奇跡により、再び出逢えたその時は、今度こそ真っ当な人間関係を築きたい。夫婦になれなくとも構わなかった。

 恐らく、エミマは近いうちに結婚しなくてはならないだろう。大黒柱を失ったルラキ家の今後を考えれば、一人娘がどこかに嫁ぐより仕方がないのだ。彼女にはエミマ・ルラキとして生きる責任があるし、未亡人となった母を放ってはおけなかった。流石に結婚相手がまたしてもニカノルだと期待するほど愚直ではない。

 それにしても、すごく不思議な心地だった。可能な範囲で調べてみたところ、エミマの身に起きた現象は輪廻転生に当てはまるようだ。


(わたくしは紀元前に生きていたという事になる…のですよね?)


 一度目の人生を過ごした時代は、国名はおろか統治者もいなかった。よって、暦を数える事もできない。少なくとも六百年以上は経過している、としか言いようがないのだ。正確なことは分からないが、夫を亡くしてからのエミマはその後、八十年近く生きたので、六百どころか七百年くらい優に経っていそうである。


(それは…ものすごいおばあさんです)


 見た目は十代の娘だが、中身は九十の老女ではないか。考えれば考えるほど気が遠くなってきた。花も恥じらう乙女としては、微妙な心境である。貴重な歴史の目撃証人、程度に考えておくのが吉だろうか。




 夏の爽やかな風が、エミマの気持ちを前に向かせたのを境目に、エルフリーデ皇国の治安は日を追うごとに悪くなっていった。皇帝が住まう帝都付近はそれほどでもなかったが、西部に近付くほど皇帝への悪感情が強まり、教皇を支持する声が高まっている。西側の街々では、教皇を国の統治者に推薦する運動が盛んになってきているらしい。

 しかし皇帝はこれを「聖職者たる者、民衆の反感を集めるのではなく平和を求めよ」と一蹴した。さらに、教皇は神に"仕える"者であり、神に代わって治める者ではないとし、全く相手にしなかったのである。エミマは皇帝の意見に賛成だったが、教皇はそうではなかった。軽んじられたと激怒した教皇は、信仰心の篤い貴族を味方につけたのち、言葉巧みな演説で民を扇動して反乱軍を結成。充分な戦力が集まったと見るや、帝都に向けて進軍を開始したのである。

 戦争の報せはすぐさま国中を駆け巡った。直ちに家を捨てて帝都へ逃げる人達もいれば、気楽に構えて普段通りの生活を続ける人達もいた。エミマはどちらかと言えば後者だった。母が屋敷を出ようとしなかったからである。父を亡くしてからというもの、すっかり気力を失った母は、使用人に任せっきりの毎日となっていた。娘の結婚とか、そんな事を考えている余裕も無かったのである。

 だが、もはや明日どうなるかもわからなくなってきた。これ以上、使用人達を巻き添えにはできないと判断したエミマは、彼らに手切れ金を持たせて家に帰した。母の世話は自分がやるつもりだった。けれども一人だけ、幼い頃から母に仕えてきた侍女はそれを拒み、奥様のそばにいると言って譲らなかった。こうしてルラキ家の屋敷は、三人の女性しかいない寂しい場所となったのである。


 当初は急ごしらえの反乱軍など、すぐに鎮圧されると思われた。エルフリーデ皇国には東西を隔てる目安としての谷があるのだが、道路は一本しか整備されておらず、そこを封じてしまえば簡単に進軍できないと考えていたのだ。ところが、その慢心につけ込まれる結果となった。反乱軍は易々と谷を越えて東側へと突入し、国民の安寧は打ち砕かれたのである。

 鳥の囀りは、剣や槍がぶつかる無機質な音に変わった。人々の歌う声はもう聞こえず、断末魔に耳を塞ぐしかない。美しかった街並みは、血の匂いが充満するおぞましい場所になってしまった。もう、以前のような暮らしは何処にも無い。

 男性は戦えなくても見つけ次第殺され、女子供は捕虜として連れて行かれる。反乱軍の刃から逃れるべく、人々は帝都を目指して大移動していた。皇帝のいる場所が現時点で最も安全だったからである。

 エミマは逃げるべきだと母の説得にかかった。しかし、母はこの期に及んでも動かなかった。父との思い出が詰まった屋敷を、捨てて行く気にはなれなかったのだろう。或いは、絶望するのに疲れてしまったか。これがただの十五歳のエミマであったなら、必死に母の腕を引っ張っただろう。でも、今の彼女には母の心情が理解できてしまった。何故ならエミマも、生涯の伴侶を喪ったことがあるからだ。自分もかつて、夫と暮らした家を離れられず、留まり続けていた。母を身勝手だと責める事はできない。


「私は…一緒には行けません。でも貴女は逃げなさい」

「お母様…」

「ごめんなさいね…エミマ……」


 窶れた母に抱き締められたエミマは、その腕の中で泣いた。母を残して逃げるなんて嫌だった。だけど、あのひとを探さないうちに死ぬのは、もっと嫌だったのだ。

 母は娘ではなく亡き父を選んだ。

 娘もまた母ではなく、記憶の中に生きる青年を選んだ。その事がどうしようもなく哀しかったのである。

 唯一残っていた侍女は、主人と運命を共にしようとしていたものの、娘を頼むようにと言われて泣く泣く別れを告げていた。誇り高い母は、自身が敵の手に落ちる事を決して許しはしないだろう。自分が愛した場所で自害をはかる母親の姿が想像できて、エミマは涙が止まらなくなった。


「…っ、では…行って参ります」

「ええ…気をつけてお行きなさい」


 それが、母との別れの挨拶であった。




 逃げ惑う民の足よりも反乱軍の方が早く、恐ろしい足音が徐々に大きくなっていくのを皆、肌で感じていた。一刻も早く帝都に入らなければ、命が危ぶまれる状況だった。そのためエミマは、陽が出ている間は物陰を縫うようにして、逆に夜は闇に紛れて少しでも敵から離れようと走った。一日中、逃げていたのである。食事にはろくにありつけず、睡眠すらままならない日が続いた。張り詰める緊張感の中、眠らずに逃げ続けるのは精神的にも肉体的にも過酷だった。

 逃亡の道すがらで一緒に屋敷を出てきた侍女とはぐれ、独りぼっちになったのも心労に拍車をかけていた。万が一はぐれてしまっても、探しに戻らないように。そう言い出したのはエミマだった。そうなった場合は己の命を最優先にするよう侍女に伝えてある。生きていれば、帝都で落ちあえるかもしれない。だからエミマも後ろを振り返らずに進んでいるのだが、限界が近づいている。もう体内時計も狂い、何日経ったかも定かではない。けれども、こんな所で行き倒れる訳にはいかなかった。


 壁を伝い、ふらつく体を支えながら懸命に歩を進めていたエミマは、馬蹄の音を聞きつけて咄嗟に身を隠した。真夜中の敵襲かと肝が冷えたが、どうやら違う。人の声がしたので物陰からそっと盗み見たところ、親衛隊の甲冑が月明りに照らされていたのである。なんと皇帝からの命令で、逃げ遅れた民を馬車で護送するため遣わされてきたらしい。エミマは安堵で胸を撫で下ろした。

 親衛隊の呼び掛けに最初は警戒していた人々も、信用できると分かれば暗がりから一人、また一人と姿を現わし始める。残念ながらはぐれた侍女はいなかったが、エミマも馬車に乗せてもらおうと出て行くのだった。ところが、丁度エミマの手前で馬車が満員になってしまった。次の馬車がいつ到着するかは不明だが、待つより仕方がない。大人しく退がろうとした彼女に、荷台の上から声がかかる。エミマに席を譲ると申し出たのは、盲目の老婆だった。


「わたくしには丈夫な両足がございますから、そのまま奥様がお座りください」


 そう言って、エミマは断ろうとした。けれども目が見えないはずの老婆はさっさと荷台から降り、エミマの背中を押す。背中の曲がった小さな体のどこにそんな力があるのか、と思うほど強かった。


「わしは目も見えんし、老い先も短い。構うことはないから、あんたが乗りなさい」

「いいえ。人生における先輩だからこそ敬い、大切にすべきと存じますわ」

「ならば未来ある若者に託すのが、先輩の務めじゃろうて。見えなくとも、あんたがひどく疲れとるのは声でわかる。兵隊さん、このお嬢さんを乗せてやってくれんかの」

「いけません奥様…あっ!」


 親衛隊に持ち上げられ、エミマは荷台に座らされた。それでもなお、固辞しようとしたのだが、馬車が動き出してしまう。もう下車するには間に合わない。エミマは瞳に涙を溜めながら、親切を示してくれた老婆に深々と頭を下げる。大きな音は禁物だった。でなければ、声を上げて感謝を伝えていたに違いない。せめて名前だけでも聞きたかったのに、エミマはそれが非常に心残りだった。

 しかしながら、後の事を考えるとエミマと老婆、どちらの選択が正しかったのか断言するのは難しい。エミマ達の乗っていた馬車が、反乱軍の奇襲に遭ったのである。疲れ切って微睡んでいたエミマ達には、捕虜として連行される結末が待ち構えていたのだった。




 反乱軍が拠点としていたのは、ついこの間まで貴族が住んでいたと思われる、立派な屋敷であった。今となっては反乱軍の前線拠点の一つとなっている場所に、エミマ達は連れて行かれた。

 鎖のついた手枷を見下ろし、エミマは目を伏せた。捕虜となった女の末路はだいたい決まっている。苦役を課されるか、男達の慰み者にされるか、そんなところだろう。エミマの母のように自ら命を断つ者も少なからずいる。

 捕虜となった女性達は複数の集団に分けられて、急造の牢屋に収容された。とはいえ、牢の造りに荒は無く、破壊して脱走するのは不可能だ。エミマがふり分けられた牢屋には親子が多く、子供の啜り泣く声がいっそうの悲愴さを醸していた。小窓から漏れる光は頼りなく、泣き声と相まって、空気がとても重苦しく感じられる。

 そんな中で、エミマはただ静かに座っていた。これからもっと酷い状況になっていくかもしれない。でもそれが、希望を捨てる理由にはならないのだ。


『不幸を呪う暇があるなら、足もとに落ちている幸福を探しなさい』


 幸せというのは存外、身近に転がっている。それを見つけられなくなる事が不幸なのだと。

 気が遠くなるほど昔に曽祖母が言っていた。エミマは曽祖母の言葉が真実であることを知っている。夫が、他の誰でもないニカノルが教えてくれた。だから拘束され、牢屋に閉じ込められても、絶望はしない。


 しばらくして、格子の向こう側から人がやって来た。足音からして複数人。大方、報告を受けた上官が視察にでも来たのだろう。見張りをしていた兵士が「中佐」と呼んでいた。何気なく、エミマは伏せていた顔を上げる───束の間、音という音が消え、時さえも止まった気がした。


 真っ先に飛び込んできた綺麗な琥珀色。

 その髪の隙間から覗く、無愛想な眼差し。

 他者を寄せ付けないような、冷たい雰囲気。

 エミマの記憶にはっきりと残る、あのひとのままであった。


 中佐と呼ばれていた青年が、不意にこちらを向いた。目と目が合い、エミマの心臓はいっとう大きく高鳴る。こんな奇跡があって良いのだろうか。エミマに起きたのと同じ奇跡が、彼にも起きていたなんて!本当にもう一度逢えるなんて!

 限界に達していたはずの足で立ち上がったエミマは、夢中で駆け寄る。彼と自分を阻む格子など目もくれず、顰めっ面の青年だけが潤んだ瞳に映っている。彼女の唇には笑みさえ浮かんでいた。そして、万感の想いをのせて呼んだのである。


「───ニカ様っ!!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ