E.O.616 指先に触れる真
家を留守にするばかりだった夫は、彼なりに妻を護ろうとしていた。当てもなく外をぶらついていたからこそ、自分や妻への批判を耳にすることもあっただろう。だから、父親が義理の娘に良からぬ事を企んでいる事も見抜き、遠ざけようとしてくれた。独り残される妻のため、自分の死までも最後の砦にしてくれたのだ。そういう形でしか優しさを表せない、愛しいひとだった。真実を掴んだ時にはもう遅く、想いを伝える相手はこの世にいなかった。
(決して忘れてはいけませんでしたのに…)
苦痛を受けたのは確かである。特に理由も無く水をかけられた挙句、寒空の下に放置されたのだ。傍目から見れば、酷い扱いに違いない。けれども彼女は知っているはずだった。ニカノルという青年が奥深くに秘めている優しさを、エミマだけは憶えていなければならなかった。全く同じ"ニカ様"ではないけれど、全部が全数、違う訳でもないのだ。
「ちょっとエミマ、大丈夫?」
「…はい。少し、びっくりしてしまっただけです」
パルシーが心配そうにエミマを見つめている。どうやら教皇への"献上品"になった娘達は、脱走できないように足を折られたらしい。くぐもった絶叫を聞いた者がそう証言したのだ。エミマは小さな微笑みの裏で、予想を確信に変えていた。
彼のとった行動が、好意によるものなのかは定かではない。たとえ違ったとしても、ニカノルが護ってくれたという事実が、エミマは純粋に嬉しいと思った。
その日の午後、エミマは中佐の雑用係として、再び執務室へと呼ばれた。急ぎではない雑務を命じるためだけに、彼もわざわざ時間を割いたりしないだろう。これは恐らく、エミマの健康状態を、彼自身の目で確認したいが故なのだ。思い返せば前回も、やたらと体を動かす雑用を仰せつかった。エミマの背中の傷を気にしていたのではないかと、今ならそう捉えられる。
執務室に入るなり、昔から滅多に合わさる事のなかった視線が向けられた。エミマの考えた通りのようだ。わざわざ「大丈夫か」と訊かれなくても、彼の瞳が雄弁に語っている気がする。
(…なんて思うのは、流石に都合が良すぎるでしょうか)
でもきっとエミマの知るニカノルならば、不器用さと遠回しによって、本来の優しさを覆い隠していたに違いない。
「本日はどういったご用件ですか?ご主人様」
険しい形相のニカノルから指示されたのは、部屋を隅々まで掃除することだった。それから昼食を持ってくるよう言われ、更に毒味まで命じられる。彼に言われるがまま、エミマは逆らわなかった。その全てをやり終えた後、彼女は再び彼に尋ねた。
「靴磨きでもいたしましょうか?」
エミマのにこやかな提案に、彼は眉間の皺を深くしたのだった。
「媚びても無駄だと何度言わせるつもりだ」
「媚態を示そうと、している事ではございません。命令を果たす事でしか、ご主人様への恩に報いることが叶わないからですよ」
「貴様にくれた恩など無い」
エミマはニカノルを見つめながら、そっと口元を綻ばせる。
「いいえ。わたくしは、護っていただきました」
「……何を勘違いしてる」
「勘違いだったとしてもです。わたくしは心から、感謝しております」
「………」
早々に目を逸らしたニカノルは、「勝手にしろ」と刺々しく呟いた。それに対してエミマは、ますます嬉しそうに笑うばかりだった。その時不意にニカノルは立ち上がり、エミマに近付いてきた。というのは間違いで、彼は部屋の真ん中に置いてある長椅子にどかりと座り直す。何事だろうかと不思議に思うエミマに、これまたいきなり腕が突き出された。
「付け直せ」
「…?あっ。はい、かしこまりました」
よく見たら、右袖のボタンが取れかかっている。これを縫えという事か。エミマは急いで裁縫道具を取りに走り、息を切らせつつ彼の隣に腰を下ろした。しかし彼が身動きしないので、戸惑いがちにエミマは声をかける。
「えっと…上着を貸していただかないと、縫うことができませんが…」
「面倒だ」
普通の服と違い、軍服の脱ぎ着は少々手間なのだろう。それは分かるが、はいそうですかとは言えない。
「針が刺さってしまいますわ。せめて片腕だけでもお願いいたします」
「…なら、貴様がやれ」
投げやりに告げたきり、ニカノルは動く気配が無いので、エミマは仕方なく彼の正面に回ってボタンを外し始める。自分の服でやるのとは勝手が違い、やや手間取ってしまったものの、何とか片腕だけは脱がせると、エミマはようやく裁縫針を持てたのだった。
黙々と針を動かしていたエミマだが、自分の横髪が摘まれるのを感じ、おっかなびっくり顔を上げた。もちろん、短くなった髪に触れていたのはニカノルである。瞬きも忘れるくらい驚いたものの、彼女はすぐに「どうなさいました?」と微笑みかけた。
「……今なら、弁解くらい聞いてやってもいい」
「え……?」
一瞬、彼が何を言いたいのか理解できなかった。だが弁解という単語に、少し前のやりとりが耳の奥で蘇る。
『弁解も無しか』
『わたくしの言葉を信じてくださるのなら、弁解します』
エミマは目を見開き、それから優しく細めた。胸の奥がじんわりと温かくなって、なんだか泣きそうになる。
「…わたくしの知るひとに、とてもよく似ておられたので。そんな事よりも、聞いていだたきたい事がございます」
「…何だ」
息を吸い込んだエミマに、いつもの微笑みは無い。彼女はひたすらに、ニカノルの瞳の奥を見ていた。
「ただ微笑んでくださるだけで、良いのですよ。それだけで、貴方様の優しさはちゃんと伝わりますから」
「………」
怪訝そうにするニカノルは、意味がわからないとでも言いたげだった。それでもエミマは言葉を紡ぐ。
「何を馬鹿なと思われるかもしれません。今は忘れてしまっても構いません。ですが、いつか思い出してくださいませ。『そうするだけで良い』のだと」
エミマが教えたのは、なにも大したことではない。ごく普通なこと、至って簡単なことだ。でも、それさえ知らずに深く嘆いたひとの姿が、彼女の瞳に焼き付いている。そんな哀しい顔は、その顔だけはもう二度と見たくなかった。当たり前のように笑っていてくれれば、それ以上は望むまい。
彼女がそこまで伝えた時、ちょうど彼の部下が夕食の時間を報せに扉を叩いた。
「夕食もお持ちしますか?」
「……もういい。戻れ」
「…わかりました。失礼いたします」
おかしな娘と思われたかもしれない。だが元々、売女と蔑まれているのだ。今更、落ち込むことでもなかった。
どこかすっきりした顔で戻ったエミマであるが、パルシーから大丈夫なのかと詰め寄られて、きょとんとするのだった。
「"鬼中佐"に呼ばれて戻って来ないから、どうなったかと思ったやん!」
「どうもしませんでしたよ?」
「エミマは呑気すぎ!また鞭で打たれたらどうすんのっ」
懇々と鬼中佐の冷酷さを説けども、エミマには響きやしない。危機感の欠片も無い友人に、パルシーは業を煮やすのだった。
当初、反乱軍が優勢に見えた戦争は、刻々と状況を変化させていた。冬の到来を合図に、皇帝側の勢力が押し返し始めたのである。
その影響はエミマ達のいる拠点にまで及んだ。戦いの最前線が近付いた事により、負傷した兵士の数が毎日のように運び込まれていた。それこそ捕虜の手を借りなければ、人員が不足するほど深刻な状態だった。
つい先日、エミマとパルシー他数名は怪我人の世話を任された。といっても主だった治療は軍医が行い、エミマ達がするのは簡単な世話くらいである。何故なら彼女達は敵だからだ。治療するふりをして反乱軍の兵士を殺す事が想定できたため、命に関わるような仕事は任されなかった。
医術に詳しくないエミマはそれで良かったが、パルシーは他の捕虜から唆されることもあった。分からないよう殺せ、あなたならできるでしょう、と。自分の家族が殺された人間にとっては、こんな状況に置かれて心穏やかにいられるはずがない。パルシーとて、一家がばらばらになり、安否すら不明なままなのだ。気持ちはよく理解できただろうに、彼女は医術に関して一切の妥協をしなかった。
「まだ医者やないけど、医者になった時、恥じる自分でいたくない」
そうきっぱり言って断る友人をエミマは横で見て、感銘を受けたのだった。
捕虜の中にはこっそり手を抜く者もいた。しかしエミマとパルシーだけは、誰を相手にしても手を尽くしたのである。
連日続く軍議はいよいよ激しさを増し、エミマ達のいる医務室にまで届くほどだった。しかし、騒ついているのは兵士達だけではない。夜の牢屋内でも同様であった。
このままいけば、恐らく戦況はひっくり返る。その機に乗じれば、脱走できるのではないか。忌まわしい手枷を壊す好機ではないか。
微かな希望が灯り始めた牢の中で、エミマとパルシーは沈黙を保っていた。エミマは元より、ニカノルから逃げるつもりはない。再び出逢えた奇跡を、自ら放棄するなど以ての外だったのだ。加えて、敵を治療したことが重くのしかかってきた。運が悪ければ、皇帝側に裏切り行為と見なされかねない。だからパルシーにも逃亡する意思は無く、どちらかと言えば諦めに支配されていたのである。
「そのくらい、覚悟の上やったよ」
「わたくしはパルシーのこと、誇らしく思います。貴女ほど立派なお医者様はいません」
「ありがとう、エミマ。でもお医者様はまだ早いわ」
毛布とも呼べぬ薄い布にくるまりながら、二人は笑い合った。
それからほどなくして軍議の内容は、拠点を破棄するか否かについてに移り変わった。そしてとうとう退去の決定が下されるのを、エミマは一足先に聞いていた。このところ前線に赴き、拠点を留守にしていたニカノルが、その日は会議のために戻っていたのである。執務室の掃除をさせられていたエミマは、近くの部屋で行われる会議の声を漏れ聞いてしまった。そういう訳で、反乱軍が此処から退去するのを知ったのだ。
実のところ彼女は、捕虜の一人から牢屋の鍵を盗み出せないか、頼まれていた。執務室のどこに何が仕舞われているか、大凡は把握している。本当に牢屋の鍵かはさておき、在り処ならエミマは知っていた。しかし彼女にはニカノルを裏切るような真似はどうしてもできなった。捕虜達の助けになれないのは心苦しかったものの、この分であればいずれ逃げ延びる機会は訪れるだろう。
そのうち、会議を終えたニカノルが戻って来た。彼は綺麗に掃除された部屋を見渡した後、淡々ともう戻るように言っただけであった。今日は彼と一度も視線が合わない。退室する間際、エミマは静かに問うた。
「…わたくしに何か…できることはありませんか」
問いかけに対する返答はおろか、一瞥すら無いままだった。




