皇国の太子ニカノル
百年に及んだ戦争は、全てを壊してしまった。
豊かな自然を壊し、先人達の軌跡を壊し、数えきれない生命を壊した。その代償として得たのは、後の世の平和である。優勢と劣勢を交互に繰り広げた『統合大戦』は皇帝側の辛勝に終わった。東西に分かたれてしまったエルフリーデ皇国は、こうして一つの国に戻ったのである。
以後およそ三百年、エルフリーデ皇国は平和そのものだ。諸外国との関係も良好で、国内も平穏に包まれている。今、我々が当たり前のように享受している安寧は、計り知れない犠牲の上に成り立つものだと、著名な歴史家達は声を揃える。だがしかし、それは真実だと断言できるのは、恐らく彼だけだろう。何故なら彼は凄惨な時代を目の当たりにしたからだ。
その人物こそ、我が国の皇子ニカノル・シデロ・エルフリーデである。
彼は特殊な記憶を有していた。といっても誕生の瞬間からそうであった訳ではなく、心身の成長と共に、常人ならざる記憶が彼の頭に蘇っていったのだ。昼夜を問わず脳裏に描かれる鮮明な光景が、いわゆる前世の記憶だと解釈できた頃には、分別のある年齢に達していた。おかげで周囲に怪しまれることもなかった。
短命だったエル族の青年。
冷酷無慈悲と恐れられた軍人。
ニカノルには両方の記憶があった。
蘇る記憶の断片に規則性は無く、整理するのにかなりの時間を割かなければならなかった。かくして、彼が"ニカノルという名の人間として三度目の生を受けた"と理解できたのは、十五歳を迎えた頃であった。
初めて瞼の裏に浮かんだ記憶は、一人の女性だった。ちなみに物心がついたばかりの幼少期のことである。昼寝から目覚めた子供が覚えていられたのは、そのひとの優しい微笑みだけだった。
しかし、そのひとは記憶の断片の中で繰り返し現れた。なおかつ、ほとんどすべての場面で微笑んでいたのだ。いつしかニカノルは、自身の記憶の中にしか存在しない女性に、強く強く惹かれていった。
そして遂に、そのひとの名前を思い出す日が訪れる。
エミマ───それは、かなしいひとの名。
その名が口をついて出た瞬間、ニカノルは人目も憚らずに止めどない涙を流した。流石にこの時ばかりは奇妙な目で見られたが、もはや瑣末なことだ。
どうしようもない男なんかと出逢わなければ、幾らでも人並みの幸福を手にできただろうに。彼女は灰色だったニカノルの世界を彩り、儚くも美しい、切なくも愛おしい、言葉では言い尽くせぬ想いを教えてくれた。
本当に優しいひとだったのに、彼女に対してなんと最低最悪の人間だったのかと、ニカノルは自己嫌悪に陥った。とりわけ二度目の人生は酷い。世も末だったとはいえ、あんまりな態度だった。あの時代、彼女がニカノルを憶えていたというのが、なおさら哀れでならない。出逢い頭に「ニカ様」と呼んだことから、それは明らかだ。エミマは全て忘れた男のために、どこまでも温かく、寛大だった。
『ただ微笑んでくださるだけで、良いのですよ。それだけで、貴方様の優しさはちゃんと伝わりますから』
深く後悔する姿を憶えていたからこそ、彼女はニカノルが後悔する前に教えてくれたのだろう。冷淡な軍人の怒りを買わぬよう、折を見て、そっと助言してくれていたのだ。それなのに何も悟らず、彼女を放って逃げ、果てには看取ることもできずに死なせてしまった。こんなどうしようもない碌でなしを、彼女は最後まで案じていたのに、どうして泣かずにいられよう。
三日三晩泣き明かしたニカノルは、直ちにエミマを捜し始めた。傷付けたくないから背を向けても、後悔しか得られなかったのだ。今度こそ、己の手で彼女を幸せにするのだと意気込むニカノルだったが、エミマという名前だけは皇族の身近にあった。その名はラファ家の令嬢が持っており、当家は皇帝との関わりが強い。よってニカノルが調べたのは、エミマ・ラファが再会を望むあのひとなのか、という点に尽きた。数奇な巡り合わせだと思うが、それ故に妙な確信さえあった。
『ニカノル』の人生において『エミマ』に出逢えず終わることはない。
そんな希望を胸に、彼はこっそりエミマ・ラファを見に行った。丁度その日はニカノルの父、つまり現皇帝の誕生祝いの日で、側近達は全員祝宴に出席していた。直接、祝言を伝えられるのは限られた側近のみだが、彼らの家族も宮殿に招かれているのである。ラファ家も然りだ。そこでニカノルは適当な理由をつけて、ほんのいっとき祝宴の席を抜け出し、別の会場へと走ったのだった。
結論から言えば、エミマ・ラファは記憶の中に生きるひとと、そっくりな女性であった。星降る夜空のような髪は長く艶やかで、瞳はあまたの星より煌めく。何よりも薔薇色の唇にたたえる微笑みは、どれだけ歳月を重ねようと変わっていなかった。
ある時は独り遺して先に逝き、またある時はむざむざと死なせてしまった愛しいひとが今。ニカノルの目の前にいる。彼は駆け寄って行き、抱きしめたい衝動と闘わなければならなかった。皇子ともあろう人間が感情に任せて乱入するなど論外だ。今日、彼には立ち回るべき役割がある。鬱陶しいしがらみを放り出したいのは山々だが、ニカノルは彼女を想って忍耐した。
二回目の自分がそうだったように、今のエミマには前世の記憶が無いかもしれない。ニカノルを憶えていれば感動の再会劇になるだろうが、そうでなければ単なる闖入劇である。ニカノルは後ろ髪を引かれながらも、その日は踵を返したのだった。
結果的に、彼の判断は正しかった。それが分かったのは、遂にエミマと対面した時である。彼女はニカノルの正式な婚約者として、宮殿にやって来た。
無論、エミマを選んだのは皇子本人だ。周囲が幼馴染であるアイリーンを推挙していたことは承知している。エミマやその他の令嬢は、体裁を整えるためだけに名を連ねていたに過ぎない。それらの事情を理解した上で、彼はエミマを選んだのだ。アイリーンは申し分のない女性であるが、彼はエミマしか望まなかった。
そして、今生において初めてエミマと目が合った瞬間、ニカノルはもう自分を抑えきれなかった。きっと、鎖に繋がれていた彼女も、こんな気持ちだったのだろう。遠いあの日とは逆で、今度はニカノルの方からエミマに近付く。抱擁するのだけはどうにか踏みとどまったが「逢いたかった。私の愛しいひと」と口走ったのはほぼ無意識だった。変な顔になったかもしれないが、彼女に笑顔を贈れるよう、精一杯努めた。
それに対してエミマはというと、束の間、愛想笑いも忘れてぽかんとしていたのである。我に返った後も、どこか態度がぎこちない。かつて横暴な軍人を相手にしても落ち着き払っていたエミマが、年相応の娘らしく眼を白黒させていた。
過去の人生を振り返っても、ニカノルがこんな歯の浮くような台詞を吐いたことはないので、驚くのは無理もない。だが、エミマの当惑ぶりは、そういうものではなかった。困ったように畏る彼女を見て、ニカノルは悟ったのである。一つ前の人生と、全く逆の立場になったのだ、これは背を向け続けた罰なのだと。
しかしながら、ニカノルは特に悲嘆もしなかった。己の過ちを詫びることが叶わないのは悔やまれるが、記憶が無いのなら一から始めるだけだ。これまでエミマがしてくれたように。謝罪を伝えることはできなくても、償う方法はあるはずだ。まずは誠心誠意、彼女を想い続けよう。
こうして、婚約者にとことん甘い皇子が誕生したのである。
美辞麗句は挨拶、そして贈り物に次ぐ贈り物。それらは彼なりの贖罪であると同時に、過去にしてやれなかった後悔の反動が一気に出たのだ。エミマが豪華な金品を欲する人間でないことは彼もよく知っていたのだが、それでも抑えが効かなかった。だって一度として綺麗な服を着せてあげたことも、髪飾りの一つすら手渡したこともない。贈り物が全てではないが、エミマのために何かしてあげたいという、その一心だった。
だから、うっかり失念してしまった。エミマは微笑みを返してくれるだけで良いと言うひとであり、記憶が無くともその性格は相変わらずであったのだ。迷惑だと怒るなんてことはしないものの、行き過ぎた贈り物の山に困っていたのは確かだろう。ただお逢いできるだけで嬉しいと控えめに言われた時、ああやはりこのひとしかいないと、ニカノルは再認識したのである。
戸惑い気味だったエミマも、徐々に彼女らしい微笑みを浮かべる時間が増えていった。何度でも温かく接してくれるエミマといるうちに、ニカノルは幸福の片隅に心苦しさも感じるようになった。
(私は恵まれている。君と違って…)
エミマの優しさに赦されていたニカノルは、どこまでも冷酷無慈悲だった。だからこそ、本当に微笑み返すだけで良いのかと時折、果ての無い不安に駆られる。それだけで赦される訳がないと、思えてならないのだ。
(あんな酷い男のことなど、憶えていない方が幸せだ)
しかし何度そう言い聞かせ、己を納得させようとしても、エミマに「殿下」と呼ばれる寂しさは消えてくれなかった。
未だ嘗てないほど穏やかに、季節は巡った。
皇子は菓子よりも甘い態度で、婚約者を宝物のように大切にしている。いささか度が過ぎる自覚はあったものの、ニカノルはとっくに己の制御を諦めていた。厳しくするならともかく、優しくする分に何の問題があると開き直っていたのだ。
この冬さえ越せば、エミマは再びニカノルの妻となる。およそ千年越しの結婚だ。気が遠くなるほどの時を経て、夫婦に戻れる機会が訪れた。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶ。この度は皇妃という重い荷がついて回ることになるが、全部引っくるめてエミマを護ろうと、ニカノルは固く誓った。彼女が隣で微笑んでくれるなら、他に望むものなど無かった。
けれど…いつの時代を生きようとも、共に在れたのは刹那の間のみ。何故なら冬の風が別れを運んでくるから。
エミマ・ラファが何者かに刺され、重体に陥ったとの一報が飛び込んできたのも、白い雪が舞う日のことであった。
白銀の大地に紅の華を散らすエミマは、いっそ美しささえ感じられたという。




