始まりは檻の向こう
教皇を熱烈に支持する三大貴族のひとつ、バーチ家。その家の跡取りとして生まれた男児はニカノルと名付けられ、軍の将官を務める父親により、言葉を覚える前から厳格な教育が行われた。
バーチ家の教育内容を端的に表現するなら「非情」である。ニカノルには親子の情はおろか、表面的な褒め言葉すら与えられなかった。勝利と成功が当たり前、敗北と失敗は以ての外。それを至上主義とする父親は、息子の不出来に異常なほど厳しかった。単語の綴りを一つ間違えただけで、脳天が揺れる拳が飛んでくるのだ。気を失いたくても、次々と暴力が浴びせられ、その痛みによって意識を引き戻される。力づくで全てを従わせるやり方は、幼かったニカノルの心身に深い傷を負わせたのである。
一方、彼の母親は真逆を行く性格の持ち主だった。息子には一切合切、興味が無く、贅沢が好きで奔放な女性だった。悪びれることなく浮気を繰り返していたため、当然ながら夫婦仲は最悪。屋敷を留守にするばかりで、家族でまともに会話した回数など、片手で事足りるくらいだ。そのためニカノルは軍に志願するまでの十数年を、非情な父親と過ごさなければならなかった。
するとどうなるか。ニカノルは父親の影響を色濃く受け、自分の母親を憎むようになり、そして、冷酷無慈悲と呼ばれるに相応しい青年へと成長した。
厳しすぎる訓練の成果は、下積み時代から惜しみなく発揮された。模擬戦において相手を敗北に追いやる容赦の無さはすぐに有名になり、周囲からは恐怖の目で見られるようになった。また、若くして中佐の階級まで昇りつめたために、妬みの対象にもなった。彼に向けられる視線は常に、嫉妬と畏怖のみだったのだ。
ニカノルが二十歳を迎える直前に、後世で『統合大戦』と呼ばれる戦争が勃発した。バーチ家は教皇派に加担し、皇帝と対立。ニカノルも父親からの指示で剣をとり、帝都へ向けて進軍したのである。
父親はもう一つの密命を息子に与えていた。それは「皇帝ともども教皇を討ちとり、バーチ家に玉座を」という命令だった。ニカノルの父親は、教皇を支持すると見せかけ、自分が征服者として君臨しようと目論んでいたのだ。
その命令を、ニカノルは機械的に承諾した。彼の中に根付いた恐怖心は、父親に抗う気力を完全に削いでいたのである。だが、表向きは従順にしているものの、内心では母親と同じくらいに父親も嫌っていた。そもそも家族だとも思っていない。そして誰より、父親に逆らおうとすれば、途端に震え始める自分が心底疎ましかった。
どろりとした嫌悪に軋む心まま、ニカノルは立ち塞がる人間を斬り続けた。表情を動かさずに敵の血飛沫を浴びる様は、悪鬼そのものであった。
東西を分かつ谷を越えた先、そこで彼はひとりの娘と出逢う。
彼女はおかしな娘だった。ニカノルを見るなり、馴れ馴れしく「ニカ様」などと呼んできたのだ。
彼は母親が知らない男と寝ている場面を見てしまった経験から、簡単に体を売る女性が吐き気を催すほど嫌いなのだ。"冷酷無慈悲の鬼中佐"の異名が定着する以前には、この娘のようにニカノルに擦り寄る女性も少なからずいた。だから彼は、瞳を潤ませながら微笑む娘のことも、売春婦に違いないと考えた。他人の美醜に興味は無いが、いかにも男好きしそうな笑みに、ニカノルは体の芯がぞわりとした。捕虜の分際で近寄るなと言わんばかりに、彼は父親譲りの厳しい制裁を加えたのである。
それで終いのはずだった。
ニカノルも牢屋での出来事をすぐに忘れてしまった。他にやるべき事が山積みだったのだ。しかし、娘とは思いのほか早く、再び顔を合わせる羽目になる。
夜更け過ぎまで仕事が押し、執務室にこもっていた時のことだ。部屋の外から騒ぐ声が聞こえたので、苛立ちながら扉を開けてみれば、廊下で蹲る女性の捕虜を引っ張って行こうとする兵士がいた。捕虜を慰み者にするのはよくある話で、ニカノルも特に禁じてはいない。だが、この時は虫の居所が悪かった。仕事の真っ最中な上官を差し置き、部下は女遊びとは良い身分ではないか。腹立たしく思えたニカノルは、獲物を横取りすることにした。置いていけと凄めば、兵士は真っ青になって逃げ去ったのだった。
さて、横取ったはいいがニカノルは欲求不満でも何でもなかった。その気も無いのに抱くのは時間の無駄だ。ほとぼりが冷めたら、さっさと追い返そうと考え、彼は捕虜を執務室に引き入れた。
視界に入らない場所で黙っていろ、そう厳命すべく、俯く捕虜を上に向かせる。視線が交わること数秒、ニカノルはようやくその捕虜が件の娘であると気が付いた。直後、忘れていた嫌悪感がせり上がる。見れば、娘は男を誘う大胆な格好をしており、尚いっそうニカノルの不興を買った。ただし、娘に先日のような笑みは無い。
「本業に専念させてやろう」
相手が誰か判明し、気が変わった。こうなれば、とことん苦しめてやる。二度と近付きたくないと恐怖するくらいに。そんな思考に支配されたニカノルは、娘に口付けた。接吻というより、単に相手の呼吸を奪い取るためだけの行為であった。悪感情すべてをぶつけるかの如く、娘を乱暴に扱うニカノルだったが、彼女が悲痛な声を漏らした瞬間に、はっとなる。遅まきながら鞭打ちにしたことを思い出したのである。だが、彼が思い出したのは、それだけではなかった。
「…興醒めだ」
暴力による苦痛に悶える姿は、幼い頃の自分を彷彿とさせたのである。
父親に殴られ、蹴られては、必死に涙を呑んで悪夢のような時間が過ぎるのを耐えたものだ。その光景を思い出してしまっては、荒んでいた気持ちが一気に萎んだ。結局ニカノルは適当な部下を呼び、娘を執務室から閉め出したのだった。
ところが、次の日になっても気分は晴れなかった。いや、そのまた翌日、翌々日になってもだ。嫌な光景が蘇ったのがいけなかったのだろう。それに加えて、子供時代の自分と重ねてしまった娘のことが妙に引っかかる。気にしないように努めたくとも、無視するには違和感が大きすぎた。
ニカノルはいつになく苛々しながら、重い腰を上げた。目的は娘を捜すため。今頃、何らかの苦役に就いているだろう。だが、彼は娘がどこで働いているか把握しておらず、自分の足で捜して回らなければならなかった。それが余計、癪に障った。
それらしい理由をつけて渡り歩くこと、およそ一時間。ようやく娘を見つけた。彼女は馬小屋の隅に隠れていたのである。冷酷無慈悲な青年なら、怠け者に容赦などしなかったに違いない。しかし今日のニカノルは、娘の背中が赤色に染まっている事を分かっていた。鞭がもたらす痛みが如何程のものか、彼は身を以て知っている。見かけは縄と大差無いくせに、負う痛手は想像を絶するのだ。
だから、激しい痛みの中で他人を見過ごせと告げてきた娘には、目を疑った。今、その身体で再び罰を受ければ、どうなるかわかったものではないのに、彼女は他の捕虜のために頭を下げたのである。
ニカノルは、父親の怒りを買うのが何より恐ろしかった。自分の身を守ること以外、考えられなかった。この娘とて同じはずだった。歯向かう恐怖を文字通り体に刻み込ませ、意気地を砕いたはずだ。しかし、彼女はニカノルとは異なる態度をとった。それは極めて不可解で、彼はこの謎が解けるまでは、娘を生かしてやろうと考えるのであった。
期限付きであれ生かすと決めたのだから、勝手に死なれては困る。故に苦役の免除が終わった段階で、観察の意味も込めてニカノルは不可解な娘を呼びつけた。
彼が何から話すべきか悩む必要はなかった。娘は入室するなり「お礼を申し上げます」と静かに述べたからである。一瞬だけ目が合えば、彼女は微笑んだ。以前のような笑みではなかったが、確かに笑っているのを目にして、ニカノルはまたしても胸騒ぎに似たものを感じた。何の事かわからない、そう冷たくあしらうものの、彼女に怯んだ様子は無い。
「…ご主人様のご配慮のおかげで、傷はすっかり良くなりました。その事についての感謝です」
彼女の台詞に、ニカノルの胸はいっそう騒ついたのだが、彼には理由を見つけることができなかった。
「…貴様のためにした覚えはない」
「そうかもしれませんが、結果的にわたくしは助けられたのですから、お礼を申し上げるのは当然のことですわ」
「下らない事はいい。貴様が汚した場所を綺麗にしろ。気分が悪い」
「申し訳ありません。すぐに掃除いたします」
どれだけ辛辣に接しようが、理不尽な難癖をつけようが、娘はすべて微笑んで躱してしまい、何の手応えも感じられなかった。こんな事は初めてであった。
何故、恐れ慄かない。目の前にいる人間は気まぐれに拳を振るうかもしれないのに、どうして笑っていられる。
「…流石、売女は己を売るのに余念が無いな」
違うのなら、あの媚びた瞳で反論してみろ。恥知らずな自信を、完膚無きまで叩き潰してくれる。
そんな彼の思惑は、完全に外れてしまう。娘はただ、謝罪を口にするのみだった。
「わたくしの言葉を信じてくださるのなら、弁解します」
「誰が奴隷の言う事など信用するか」
「ですから、謝罪だけにいたします」
「………」
面と向かってこのような台詞を吐いてくる人間は、屈強な男にだっていなかった。蹴り飛ばせば折れてしまうような弱い身のくせに、どこから立ち向かう力が湧いてくるというのか。
その日が終わってみれば、謎は深まるばかりという、散々な結果であった。
折しも季節が移ろう頃。拮抗し始めた戦況に発破をかけるべく、教皇が巡礼を兼ねて来訪する旨が報された。当然、前線で指揮を執るニカノルのもとにも報せは届いた。彼がいる拠点は安全の確保に難があるため、教皇が訪れるのは少し手前の場所までとなる。勝手にやってくれと思っていたのも、父親からの書簡が届くまでの話であった。父親の命令を要約すれば「貢ぎ物で教皇の機嫌取りをしろ」とのことだ。貢ぎ物が何であるかは言うまでもない。
命令を遂行するのは、ごく簡単なことだった。教皇が好きそうな若い娘を選び、内密に届ければいいだけだ。部下に一言、指示すれば済む。けれどもニカノルは、たかがそれしきのことが不愉快で仕方がなかった。何が、と問われても上手く説明できない。父親の言いなりになるのが嫌というのもある。多分、ひと手間増えるのが煩わしいのもそう。でも、それだけではない気がする。
正体の分からない感情は付き纏うままだったが、彼は部下に指示を出した。
「明日の昼までに見目の良い娘を数人選べ。決まったら野営地に送れ。暴れるなら痛めつけても構わないが、場所は考えろ」
「はっ。了解であります」
見目の良いと言葉に出した直後、あの娘のことが思い浮かんだ。いつだったか、部下達が話題に上げていたのを小耳に挟んだのだが、彼らは娘のことを「すごい美人の捕虜がいる」とか「鞭で打たれても泣き叫ばなくて、なんかぐっときた」とか「俺ならこっそり恋人にする」とか話していた。その時は興味も無くて素通りしたのに、どうして今になって思い出すのか。
部下の言葉を借りるなら、あの娘は捕虜の中でも際立って美しい。教皇への"献上品"に選ばれるのは、もはや決定事項だろう。ニカノルにはその事が、何故だか無性に不快だと感じたのである。
悶々と考えた末、彼が至った結論は「不可解な謎を残したまま、手放すのは清々しない」というものだった。教皇へ渡したが最後、戻ってくることは決してない。何せ献上したのだから、それが道理だ。
しかし結論が出たのは良いものの、どうすればあの娘が選ばれるのを阻止できるのか。今から部下に彼女だけはよせと言うのもばつが悪い。というより、彼女を贔屓してるなどと周囲に勘違いされたら迷惑だ。となれば、顔に傷でもつけてやれば…いや、微妙な匙加減が案外難しいし、失明でもしたらどのみち処分しなくてはいけない。
考えあぐねたニカノルは、わざと病気に罹患させる手法をとった。寒空の下に放置しておけば、風邪くらい引くだろうと思ったのだ。それでなくてもあんな細身の娘、具合を悪くするに決まっている。
雨でも降ってくれれば丁度良かったのだが、生憎と綺麗な星空が瞬く晩であった。しかし風は冷たく、手と足に枷を嵌められた娘は寒そうに肩をすぼめていた。そこへニカノルは桶いっぱいの冷水を浴びせたのである。
不条理な処遇に対し、流石の彼女も笑うことを忘れたようだった。呆気にとられて立ち尽くす娘の足もとに桶を放り、ニカノルは立ち去った。一晩くらいなら死にはしない。人間は思いの外しぶといのだ。気を失いたくても、儘なならない程度には。
翌朝、様子を見に行くと、娘は青白い肌をしながら蹲っていた。のろのろと顔を上げてニカノルを見上げる眼差しに、やはり恐怖は見られない。それどころか、怒気すら向けられる気配がなかった。困惑しているような表情はあるが、それだけだった。
事は予想以上に上手く運び、娘は高熱を出した。さしもの教皇も病人と戯れたくはないだろうし、こちら側も病人を届ける訳にはいかない。あとは娘が回復すれば元通りだ。しかし捕虜を軍医に診察させるなんて論外である。そこでニカノルは同じ捕虜の中から世話役を募った。びくびくしつつも名乗りを上げたのは、栗毛の少女であった。
あんな小娘で大丈夫かと思いきや、栗毛の少女の看病は医者と比べても遜色無いものだったらしい。ニカノルが実際に見た訳ではないので、あくまで"らしい"なのだが、全快した娘の様子を見るに、間違いではなさそうだ。ニカノルは後日、執務室に娘を呼んでいた。目的は前回と変わらない。
「本日はどういったご用件ですか?ご主人様」
そして彼女もまた、相変わらずの微笑みを浮かべていた。変わった点を挙げるとすれば、手首にかかる鎖がやけに重たそうに映る事だろう。
(娼婦ではない…のか?)
売女と罵り、そう決めつけて疑うことをしなかったニカノルは、ここにきて疑念が揺らいでいた。娘の言葉遣いや仕草には品位がある。毒味をやらせた際の所作が良い証拠だった。とってつけたようなお粗末なものではなく、意識せずともできるよう、訓練されて身に付いたものだ。貴族の令嬢と考えた方がしっくりくる。現に、ニカノルに駆け寄ってきたのは、初めの一回きりである。以降は立場を弁え、楚々と働いている。
「靴磨きでもいたしましょうか?」
「媚びても無駄だと何度言わせるつもりだ」
相対する人間が取り入ろうとしているか否か、ニカノルにははっきり分かる。だから、娘が微笑んでいるのは単純に嬉しいのだと本当は分かっていた。だからこそ、ますます謎が増えるのだ。何を以って彼女は嬉しいと感じているのか、見当もつかない。
「媚態を示そうと、している事ではございません。命令を果たす事でしか、ご主人様への恩に報いることが叶わないからですよ」
「貴様にくれた恩など無い」
逆の立場だと仮定した場合、ニカノルなら相手に殺意を持つだろう。間違っても恩返しをしようなどとは思わない。
「いいえ。わたくしは、護っていただきました」
絶対に、微笑みかけたりしない。だってこんな…陽だまりのような眼差しは、家族にだって向けられた試しが無いのに。
「……何を勘違いしてる」
「勘違いだったとしてもです。わたくしは心から、感謝しております」
「………」
純粋な感謝など、初めてされた。
ニカノル自身、誰かに感謝を伝えたことがないのだから、当然なのかもしれない。えもいわれぬ感情が湧き出て、痒い感じがする。居たたまれない心地を誤魔化そうと手元を弄っていたら、袖のボタンから嫌な感触が伝わってきた。彼は立ち上がって娘に近付き「付け直せ」とぶっきらぼうに命じるのだった。
ニカノルは子供みたいな駄々をこねて娘を困らせた挙句、真剣に縫い直しているところに水を差した。彼女の肩先で揺れる紺碧の髪を摘んだのである。煩いのは厭わしいが、そよ風が止むのは落ち着かない、これは恐らく、そういうやつだ。彼は内心で意味のない言い訳をしていた。
「どうなさいました?」
きょとんとする顔は少し面白かったが、娘はすぐに表情を崩した。その気の抜けた面に、きっとつられたに違いない。でなければ「弁解くらい聞いてやってもいい」だなんて口走らなかった。
言われた言葉の意味をやや遅れて理解した娘は、目を丸くした後、僅かに眉尻を下げて笑うのであった。
「…わたくしの知るひとに、とてもよく似ておられたので。そんな事よりも、聞いていただきたい事がございます」
「…何だ」
あれだけの仕打ちを「そんな事」で片付けられるはずはない。少なくともニカノルならそうだ。けれども彼女には、自身を擁護するより重要な事があるらしい。まったくもって理解不能である。いったい何だと思えば───
「ただ微笑んでくださるだけで、良いのですよ」
なんだそれは、というのが正直な感想だった。脈絡が無いにもほどがある。今までで一番、不可解であった。だが、ニカノルは一瞬にして彼女から目が離せなくなったのだ。
「それだけで、貴方様の優しさはちゃんと伝わりますから。何を馬鹿なと思われるかもしれません。今は忘れてしまっても構いません。ですが、いつか思い出してくださいませ。『そうするだけで良い』のだと」
なおも紡がれる言葉。強い口調ではないのに、静かな音には煌めきがあった。その光に惹きつけられた事を、ニカノルはもう認めざるを得なかった。




