E.O.1019 掬いあげた幸福
この身を凍て刺す冷たさに触れるのは、初めてではない。
二度と握り返されることのない固い手は、白雪よりも冷たくて、それが本当に哀しかった。
強張った頰に手を伸ばせど、凍りついた心が溶け切るには及ばず、それがとてももどかしかった。
だからわたくしは…寒さが好きになれなかった───
…目蓋を持ち上げたつもりだったのですが、視界は暗闇で覆われています。しかし、視力が衰えた訳ではありませんでした。閉め切られたカーテンの向こう側が暗いので、今は夜中なのでしょう。その証拠に、しばらくすると部屋の天井が薄ぼんやりと見えてきます。わたくしは寝台で寝ているみたいですが…助かったとみて良いのでしょうか?
深い森を進む最中、突如として響き渡る怒号、嫌な浮遊感を覚えたのを最後に、わたくしは気を失いました。起きた時には独りきりで、足が変な方向に曲がっていたのです。骨折に気付いた途端、激しい痛みに襲われましたが、パルシーのように的確な処置などできなく、て……
……いえ、違う…死期を悟っていたわたくしは、今際の際にパルシーへ伝言を託したはず……だから、これは…この、記憶は───!
わたくしは…わたくしは三たびも『エミマ』として生を受けたというのですか…?
なんということでしょう!!ああ!はやく、はやくあのひとに逢いたい!だって、わたくしは本当のあのひとに逢っているのです。
受けるべき温もりを知らなかったかなしいひとは、今のわたくしに優しく微笑んでくださいました。何もかも忘れていたわたくしに、何度も何度も微笑んでくださったのです。
『…そうか。君はそれだけで、良かったんだな』
あのひとの沁み入る声音が、耳の奥で蘇りました。たった一言に、いったいどれだけの想いが詰まっていたことか…
どうして忘れていられたのでしょう。あのひとへの想いは魂に刻み込まれていたのに。あのひとがふと覗かせる寂しそうな瞳が、切ない声が、全てを物語っていたのに。見過ごしてしまった自分が憎くてなりません。
泣いているのも知らずに、わたくしは夢中で起き上がろうとしました。ところが焼けるような痛みを体が訴え、呻き声が上がるのみです。そういえば、アイリーン様のお屋敷に伺ったところで、わたくしは誰かに襲われたのでした。記憶がいっぺんに蘇ったため、過去と現在があべこべになっていたのでしょう。傷の状態を確認しようにも、包帯が巻かれているので見ることができません。ですがこの程度の痛み、昔に負った傷に比べれば大したことはありません。包帯が巻いてあるだけ上等でしょう。それよりわたくしには、痛みを差し置いてでも、お逢いしたい方がいるのです。
無理やり体を動かした際、寝台の横に置いてあった一輪挿しに腕が当たったようで、大きな音を立てて割れてしまいました。その音を聞きつけた使用人の方々、やや遅れて両親が部屋に飛び込んできます。そして、わたくしは真っ青になった両親によって制止させられたのです。
安静にしておくれという、両親の涙ながらの懇願を退けることはできませんでした。一分一秒でも早くあのひとのところへ行きたいと、心は逸るばかりですが仕方がありません。聞けば、丸三日ほど昏睡状態にあったのだとか。家族が心配するのも当然でした。だからこそ、やたらと過保護になってしまわれたあのひとが、わたくしとしては心配なのです。
ならばせめて、今どうなさっているのかだけでも知りたいと思い、わたくしはお母様にお尋ねしました。しかし、お母様は言葉を濁すだけで、はっきりとは仰いません。不安を募らすわたくしを見兼ねてか、お医者様の診察の後でならと譲歩してくださいました。
ラファ家の屋敷に待機しておられたお医者様によると、傷は背後から小刀で刺されたもので、急所を逸れていた事、処置が早かった事が一命をとりとめた要因なのだそうです。しかし、刺し傷は浅くなく、危険な出血量だったとも仰いました。お母様は「娘が死んでしまう」と泣き暮れていたと言います。二回分の人生を思い出すには、三日でも短いくらいだと楽観視していた自分が申し訳なくなりました。
一時は危ぶまれたものの、傷の治りは順調だという見立てにひと安心できたところで、わたくしはお母様に再度、質問をぶつけました。するとお母様はとても言いにくそうに口を開いたのです。
「…ニカノル殿下は今、軟禁状態におかれているのです。報せが届いた時の取り乱し方は、それはもう酷かったそうで、犯人を八つ裂きにしかねないご様子だったと伺っています」
しばらく言葉が出ませんでした。
薔薇の棘に指先を引っかけただけで、顔色を変えてしまうひとですが、まさかそれほどまでとは…考えてみれば、お見舞いに通いつめるくらい、平然とやってしまわれそうですのに一度もいらっしゃっていません。その事から察するに、お母様のお話に誇張は無いのでしょう。
深く想われているのが嬉しい反面、苦しませてしまった事が申し訳なくて、遣る瀬無さを感じます。可能ならば這ってでも、自分の口で無事をお伝えしたいのですが、お医者様には絶対安静を言い渡されてしまいました。行かせてくださいと食い下がったものの、誰からも許していただけませんでした。
そこで、わたくしはお父様に、早馬を出してくださるよう頼み込みました。もう心配はいらないと、一刻も早くお知らせすべきだったからです。わたくしの我儘で、日が昇ると同時にお父様はお出掛けになりました。
申し訳ありませんが、どうかお許しくださいませ。これは百年以上の歳月を生き、千年にも及ぶ時を経て、やっと辿り着いた奇跡なのです。
「殿下にお目通りすることはできなかったが侍従に言付けを頼んできた」
帰って来たお父様はそう教えてくださいました。これで多少なりとも安心してくださると良いのですが、やはり心配は尽きません。外出の許可はいつ下りるのか、悶々としながら養生するしかないでしょう。
(……夕焼けが…)
痛み止めのお薬には入眠作用もあるらしく、いつの間にか眠っていたみたいです。気が付けば窓の外が橙色に染まっていました。もっとよく眺めていたかったので、上半身だけ起してみます。もちろん、傷に障らないよう慎重に動きましたし、すぐに横になるつもりです。悪戦苦闘しましたが、窓の外にはその苦労に見合う美しさが広がっていました。
(…懐かしいです)
優しい色で覆われた世界に、あのひとの背中が見える光景がわたくしはいっとう好きでした。願わくば隣で同じ景色を楽しめたらと、密かに思ったものです。あのひとの背を追いかけて歩いた道が此処に繋がっているなんて、すごく不思議な心地で───
「エミマッ!!」
意表を突いて呼ばれた、わたくしの名。その声の主は、わたくしが再会を切望したひとでした。
「来るのが遅くなってすまない」
息を切らせて駆け寄るあのひとは、冬だというのに汗が滲んでいて、もうそれだけで胸がいっぱいになりました。
「君がまた、手の届かないところへ行ってしまうのかと……いや、今のは忘れくれ。それより起きていて平気なのか。皇族付きの侍医を連れてきたから後で…ど、どうしたっ?」
労わる声色、安堵に緩む頰、そして優しい眼差し…それらを目にした途端に、わたくしは涙が止まらなくなったのです。口元を押さえていなければ、みっともない嗚咽が出ていたに違いありません。
「泣くほど痛むのか?気付かなくてすまないっ、すぐに医者を」
「…違っ…います…」
「しかし…」
「痛くない、です…だから、行かないで…くださ、い…」
子供のように泣きじゃくっていては説得力も何もありませんが、わたくしは離れたくない一心で引き留めました。
「申し訳ありません…っ」
「…構わない。襲われて怖い思いをしただろう」
怖い思いをしたのは、どちらですか?
わたくし、気付いていましたよ。あなたの声が揺れていた事も、こうして涙を拭ってくださる手が微かに震えている事も。けれど、頰を滑るあなたの手が、とても温かくて優しいから、わたくしは涙の虜になっているのです。
「……お好きな色を」
「エミマ…?」
「とっくに知っていたのに、それが幸せなことだと思い出せず…申し訳ありませんでした」
いつまでも泣いていてはいけませんね。
わたくしにできる事は多くない、だからこそ精一杯やらねければ。
「お逢いしとうございました。わたくしの愛しいひと」
この胸を満たす幸福を精一杯、微笑みにのせます。それが、わたくしにできる唯一の事。
「……ま、まさか…」
そう呟いたきり、ニカ様は目を大きく見開いて固まってしまいました。わたくしがもう一度、特別な愛称で呼びかけると、わななく声で問いかけが返ってきます。
「『エミマ』…なのか?」
「はい。『ニカ様』」
次の瞬間には、わたくしはニカ様の腕の中におりました。とても力強い抱擁でした。けれども、感じるのは深い安堵と愛おしさばかりで、ちっとも苦しくないのです。
ニカ様は繰り返し、わたくしの名前を呼びました。ですからわたくしも、その呼びかけ全てに応えます。
「君に逢いたかった…!どれほど逢いたかったか!」
「はい…っ、はい!」
「私は君に最悪なことを…赦されない事をした。すまない。本当に、すまなかった。こんな私のために涙を流してくれるのは、君だけだったのに…っ」
「いいのですよ」
「たとえ君が赦してくれても、私は自分が赦せない」
辛い時期がなかったとは…言いません。ですが、幸せでなかったとも言いません。
あなたの優しさに触れた時、わたくしの心にあったのは温かな気持ちです。時代が移り変ろうとも、わたくしは得難い温もりを貰っていたのです。
「もう、いいのです。遠い昔のことではありませんか」
「頼むから、私を憎んでくれ…そうでなければ私はっ」
「ニカ様は、わたくしに憎まれたいのですか?」
少しだけ体を離して、ニカ様を見上げます。眉間に皺を寄せた顰めっ面すら、今はただ懐かしい。でも、わたくしが見たかったお顔とは違うのです。
「それが一番の願いなのですか?」
「………違う…本当は、君の…」
「はい」
「…っ、君の笑顔を、君の隣で…見ていたかっただけなんだ。ずっと」
自然と顔が緩むのがわかりましたが、どうすることもできません。
「憎むだなんて、いくら頼まれてもできませんので、安心いたしました」
「……っ」
寒かった夜のひと時と同じように、わたくしは両手でニカ様の頰を包みました。そして同じように笑いかけましたが、きっと今は満面の笑みが浮かんでいることでしょう。あの時、呑み込まなければならなかった言葉を、存分にお伝えできるのです。
わたくしの手が触れた時。ニカ様の口から、は…と吐息が漏れ、瞳が大きく揺れました。
「こんな笑顔で良ければ、全てニカ様にお捧げします。いつまでも、お側にいます」
一番の哀しみ。一番の愛しみ。
わたくしの想いはすべて、あなたゆえでした。
「ですからニカ様もわたくしに、今度こそお年を召した姿を見せてくださいませ」
今のお姿ももちろん素敵ですが、わたくしとしては色々なお姿を見たいとも思います。それが共に生きるという事ですもの。
「わかった。約束しよう。だが、君も長寿でいてくれなければ困る」
「わたくしは祈祷しか治療が無かった時代に八十年も生きたのですよ?この時代でしたら、百年でも余裕です。むしろニカ様こそ、頑張っていただかないと」
「そうか。ならば全力を尽くそう。エミマのために」
いつしか、ニカ様も泣いておりました。二人して涙を流し、また互いに涙を指先で掬った後、どちらともなく笑いました。優しい手が在るというのは、なんと幸福なことなのでしょうか。
「………」
「いかがなさいました?」
もう一度、抱擁しようとわたくしの背中に手を回したニカ様でしたが、何故かピシリと固まってしまいました。理由がわからず首を傾げていたら、ニカ様のお顔がみるみるうちに青ざめていくではありませんか。何事でしょうかとお聞きするより先に、ニカ様が大声で侍医殿をお呼びになりました。切羽詰まったお声にびっくりするわたくしは、風のような速さで出て行かれたニカ様を、呆然と見送るしかありませんでした。
風の如く舞い戻られたニカ様の、矢継ぎ早な説明を聞き、ようやく合点がいきます。どうやら手を動かした拍子に背中の傷がほんの少し開いたのか、服の上から血が滲んでしまったみたいです。痛み止めのお薬を飲んでいたので、気がつきませんでした。侍医殿の様子を見るに、それほど慌てることも無さそうですが、ニカ様のお顔の色は失せたままです。わたくしが大丈夫ですよと言っても、何の効果もありません。
最終的にわたくしは後日、ニカ様が突貫で造らせた寝台付きの馬車で宮殿へと運ばれ、畏れ多くも其方で静養することになったのです。
まだ婚約の段階ですのに、皇帝陛下のお住まいである宮殿で寝泊まりするのもさることながら、ニカ様がわたくしに付きっきりなのも困ったものでした。どうしても外せないご公務の時間以外、傍を離れようとなさいません。それどころか、わたくしの介抱までなさろうとするので、慌ててお止めした次第です。しかしニカ様は「昔、君がしてくれた事の、十分の一にも満たない」との一点張りで…かくいうわたくしも、一緒に過ごせるのは嬉しくて、強くお断りできないのでお相子ですね。何せ積もる話が優に百年分はあるのですから、時間はいくらあっても足りないのです。
ところで、わたくしを襲った犯人ですが、その正体はチウダ様でございました。何故とは考えるまでもありません。婚約者候補に辛うじて名だけ挙がっていただけのわたくしが、あっさりその座におさまってしまったのですから、嫉妬を受けるのは自然なことでしょう。やり方はいささか過激でしたが、皇族絡みともなれば妥当かもしれません。
そう話せば、ニカ様には「呑気すぎる」と呆れられてしまいました。ですが金輪際、遅れをとるつもりはありませんよ。皇妃としては未熟極まりないでしょうけど、ニカ様への想いだけは誰にも負けませんから。それがたとえ、幼馴染のアイリーン様であってもです。
さて、たった今お名前が出ましたアイリーン様ですが、どうやらかのご令嬢は、わたくしの想像を良い意味で裏切るお方でございました。なんでもニカ様が「エミマの手助けをしてほしい」と頼み、事も無げに承諾なさったのだとか。傍目から見れば恋敵、もしくは政敵のわたくしは目の上のこぶでしょうに。
「よく…承諾してくださいましたね」
「私とアイリーン嬢は旧知の仲だが、それ以上でも以下でもないからな」
そうは仰いますが、未来の皇妃となるべく育てられてきたのに、まさか皇子から別の女性の手助けを頼まれるのは…恋愛感情が無いにしても、愉快な気持ちにはなれないと思いますが…
「エミマの名前を思い出すまでに時間はかかったが、私はすでに記憶の中で微笑む君に心を奪われていたんだ。口に出したことはないが多分、アイリーン嬢も薄々感じていたのではと思う。私達の距離は適度に保たれて、一向に縮まることはなかったからな」
「そうなのですか?」
「ああ。私も早いうちに結婚の意思は無いと伝えるつもりでいたんだが、彼女の方が先に宣言してきたんだ。『あたくしは殿下に、愛も情けも求めませんわ。あたくしが結婚するのはエルフリーデ皇国と心得ております』とね」
素晴らしく高潔な志です。わたくしも見習わなければいけません。
アイリーン様は婚約者に選ばれなかったことを知っても「あら。そうですか」とだけ仰ったそうです。ニカ様の頼み事に対しても「貴族として当然の務めですわ」と快諾なさったらしいのです。
「アイリーン嬢が君を呼んだのは、あの日、チウダ嬢の縁者がラファ家を来訪するとの情報を掴んだからだ。君を避難させるのが目的だったんだよ。それが裏目に出てしまって、私も彼女も悔やんでいた」
「まあ…そうでしたの。お礼に伺わなくてはなりませんね」
「彼女となら、良い友人になれるんじゃないかな」
「そうできると嬉しいですわ。お聞きするだけでも、魅力的なお人柄ですもの。学ばせていただく事も沢山ありそうです」
友人といえば、わたくしの古い友パルシーですが、彼女は名医として歴史に名を刻んでいます。統合大戦はあれからますます激化し、パルシーが生きた時代は最も凄惨だったという一説もあるくらいです。どれほど激しい戦争だったのか。ニカ様やわたくしの二度目の生家が、争いの渦に埋もれ、後世に何一つ証を残していないほど、と表現すれば理解していただけるでしょうか。大戦時代の記録は殆ど残っていないのに、それでも名医と語り継がれるパルシーは、本当に立派なお医者になったに違いありません。パルシーが語ったとされる、こんな言葉も残っています。
『剣を手に取った瞬間から、人間は敵と味方になって戦う。しかし医者は、治療の手を武器に死と闘う者であり、患者に対していかなる不平等があってはいけない』
朗らかで人懐っこいパルシーにしては堅い口調に、若干の違和感はありますが、治療に対する彼女の真摯な姿勢をそのまま表したような言葉です。この文言は、医学を志す方達の標語として、教本の冒頭に必ず記載されているそうです。パルシーが知ったら、目を丸くしたでしょうか。それとも照れながら喜んだでしょうか。
かつての事を思い出せばきりがありません。ニカ様とわたくしはお互い、自分が死んだ後の相手がどのように過ごしたのかが気になりました。とはいえ、わたくしは独りで淡々と日々を送っていただけです。何の面白みもありません。しかしながら寡婦のままだった事は、ニカ様には衝撃的だったようです。何やら複雑そうな表情を浮かべておりました。
わたくしはニカ様のその後を知りたかったのですが、渋られてしまい、なかなか教えていただけませんでした。まさか、口にもしたくないような、お辛い出来事でも…
「いや、その…二度目の人生も長生きはできなくて、だな…」
「ご自愛くださいとお願いしましたのに…」
「さ、酒は飲んでないぞ?」
「では…」
「戦場で、だ。あの時代なら日常茶飯事なことだったが…君の最後の願いすら叶えられなかった自分が情けなくて、言い出す勇気が持てなかった」
それはわたくしが息絶えてから、二年と経たない日のことらしいです。
「父親に見限られ、君を喪い、私には何の為に剣を振るうのか、もう分からなかった。私は父親の言いなりで戦っていただけだからな。戦う理由なんてもともと無かったんだ。己を見失ったまま戦場に立って、勝てるはずもない。せっかくエミマが教えてくれたのに、私は何も成すことはできなかった…。死に際、私は君との再会を望み、同時に己が生を呪った。だが、現在に至るために必要な時間だったのなら、決して無意味ではなかったと思えるよ」
「ニカ様…わたくしも、そう思います」
二人で重ねた時間は、かけがえのない宝です。貴重な宝物を、最愛のひとと分かち合えるなんて、もの凄い贅沢に違いありません。
「それにしても、君の我慢強さには感服する」
「はい?」
「私がエミマの立場だったら、とっくに見限っているぞ」
「わたくしは誰彼構わず命を懸けられる善人ではないですよ」
「…俄かには信じ難いが」
それは心外ですね。わたくしだってニカ様が、真性の碌でなしで冷酷無慈悲だったなら、歩み寄りたいとは思わなかったでしょう。
「…憶えておられますか?お酒も賭け事もなさらない日は、弓矢を手に狩りへ出掛けることがありましたよね」
「…?」
唐突な切り出しに、ニカ様は目をぱちぱちと瞬かせています。
遊牧民族だったわたくしも狩りをしましたが、嫁いでからは其方の風習に従い、家事と畑仕事に専念していました。エル族では狩りは殿方の仕事とされていましたから。といっても、ニカ様が狩りに出掛けられたのは、ほんの数回でした。でも、だからこそ強く印象に残っているのです。
「ニカ様が初めて持ち帰ってくださったのは、うずらでした」
フリーデ族は空を飛ぶ生き物より、地を駆ける獣を好んだので、鳥を食べる機会は少なかったのです。特にうずらは、それまで食べたことがありませんでした。
「わたくしの拙い調理でしたが、初めて味わった美味しさに感動して…ニカ様にお礼を申し上げたのです」
わたくしはたいそうご機嫌になって、ありがとうございますを繰り返していたと思います。
「それからニカ様は狩りに出掛けると、必ずうずらを捕まえてきてくださったんですよ。ですが一度だけ、何も捕れない日がありました。ニカ様は普段より眉間に深い皺を寄せていましたけど…何だかわたくしにはそれが、悄気ているように見えたのです。その時、思ったのですよ。『このひととなら、きっと大丈夫』だと」
大した根拠もありません。強いて言うなら女の勘でしょうか。己の心情をこと細かに説明するのは不可能ですが、わたくしは「きっと大丈夫」と信じて疑わなかったのです。頭では理解していなくても、わたくしの心はニカ様の潜在的な優しさを感じ取っていたのでしょう。中佐と呼ばれていた時代であっても同じです。ふと垣間見える面影に触れていました。だからわたくしには、不幸を呪う必要などありませんでした。
ここまで話した直後のことです。ニカ様にそっと抱き寄せられました。真綿で包むかのような抱擁に、指の先まで脈打つ感覚を覚えます。しばらくの間、聴こえてくるのは二人分の心音だけでした。旋毛のあたりに優しい口付けが落とされたかと思えば、ニカ様にじっと見つめられました。
そして、不意に破顔なさったのです。
とびきり甘やかで、深い慈しみをたたえながら…
「私の微笑みは、及第点を貰えるだろうか」
初めて見せた不器用で歪な笑みではなく、本当のニカ様らしい、とっても優しい微笑み。
「素敵すぎて、採点などできそうにありません」
そう、わたくし達にはたったこれだけで良いのです。
あのひとの瞳の中で微笑むわたくし。
わたくしの瞳に映るあのひとの微笑み。
この瞬間こそが、最大にして最高の奇跡です。史実にも残らず、証明もできない軌跡でも、この世界でたった二人、わたくし達だけが憶えています。
「ありがとう、エミマ。しかし君の笑顔には敵わないな」
「そんなことありませんわ。ニカ様のほうが良い笑顔です」
「いや、君だな」
「いいえ」
「私は君に敵わないままが良いんだ」
「まあ!ふふっ」
「フッ…」
愛しいひとへ、幾星霜の想いを。
ありったけの微笑みにこめて贈ります。
いついつまでも───




