追憶:春
まだ国という概念も無かった時代に夫婦となった男女がいた。
山々の恵みを得ながら耕作に勤しむエル族の青年と、広大な大地を遊牧するフリーデ族の娘である。この時代に政略結婚などという言葉は存在しなかったが、二つの部族は互いの農作物と家畜を欲し、婚姻を結ぶことを決めた。若い二人の結婚は、その証であったのだ。
エル族へと独り嫁いだ娘は、それはそれは美しい乙女だった。豊かな紺碧色の髪は滑らかで、雪のような白肌を引き立たせていた。娘がひとたび頬を染めて微笑めば、集落の男達はたちまち虜になったのである。
かたや、娘の夫となる青年は皆に"どうしようもない碌でなし"と呆れられる程、だらしのない人間であった。ある時は一日中賭博にのめり込み、またある時は一日中酒を飲んで暴れる、そんな男だったのだ。そうとは知らぬ花嫁は、不安と少しの期待を胸に、見知らぬ土地へとやって来た。
『不幸を呪う暇があるなら、足もとに落ちている幸福を探しなさい』
これは花嫁が敬愛する曽祖母の教えである。どんな生活が待ち構えていても、この教えを守ろうと娘は勇んでいた。
そして朝から晩まで続いた儀式を終え、初夜の床になってやっと、花嫁は顔まで覆うヴェールを脱いだ。そこで初めて互いの顔を見たのである。
琥珀色の髪が綺麗だと娘は思った。自分の相手について、集落の長の息子としか聞いていなかった娘だが、目が合うなりそっと微笑んだ。大きな緊張の中にありながらも、一生懸命にそうしたのだ。
しかし、青年の態度は真逆のものだった。思い切り顔を顰めたかと思えば、花嫁を残して出て行ってしまったのである。ぽつんと残され、呆然とする娘はまだ知らなかった。これは、これから続く苦難の始まりに過ぎなかったのだと。