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E.O.617 届かない心

 凍えるような深い夜、エミマは反乱軍の退去が迫っていることを、パルシーにだけ打ち明けた。軍議の内容がエミマの耳に届いている事は、恐らくニカノルにもわかっていたはず。しかし彼は黙っていろとは言わなかった。仮に言われていたら、パルシーにさえ決して口を割らなかったが、彼も隠し通せる事ではないと考えたのか。


「…退去ってことは、西側の本拠地に行くんかなぁ」

「…恐らく。もしそうであれば、パルシーのお父様にも会えるかもしれませんね」

「…うん。会えなくても、風の噂くらい聞けるかもしれない」


 他の人に聞こえないよう、二人は小声で囁き合う。明日をも知れぬ世の中だ。父と娘が無事再会できる確率などわかったものではないが、パルシーは一縷の望みをかけているらしかった。

 何か言葉をかけようとエミマが唇を開きかけた時である。コツ…コツ…と踵の鳴る音が二人の耳を掠めた。同衾に呼ばれるにしては随分と遅い時間だが、見つからないに越した事は無い。起きていると悟られないよう、二人はほぼ同時に息を殺した。

 近付いてくる足音は、不意に止んだ。何故か胸が騒ついたエミマは、足音の主を見ようと薄目を開けた。


(…!…ニカ様?)


 頼りない月明かりしかないせいで、はっきりとは見えないものの、僅かな光が照らしたのは綺麗な琥珀色だった。

 もはや反射的に身を起こすと、隣でパルシーの驚く気配があった。けれどもエミマは無言の制止を振り切って、鉄の格子へと近付く。


「………」

「………」


 やはり見間違いではなかった。宵闇に佇むニカノルは、一つも声を発しない。しかし、常ならば逸らされる視線だけは、エミマに注がれている。そして、微笑みかけるのが常のエミマも、今は黙するのみ。

 やがて、長いようで短い沈黙は、解錠の音によって破られる。だが依然として言葉は無い。こちらを呼ぶのは視線だけで、エミマは開いた檻から一歩出ることによって応えた。直後、彼女を縛る鎖に手が伸びてきて、くんと引かれた。ニカノルに引かれるまま、エミマは足を進める。見張りの兵を退かしたのは彼だろうか。それなのに牢の鍵を閉めずに出てきてしまった。単に不用心なのか、退去が決定した今となっては最早どうでも良いのか。


 灯りの消された廊下を進むニカノルの歩調には遠慮が無かった。そのせいでエミマは小走りになってついて行かなければならない。揺れる度に無機質な音を立てる鎖が、耳障りに感じる。

 ここまできてやっと、エミマはニカノルを呼んだ。


「ご主人さ」

「煩い」


 ところが、彼女の意を決した呼びかけは、すげなく遮られてしまう。咄嗟に次の言葉を呑み込んだエミマに、ニカノルは足を止めて振り向いた。その顔には冷たい無表情が張り付いていたが、瞳がかち合った瞬間、エミマの胸に芽生えたのは強烈な違和感であった。


「もう喋るな。不快だ」


 険しい声で言い放った後、ひときわ強く鎖が引っ張られた。縺れるように飛び込んだ場所は執務室ではなく、彼の寝室と思しき部屋。大半が溶けた蝋燭の心許ない光が灯すのは、寝台と簡素な机。机上には何らかの書類が見える。

 寒々しさを感じる部屋の有様をぼんやり眺めていたら、突如としてエミマの手首から重みが消えた。忌々しい鎖が外されたのだ。彼女が我に返るより早く、残る痕を覆うかの如く固い手に掴まれる。弾かれたように顔を上げるのを見計らって、唇は奪われたのだった。激しい困惑のさなかに、今度は勢いよく突き飛ばされた。柔らかな寝具に受け止められたのも束の間、細い体が沈む。

 恥ずかしがる暇など与えられなかった。纏っていた服は剥ぎ取られ、その間にも口付けが落とされる。あっという間の出来事に、エミマはただされるがままになっている。それでも彼の冷えきった手が自分の肌を這うと、びくりと身を震わせた。

 エミマは経験こそ無いものの、この先の行為について無知な少女でもない。唐突なことに何が何だかというのが正直なところではあるが、拒む気は起きなかった。夫婦だった頃の記憶が、抵抗する力を弱めていたに違いない。ニカノルに触れられるのは当たり前の事と、無意識のうちに思っていたのだろう。

 そうは言っても、怖くはあった。全く感情を露わにしない彼がではなく、未知の感覚に対してである。固い掌の感触も、口の端から漏れる熱い吐息も全部、エミマにとって初めてのことだった。痺れにも似た凄烈な感覚に翻弄されぬよう、ぎゅっと目を瞑る。喋るなと言われたのに、気を抜けば嬌声を上げてしまいそうで、エミマは強く唇を噛むことで堪えるのだった。


 閉ざされた瞳を開けたのは、彼女の頰に雫が落ちてきたからであった。まさか泣いているのか。本来ならば泣きたいのは逆であろうに、エミマはニカノルを案じて彼を見遣った。

 彼は泣いている訳ではなかった。エミマの頰に当たったのは、額から伝った汗だった。けれども、零度の瞳に迷いの色があるのを、彼女は見逃さなかった。その途端、表情の無い彼の顔が、苦悩のために傷付いている風に見えた。そういえば、降り注ぐ眼差しも、触れる手も、重なる唇も、温度だけは冷たいものの荒々しくはない。少なくとも出会い頭のように、乱暴に扱われているとは感じなかった。

 無体を強いたはずの側が泣きそうな顔をして。不快だと評した相手を腕に抱く。なんとういう矛盾か。だがエミマにはその矛盾こそが、彼の心情そのものを表しているように思えた。

 エミマは自由になった腕をゆっくり持ち上げ、両手でニカノルの強張った頰を包む。

 伝えなければいけない事は、もう告げた。話したいことは沢山あるけれど、不快だと思われるなら声は吞み込もう。

 同じ姿、同じ名前、同じ声。しかし、ほんの僅かな差異が、エミマが焦がれる面影との重なりを阻む。故に、全く同じように愛することはできない。なれど、愛の形は一つではないのだ。特別な愛称で呼ぶことがなくとも、あなたを大切に想うこの気持ちが届けばと、エミマはあらん限りの願いを込めて微笑む。

 その刹那、ニカノルの目がこぼれ落ちそうなほど見開かれた。瞬いた拍子にエミマの眦から一粒の涙が転がったが、彼女が気付くことはなかった。




 これがニカノルに贈った、最後の微笑みだった。




 目を覚ました時、部屋にはエミマしか居なかった。適当に掛けられていた服を着込んで部屋の外に飛び出すが、その異様な静けさに寒気を感じる。自分の呼吸以外の音が、聴こえてこない。

 エミマは夢中で牢屋まで駆け下りる。牢屋の鍵は昨夜のまま開いており、そこには誰の姿もなかった。空っぽの牢を前にして、彼女は自分が独り置いて行かれたことを悟った。退去の明確な時刻を知らなかったとはいえ、幾ら何でも急すぎる。急に走り出したエミマは、とうとう膝をついて項垂れた。

 明らかな拒絶か、或いは、これも分かりにくい彼の優しさか。前者であっても後者であっても、彼の意向に沿うのが最善の行動かもしれない。今が帝都へ逃げる絶好の機会だ。きっと捕虜の幾人かは脱走したことだろう。ニカノルが同じようにする事を望んだのなら、エミマは逃げるべきだった。だが彼女が下した決断は、彼の背中を追いかける事であった。


(あのひとが帰ってくるのを待つだけなのは、もうやめたのです)


 背を向けるのは簡単で、立ち向かうのは難しい。

 夫となる青年に出逢うまで、戸惑いも、寂しさも、痛みも、幸福も。唯一無二の愛しさもすべて、エミマひとりでは知り得なかった。そう。独りでは、何も。

 だからいくのだ。たとえ邪険にされようと、あのひとが笑える、その日まで。


 戦場を彷徨う緊張感は付き纏ったが、雪が足跡を残してくれたおかげで、追いかけるのに苦労はしなかった。加えて、出立からそれほど時間が経過していなかったのも一助となり、夕暮れ前には軍隊の背中を見つけることができたのである。

 追いついたエミマを真っ先に見つけたのはパルシーだった。彼女は朝になっても戻って来なかった友人をずっと気に掛けて、何度も何度も後ろを振り返っていたのだ。逃げろと言われて逃げるような友人ではないと、パルシーにはわかっていた。


「まあ、勿体ないことするなぁとは思うけど。一緒で嬉しいっていうのも本当やから」


 仕方がない、といった感じでパルシーはエミマを迎える。


「この森を抜けたら野営するらしいから、もうひと頑張りやよ」


 頼れる家族がいないというのも、友人と一緒行きたいというのも、エミマの本心には違いない。けれど、それだけが理由ではない事も、パルシーは昨晩目の当たりにしたから知っているのだ。


「…詳しくは聞かんけど、大丈夫なの?」

「はい。少し疲れは感じますが、まだ平気です」


 パルシーの心配は尽きないが、友人の足取りは重くなかった。無理はしてないと判断するも、パルシーは歩幅を小さくした。捕虜は隊列の最後尾に並んでいるので、多少遅れても問題は無い。


「少なくなりましたね…」

「うん。鍵は開いてたしね。敵さんも、居ない方が都合が良かったんやない?食糧とか足りなくなりそうやし」


 捕虜の数はかなり減っていた。逃げる体力のある者は、隙を見て出て行ったらしい。とはいえ、列の先頭は辛うじて見えるくらいである。あの綺麗な琥珀色は、遠くに霞んで見えた。けれど、エミマが追い付くことができたのは、ここまでであった。

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