追憶:ひととせ
「お前に嫁を迎える」
エル族の長である父親からそう聞かされた青年は、おざなりの返事をした。花嫁に選ばれたのは、母なる大地を放牧して巡るフリーデ族の娘らしい。だが青年には興味も無かった。家族なぞ碌なものではない。自分の親を見ていればわかる。手塩にかけたぶん応えてくれる畑の方がましであると考えていたのだ。
それでも結婚に際し、青年なりに決めていた事はあった。一つは名前を呼ばせない事。もう一つは妻に手を上げない事だった。
青年の名が呼ばれる時、それは父親から謂れの無い暴力を受ける時と決まっていた。染み付いた恐怖が蘇るため、青年は自分の名を疎んでいた。そして自分自身が受けた痛みを、妻には味わわせまいと思ったのである。たとえ青年にとって作物以下の家族でも、恐怖に青褪める顔を見るのはもう懲り懲りだったのだ。
さて、そんな青年のもとにとうとう花嫁がやって来た。
初夜の床でヴェールを脱いだ花嫁は、夜空の星のような瞳で青年を見つめ、それからはにかんだのである。未だ嘗て、誰もこんな風に優しく微笑みかけてくれることはなかった。青年は目を奪われると同時に、身体の中心が何かに貫かれたのを感じていた。その正体が分からず激しく動揺した青年は、気がつけば一目散に逃げ出していたのだった。
事もあろうに初夜に捨て置かれた妻は、よく笑うひとであった。
酒と賭博に溺れる青年に対し、最初と変わらぬ微笑みを見せていた。青年には自身が碌でなしである自覚があった。愛し方も愛され方も知らぬ人間にはきっと、傷付けることしかできない。彼には、親がしてきた生き方以外に、どうして良いかわからなかったのだ。
そうして、青年はますます家から遠ざかった。今夜はもう待っていないだろう、流石に呆れ果てただろう、そんな惨めな期待をしながら時折は帰る。しかし、妻が出迎えを欠かすことは終ぞなく、また、目が合えば微笑みを浮かべるのだった。
彼女とだったら…思い描くことすら諦めていた、家族のかたちを追い求めてみても良いかもしれない。
青年の胸の内で、淡い希望が芽生え始めた矢先の事である。
彼は動けぬ身となってしまった。酔っ払って足を滑らせ、頭を強打したのだ。自業自得だと皆が嗤い、彼自身もそう思った。けれどもやはり、妻だけは皆と違っていた。
目覚めた時、青年が見たのは安堵を滲ませて顔を綻ばせる妻であった。余計に厄介な荷物となった青年に、愚痴の一つもぶつけず、妻は一生懸命に世話を焼いた。垂れ流す糞尿を片付ける彼女に、青年は心からの感情と謝罪を伝えた。
いつまでも子供ができない事を、妻が責められているのは知っていた。
毎日毎日、妻が勤勉に働いているのもよく知っていた。
知っていながら、青年は背を向け続けていたのだ。それがようやく、言えたのである。彼女のために何かしてあげたいと心の底から願うものの、寝たきりの人間にできる事などありはしない。猛烈な後悔に苛まれながら、彼は来る日も来る日も、感謝と謝罪の言葉を口にし続けた。
「…私は、どうすれば良かったのだろうか」
ふと、こぼれ落ちた疑問。
今更知ったところでどうしようもないのに、青年は知らずにはおれなかったのである。
「ただ、微笑んでくださるだけで…良いのですよ」
妻の答えは、至って単純なものであった。拍子抜けしてしまうくらい、簡単なことだったのだ。
「そうか…っ、たったそれだけで、良かったのか。そんな簡単なことも、私は知らずに……」
青年は愚かだった己を呪い、そして、優しい微笑みに乞う。
(君と出逢った日をやり直したい…その時はまた、一緒にいてくれないか───エミマ)




