別離の款冬華
拮抗が崩れた。それも悪い方にである。
小さな敗北から、反乱軍は形勢を逆転されてしまった。戦いとはそういうもの、勝敗を決めるのは必ずしも劇的な出来事とは限らない。
戦いの火の粉はすぐそこまで迫っている。負傷者の増加が止まらず、ニカノルの居る拠点は病院と見紛う有様となっていた。四の五の言っている状況ではなくなり、捕虜達を怪我人の治療に当たらせる事が決まった。どの捕虜を使うかについて、ニカノルは多少の口出しをした。彼が名簿に印をつけた人物は、あの娘であった。ニカノルの非情を体感しても、馬鹿の一つ覚えみたい笑っている人間だというのは、もう分かった。命令された事はきちんと果たす姿も見ている。故に彼女を推薦したのだが、それは信頼と呼ばれる事を、彼はまだ知らない。
「…わたくしに何か…できることはありませんか」
娘がそんな問いかけをしたのは、激しさを増す戦況と軍議に疲れを感じ始めた、寒い午後のことだった。今日、此処からの撤退が決まった。だからもう、執務室を掃除する必要は無かったのに、ニカノルは彼女を呼んだ。会議の内容が聞こえる可能性も承知の上だった。捕虜の脱走は予見できたので、それを防ぐ手立てを講じるとか何とか、頭の中で理由は考えたものの、会議が終わる頃には忘れていた。正直、脱走されようがどうでも良かった。そのために割く人材は無いし、逃げるに当たって捕虜など居ない方が身軽で助かる。どちらかと言えば、彼女に逃げ出す意思はあるのか否かを探りたかったのかもしれない。しかしニカノルには己の思考が、自分のことなのによく分からなくなっていた。
娘の問いかけに、顔を上げることはできなかった。言いたい事はある気がするのだが、疲労と戸惑いが唇を閉ざしてしまう。見返りも無いのに、力になってくれるひとなど、居るはずがない。鈍くなった頭で、それだけは思っていたのである。保管してあった鍵が元の位置から動いていないのを、虚ろな瞳で確認しながら。
疲弊した心身にとどめを刺したのは、バーチ家から届いた手紙だった。「お前には心底失望した」から始まり「もう息子ではない」で終わる手紙は、ニカノルの手によって燃え盛る暖炉へ投げ込まれた。
戦い続けた息子に対して、役立たずは死ねと綴る、そういう父親だというのは骨身に染みてわかっていたはず。ようやく憎き父親の支配下から解放されるのだ。そう思えど、胸を苛むこの虚しさはいったい何なのだ。
言いなりに徹し、他人も自分をも散々殺して、得るものは何も無く、挙げ句の果てに全てを否定された。何という無意味な人生か。
───わたくしに何か、できることはありませんか
不意にそよ風のような声が蘇る。
その瞬間、ニカノルは執務室を飛び出していた。脇目も振らずに彼女のいる牢屋へ走る。今は彼女以外のものが視界に入るのも煩わしくて、見張りを去らせた。
どうしたいのか纏まらないまま、ニカノルは檻の前に立つ。無言で突っ立つ彼に気付いた娘の方から歩み寄ってくれた。それは、初めて出逢った日と同じ光景だった。けれど、彼女はニカノルを呼ばなかった。微笑みもせず、じっと待つのみ。
やがてニカノルは動いた。彼女が触れもしなかった鍵を使い、二人を隔てる格子を取り払う。檻の向こう側から出てきたのを逃さぬよう、ニカノルは細い手首の間で揺れる鎖を強く握った。
灯りの無い廊下を進む間は、世界は自分達の二人きりになったような錯覚を齎した。だが、娘の手元から鳴る無機質な音が現実へと引き戻す。
「ご主人さ」
「煩い」
よりにもよって、こんな時に呼びかけてくれるな。その声で、その呼び名で。神経が逆撫でされたニカノルは、底冷えする声で遮る。
「もう喋るな。不快だ」
親とも思いたくない人間から唯一与えられたもの。ニカノルは自分の名前が大嫌いだった。
けれども、彼女にご主人様と呼ばれる方が、よっぽど気分が悪いことを、今更ながら自覚した。でも、依然として理由がわからない。わかるのは彼女の出逢ってから、不可解なことの連続だという事だけ。得体の知れない何者かに心臓を掴まれる感覚…それを理解してしまったら、自分の立っている世界がひっくり返るような予感があって、それが何にも増して怖かった。父親の暴力など比ではないほど、怖いと思ったのだ。
荒れ狂う感情を制御できず、ニカノルは引き摺ってきた娘を寝台の上に押し倒した。腹の底に溜まるどろどろしたものを、全てぶつけんばかりの勢いだった。
衣服を剥ぎ取るまでは呆然とするだけだった娘も、その柔肌を這う手に身をよじる。だが抵抗らしい抵抗はせず、顔に朱がさすくらいであった。
(ああ…似ているのだったな)
彼女がたった一度だけ呼んだ『ニカ様』とやらにそっくりだからか、とニカノルは思い至る。娘の口ぶりからして、心から愛するひとだったに違いない。愛など無縁なものだったニカノルには共感できないが、愛とはああいう想いを指す言葉なのだろう。面影さえ在れば、最悪の屈辱を受けようと拒まないのか。であるなら、一生理解することはない気がした。
(誰も、私を見ない。私に気が付かない)
父親は功績を得るため、この娘は想い出を重ねるため、自分は利用されたのだ。
(……寒い…)
阻む鉄格子も、邪魔な鎖も、不快な声も無い。自分を煩わすものは消えたはずなのに、ニカノルは酷い寒さを感じていた。
彼の心が凍てつく間際に、伸ばされた小さな両手。染み入るような温もりが、冷たい頰を包んだ刹那、彼は信じられないものを目にする。
組み敷かれたエミマが浮かべていたのは、花開くような微笑みではない。少しだけ眉根を寄せた、精一杯の笑顔だった。ニカノルを一心に見つめる瞳から零れたのは、彼のためだけに流された涙。
エミマと目が合うたび、不可解な謎が増えていくばかりだったのに、この瞬間だけは誰を想って流れた涙なのかを、はっきりと理解していた。こんなに綺麗なものがあった事に、ニカノルの心は震えたのだった。
温もりを分け与えるかのように触れていた手が、不意に力を失う。我に返ったニカノルが見ると、エミマは寝息を立てていた。恐らく、眠るというよりは気絶に近いだろう。情事の痕が浮かぶ彼女を、ニカノルはしばし音も無く見つめていた。だが、おもむろに寝台から出て、乱れた服装を正し始める。彼はエミマを残して、ここを去ることを決めた。
出て行く間際、ニカノルは少しだけ振り向いた。
加減を知らぬ自分は、いとも容易く相手を傷付ける。今まではそれで構わなかった。そうすれば皆、遠ざかっていくから。でも彼女だけは、背を向けなかった。だからニカノルから背を向けることにした。例えば彼女の首を絞めたとして、それでも自分は赦されてしまう気がしたのだ。その事が恐ろしくて堪らなかった。
ニカノルという青年は、自身を襲う恐怖に対して、逃げる術しか持ち合わせていない。誰かを傷付けてしまうから離れるほかない、そんな思考を抱くこと自体、彼には持て余すほどの戸惑いであった。
定刻より早い退去に、部下達は文句も言わずに従っていた。否、ニカノルが有無を言わせなかったのである。思った通り、捕虜の大半は逃走していたが、構うことはない。彼は今度こそ振り向くことなく、手綱を打つ。
空は灰色の雪雲に覆われ、朝陽を拝むのは叶わなかった。
敵ではなく、一人の娘から逃げたいがため、ニカノルは休息も惜しんで進み続けた。彼女が包んでくれた頰は、冷気に当てられてすっかり冷えてしまっている。冷えすぎて、じんじんと痛み始める始末だった。
そして、まもなく黄昏時が訪れるという時。森を抜ければ野営地は目前で、ニカノルは部下数名を先行させるべく、振り向いて指示を出そうとした。その僅かな動作の端で、紺碧の色を見た気がして彼は自分の目を疑った。次いで、彼の視線は最後尾へと固定される。ニカノルが凝視する先に居たのは、確かに置いてきたはずの娘であった。
エミマであると分かった直後に駆け巡った感情は、筆舌に尽くしがたい。驚愕はもちろん、当惑した。唖然となったし、怒りだって湧いたかもしれない。だが、諸々が過ぎ去ってからニカノルの胸を占めたのは、紛れも無い歓喜だった。途端に冷え切っていた頰が熱を帯び始める。はち切れそうな衝動に突き動かされたニカノルは、無我夢中で彼女の名を呼ぼうとした、その刹那───敵襲!!という鋭い声が、森中に木霊した。
…以降の記憶は、酷く曖昧だ。
知らない間に、辺りは薄闇に包まれていた。先程まではもっと明るかったはずである。しかも、数百はいたはずの人間が半分以下に減っている。森のざわめきに混じって聞こえるのは、生き残った者達の息遣いのみだった。ニカノルはおびただしい返り血を浴び、刃の欠けた剣を持って立ち尽くしていた。土の香りではなく、むせ返る血の匂いが充満する異質な場所を、虚ろな眼で見渡す。敵の奇襲に遭い、斬り伏せていった気はするものの、あまりよく覚えていない。それだけ必死だったのだろう。彼は体に刻まれた軍人根性により、号令をかけて生存兵を集める。
作業を淡々とこなすような様子のニカノルであったが、敵襲の直前に見つけた紺碧色について思い出すと、弾かれたように頭を上げた。突然の動きに近くにいた兵士が驚いているが、部下の戸惑いには目もくれず、彼はエミマを探した。だが、見当たらない。捕虜の姿は何人か見えるが、肝心の娘は何処にもいなかったのである。
彼女を探しに行くことはできなかった。ニカノル中佐ともあろう人物が、自分の部下ならまだしも捕虜ひとりのために、全員を危険に晒すなどあってはならかったのだ。軍人である以上、一個人の願望は捨てなければならない。たとえ断腸の思いであっても、彼には優先すべき判断がある。
足元から這い上がる寒気は感じていたものの、彼は敢えて無視した。あの娘のことだ、きっと後でひょっこり現れるだろう。そうに違いない。ニカノルは自分を説き伏せながら、その場を後にする。
しかし、さらに人数を減らしながら野営地へ辿り着いても、彼女は現れなかった。そこを出発する日も、西側の本拠地に着いてしまっても、彼女が追いついてくることはなかった。
雪解け水が川を流れ、新芽が芽吹き始めても、ニカノルは花のような微笑みを再び見ることが叶わなかった。怪我をしてどこかの街で療養しているのだろう、或いは、やはり逃げたくなって引き返したのだろう。そうやって当たり障りのない理由を考えては、無意識のうちに森がある方角を振り向いていた。様々な理由を並べても、彼は頑なにエミマが死んだとは考えなかった。何をされても図太く笑うような人間が、簡単に居なくなる訳がないと、思っていたのである。
そんな折、白旗を掲げた少女が朝靄の向こうから現れたという報告を受けた。手にしていた書類を放り出して向かえば、小柄な娘が見張りの兵に止められているのが見えた。背格好は似ていたが、髪色が違う。そのことに内心では落胆しながら、表面には出さずにニカノルは近付いていった。待ち人ではなかったものの、彼は栗毛の少女に見覚えがあった。確か、あの娘の友人と思しき捕虜だ。栗毛の少女が無事だったのなら、あの娘も…
「…ご無事で何より。あなたまで死んでたら、エミマの伝言を届けられなかった」
こちらを睨む少女の声には棘が含まれていた。だが、そんな事よりとても引っかかる台詞があった。あなた「まで」とはどういうことだ。それではまるで彼女がもう……死んでいるように聞こえてしまう。
「……あの娘は、どうした」
「…っ、エミマなら亡くなりました」
「………は…」
ニカノルの唇から出たのは、言葉にもならない吐息であった。
目を覚ましたら、パルシーは独りぼっちになっていた。
時間は冬の森で襲撃を受けた後まで遡る。幸いにもパルシーは気を失っていただけで、大きな怪我もなかった。しかし土地勘の無い森で皆と逸れてしまい、非常に心細かった。陽が完全に落ちてしまう前に、せめて一緒にいた友人だけは見つけたくて、パルシーは震える足を叱咤するのだった。
右も左も分からぬ森を彷徨い、二日が経過してもパルシーは独りぼっちであった。しかし三日目にして、彼女はとある貴族の屋敷を発見する。闇雲に歩き続けて疲弊していたパルシーを迎え入れた貴族は、ラファ家と名乗った。中立の立場をとる彼らだが、困っている者に手を差し伸べるのは当然だと言い切り、友人の捜索にも快く力を貸してくれた。
ああ良かったと、安堵の息をつけたのも、友人が運ばれてくるまでのことであった。その時点でパルシーがラファ家に辿り着いてから、さらに三日が過ぎていた。ようやく再会した友人の右足は無残にも折れ曲がり、最悪なことに敗血症が進行してしまっていた。友人にはもはや助かる見込みがなかった。医術に通じるパルシーだからこそ、友人に残された命がもう幾ばくも無い事が分かってしまったのだ。
『…ねぇ。伝えたいこと、あるんやないの?』
意識が朦朧としている友人は、薄く目を開いたり閉じたりを繰り返していた。パルシーの声は届いていないのか、反応はなかった。
『好きとか、愛してるとか、言わんの?このままでいいの?』
身動きできない雪の中、それでも必死に生き伸びようと…そこまでして友人が逢いたかったのはパルシーではなく───
再三の問いかけに、とうとう答えが返ってくる。でもまだ少しだけ開いた瞳は、何処か遠くを眺めている。
『…お好きな、色も…「また」知らないままの、わたくしに…その資格は、ない…です』
資格なんかどうだって良い、あんたの想いを全部言ってやれば良い。それがパルシーの本音だった。けれども友人の言葉を否定せずに、パルシーは別の言い方を選んだ。
『…黙って置いていかれるのは、けっこう堪えるものやよ』
そう言うと、定まらなかった焦点がしっかりとパルシーを捉えた。高熱と涙で潤んだ瞳を見つめて、パルシーは力強く約束する。
『大丈夫。うちが伝える。必ず伝える。だから、信じて頼って?』
パルシーの手を握り返す力も無かった友人は、それでも最後に微笑んだ。弱々しい笑みと共に、パルシーへの感謝を口にする。それから一言、あのひとへの伝言を託したのだった。
『パルシー…ありがとう、ございます……』
初めから終わりまで、助けられてばかりだった。
前向きな姿勢にいつも元気を貰った。
誇りを持って医術に取り組む姿が、とても格好良かった。
そんな素晴らしいひとの友人であれたことが、本当に自慢だった。
夢うつつに語られる友人からの賞賛を、パルシーは嗚咽を噛み殺しながら聞いていた。
『…うちがしたのは、知識があれば誰にでもできること。でもエミマがしてくれたのは、誰にでもできることじゃないんやよ』
パルシーが言い終わる頃には、友人は目を閉じていた。だが恐らく、聞こえてはいたのだろう。彼女の口元はほんの僅かに綻んでいたから。
その後、意識の混濁が起き、友人はそのまま静かに息を引き取ったのだった。
ラファ家の当主は、屋敷に残っても構わないと言ってくれたが、パルシーは自らの意思でそこを去った。友人の最期の頼みを果たすため、その足で反乱軍の捕虜に戻ったのである。
エミマは"鬼中佐"について詳しく話すことはなかったし、パルシーも問い詰めたりしなかった。牢屋で向き合う光景を目撃した際、あの二人の間には特別な何かがあると、パルシーは察した。否が応でも理解させられた。
冷酷無慈悲な男のどこに惹かれたのか全く不明だったけれど、エミマが微笑んでいる限り、口出しはしまいと決めたのだ。結局、エミマは最後の最後まで微笑んでいた。だから、恨み言は言わない。どれだけこの男が怖くても、腹立たしくても、友人の想いを守りたいから。
「うちはエミマの伝言を伝えに来たんです」
乱暴に涙を拭ったパルシーは、果敢にニカノルを見据える。光が消え失せた彼の瞳は、まるで屍人のようであった。何もかもを拒もうとする態度は、パルシーの腹に据えかねた。彼女は語気を強めて告げる。
「ちゃんと聞いてください」
ニカノルの視線が緩慢に動く。それを見たパルシーははっきりした声で伝えるのだった。
『くれぐれも、ご自愛くださいませ』
伝えるべきことはもう伝えたからこれで良いのだと、エミマは儚げに笑っていた。
短くも、彼女らしい気遣いの言葉を受けたニカノルは、後退るようにして少し蹌踉めいたあと、素早く身を翻すのだった。
それを見送ったパルシーも、兵士に連れられて歩き出す。彼女が通った道には、足跡と涙の跡が点々と落ちていた。
(あの"鬼中佐"が人間らしい顔するなんて、思いもしなかった。エミマ、あんた本当にすごいなぁ。ひとの心を動かすって、医者にもできんのに……うちは…エミマのこと、助けてあげられなかったのに…ごめん。ごめんね…)
エミマは自慢の友と称してくれたが、パルシーは自分の無力さが憎らしかった。
一方ニカノルはというと、貸し与えられた一室に駆け込み、大きな音を立てて扉を閉めていた。木戸に背中を預けつつ、ずるずると座り込む。自分の吐息が煩い。なのに、息ができていないような酷い苦しさが付き纏う。
「………寒い…」
ニカノルの心は隙間風も通さぬほど、堅く閉ざされていた。そこへ吹いた優しいそよ風は温もりを運び、いつしか堅固な殻を溶かした。だがそれが止んだ今、あるのは空虚な穴だけだった。埋めてくれるものが無ければ、冷たい木枯らしにはとても耐えられない。
顔を覆おうとした右手に、何かが伝った。それは、とうの昔に流すことを忘れた涙。止め処なくあふれる雫に、ニカノルは目を見開く。
「どう、すれば…いいんだ…こんなもの…」
問いかけても、ふわりと耳朶を打つ穏やかな声音は聞こえてこない。
手を伸ばしても、柔らかな温もりに触れることはない。
求めても、優しい微笑みが返ってくることは、もうない。
本当は、彼女に深く想われているひとが、羨ましかったのだろう。
本当は、「ご主人様」ではなくて、同じように愛称で呼んでみてほしかったのだろう。
本当は、もっと一緒にいたかった。
「……どうして…こんな生き方しか、できなかったんだ…」
どうすれば良いかなど、とっくに知っていたはずだ。だって彼女が教えてくれたのだから。
───いつか思い出してくださいませ。『そうするだけで良い』のだと
エミマは言葉で、さらには自分自身の態度でもって、ニカノルに伝えてくれていた。彼女は逃げなかった。彼女は微笑み続けた。
だからニカノルもそうするだけで良かったのだ。万人に通用するかなんてどうだっていい。少なくとも彼女は、それだけで良かった。ただの一度でも微笑みを返していたら、いや、名前さえ呼んでいたらこんな結末にはならなかった。
「…これが、愛しいという想いか…」
寂寥が体を震わせ、悔恨が心を貫く。
知らない感情のはずだが、懐旧に通ずる切なさを覚えるのはどうしてか。記憶の遥かかなたで、似たような後悔をした気がしてならない。
強張った頰を濡らす透明の涙は、はらはらと落ちるのみ。ニカノルは今になってやっと、誰にも拭ってもらえぬ涙ほど、哀しいものは無いのだと気付いた。
(もし、再び逢えたなら…その時は、今度こそ君より先に微笑む。必ず。だからもう一度、あともう一度だけでいい。君に、逢いたい…っ───エミマ)




