E.O.615 始まりは遠い昔
窓から吹き込む春風が、つややかな紺碧色の髪を揺らす。折りよく膝の上で広げていた本の間に桃色の花弁が舞い落ち、少女は二、三回瞬いた後くすりと笑った。少女の名前はエミマ・ルラキという。商人の父親が仕入れてくる本を読むのが好きな、大人しい十五歳の娘である。
「エミマ?入りますよ」
「あっ。お母様」
のんびりと読書をしていたエミマのところへやって来たのは、彼女の母親だ。商人の妻としては珍しく、エミマの母は貴族の子女だった。そのため娘の教育には余念が無く、商人には無用な淑女の振る舞いや教養を身につけさせていた。商家であるルラキ家に、数名の使用人が働いているのも同様の理由だ。
「物語を読むのは構いませんが、勉強を終えてからになさい」
「申し訳ありません。つい夢中になってしまいました」
幸いにして、父親は妻の教育方針に口出ししなかったし、エミマも素直で聞き分けの良い娘だったので、家庭内で衝突が起きることはなかった。エミマはすぐに読んでいた本を閉じ、母親が持ってきた歴史書の頁をめくり始める。
「第一章を読み終えたら、母に暗唱して聞かせるのですよ」
「はい。わかりました」
暗記するまで読み込み、それから母親の前で諳んじ、補足があれば口頭で伝えられる。エミマの勉強はいつもこういう風に行われていた。身分の高い人間は、専任の教師を個別につけるものである。貴族としての矜持を持つ女性だったから、娘を学び舎に通わせることはしなかったのだ。
それでも文学や歴史に通じる母親、商人らしく算術に長けた父親の二人から、エミマは土壌が水を吸収するかの如く学んでいった。天才児ではなかったものの、彼女は知らない事を学ぶのに抵抗を覚えなかった。両親の手伝いを自ら率先する勤勉さが、学業面にも反映されていたのだろう。
「覚えられましたか?」
「はい。『第一章、エルフリーデ皇国の興り。洪水により危機に瀕した民を鼓舞し、纏め上げたナハトが初代皇帝となる。その年はエルフリーデ・オリーゴ(E.O.)と呼ばれ、暦の紀元として使用される。以下に記すのは過去六百年の記録であり……』」
ルラキ家には子供が娘一人しかいなかったが、そのぶん両親の愛情を一心に注がれ、エミマは笑顔の絶えない優しい少女に育った。成長するにつれて、蕾が開くように彼女の美しさも開花した。髪とよく似た色合いの瞳には穏やかな光が灯り、頬は可憐な薔薇色、ほっそりとしたしなやかな体躯は気品に満ち、商人の娘とはとても思えない佇まいであった。
「続きは明日にしましょう。よく覚えましたね」
「ありがとうございます、お母様」
「そろそろお父様が帰っていらっしゃる頃ですから、下へ行きましょうか」
「はい」
エミマの顔の造形は母親似だが、笑い方は父親譲りである。実際、親娘の出迎えを受けた父は喜色満面になり、娘とそっくりの微笑みで抱きしめていた。
「お父様、おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま」
「お仕事お疲れ様でございました」
「君もお疲れさま。待たせてしまったかな。すぐ食事にしよう」
エミマは両親の話を聞くのが物語を読むより好きで、よく母にせがんだものだ。
母曰く、実家は貴族と言えど破産寸前で、平民階級の商人に縋るほかなかったという。母も綺麗な女性であるが、融通が利かない性格はお世辞にも可愛げがあるとは言えず、また、心のどこかで商人などと見下していたのかもしれない。余所余所しい態度の母に、父はどこまでも大らかだった。貴族と同じ生活はできなくても、ルラキ家は温かさで満ちていた。朗らかな父にいつしか母も考えを改め、堅苦しさは残るものの、家族を心から愛するようになったのである。『何度冷たくあしらっても、お父様は私に根気強く向き合ってくださいました。エミマがお父様に似てくれて、私はとても嬉しく思いますよ』と語った母の声音には、心温まる響きがあった。
その話を母に内緒で父に伝えれば『僕に似たら、エミマは美人さんになれなかったんじゃないかな。でも、美人でなくても可愛い娘には違いないから良いか』と照れたように笑っていた。
そんな理想とも思える家族と、エミマは幸せな生活を送っていたのである。
その年は例年よりもかなり早い初雪がエルフリーデ皇国に舞った。
ちらりちらりと降る白い雪を喜んだのは、無邪気な子供達だけだ。早すぎる冬の訪れに、占星術者達は声を揃えて不吉だと青ざめ、教会では連日のように祈祷が捧げられた。エミマは熱狂的な信徒ではなかったものの、屋敷の外へ一歩出れば道端で人々が跪き、天に向かって一心不乱に祈っているのを見て、平然としていられる訳でもなかった。周囲の不安は伝染するものである。この頃、皇帝に反感を抱く勢力が西の方に集結しつつあるとの噂で、世間は騒ついていた。そこへ更に不穏な風が吹けば、民衆の心はいとも簡単に揺れてしまう。活気のあった街中は木枯らしだけが吹き抜ける寂しい様相に変わり、固唾を飲んで世情を見守るようになった。
不気味な不安が拡がる中、エミマも家族に災いが降りかからぬようにと真剣に祈っていた。だが残念なことに、彼女の祈りは聞き届けられなかった。
父親が外出先で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。
訃報を聞き、信じられない気持ちで母と共に駆けつけた時、父は青白い顔で横たわっていた。朝方に見送った父は至っていつも通りで、調子が悪そうになんて見えなかった。昨日も一昨日も、元気だった。いつもの朗らかな父だった。ほんの数刻前まで、一緒に朝食を囲んでいた。なのに…こんな事ってあんまりではないか。
沈着な母が泣き叫びながら亡骸を揺すっている。その側でエミマは放心していた。目の前の亡骸は、父親によく似た別人だと思いたかった。エミマはぶるぶると震える手で、雪のように冷たくなった父の掌に触れる。
その刹那、記憶の奔流がエミマを襲う。
脳裏に浮かぶはひとりの青年。
琥珀色の髪がとても綺麗だけれども、こちらを見る顔は顰めっ面なのが勿体ないと思った。
この記憶はいったい何?このひとは誰?
知らない。知るはず、ない……
どくり、と心臓がひときわ大きな音を立てる。記憶に質量は無いのに、エミマは過去の重みに耐えられなかった。彼女は数歩、後ろに蹌踉めいたかと思えば、その場に崩れ落ちたのだった。
死後についての論争は永遠の難題だろう。占星術者の中には「生物は死んで生き返るという流れを繰り返している」と唱える者もいる。大きな成功を収める人間は潜在的に前世の経験を活かしており、反対に失敗続きの人間はその生が一周目なのだとか。とはいえ、誰も死後の状態など知る術を持たないため、どんな説を唱えようと所詮は想像の域を出ないものだった。しかし考えを改める必要があるかもしれないとエミマは思った。
気を失い、しばらくして目が覚めた後も、彼女は激しく混乱していた。幸か不幸か、周囲には父親の突然の死に衝撃を受けたせいだと思われ、不審がられることはなかったが、おかげで父親との別れを悼む暇さえ与えられなかった。記憶の整理が追いつかず、茫然自失のまま追悼式に参列し、埋葬に立ち会ったエミマが憔悴しきるのも無理はないことであった。
何日も何日も、寝床の上で膝を抱えて蹲っていたが、心臓を落ち着かせるには苦労を要した。誰にも打ち明けられず、独りで受け止めるしかない現実に、潰されてしまいそうだった。
今や記憶の大半を占める過去の光景。
若草を踏みしめて立つ大地に名など無かった。
そこで生きる自分は商人の娘ではない。
遊牧生活を送りながら広大な土地を巡る、フリーデ族と呼ばれる一族の娘だった。
奇しくも同じなのはエミマという名前のみ。
遥か昔に生きた自分。
今を生きる自分。
どちらのエミマも受け入れるか、何れかを選ぶか。混迷を極める彼女には難しい選択であった。