第9話 林冲、暴れる
一週間後、妻への贈り物を購入した林冲は家路についた。
妻の喜ぶ笑顔を想像して自然と緩む頬。けれど家に着いた林冲が目の当たりにしたのは、荒らされてガランとした家だった。
「貞娘!!」
妻の名を叫び林冲は、家中を引っ繰り返す勢いで探す。けれど妻の姿はどこにもない。
強盗に襲われて殺されたのではない。だとすれば攫われたか。
そのことに思い至った林冲は、蛇矛を掴み家を飛び出した。そして林冲の家をじろじろと見ていた野次馬を見つけると、首根っこを掴んで壁に叩きつけた。
「おい! お前!」
「お、お許しください林教頭! と、止めようとは思ったのですが相手が……」
「事情を知っているんだな? 言え! 何があった!?」
「つい半刻ほど前です! こ、高太尉の部下が手下をぞろぞろと引き連れてきて、奥方を強引に連れて行ってしまったのです! 相手が相手だけに通報するわけにもいかず……」
「高球だと? 糞がっ!」
野次馬を解放すると林冲は真っすぐ高球の屋敷がある場所へ走った。
相手が皇帝の寵愛を受ける太尉だとか、そんなものは頭から吹っ飛んでいた。
林冲の頭にあるのは『高球をぶち殺す』。それだけであった。
王進が旅立って暫くして、梁山泊の宋万から手紙が届いた。
手紙には梁山泊の現状や、王進のことについて書かれている。どうやら王進は梁山泊にいた史進という若者を見出して、直弟子にとったらしい。
あの王進が弟子に選ぶくらいだから史進なる若者には才能があるのだろう。宋江は史進の存在すら初めて知ったわけだが、今から史進がどのような成長をするのかが楽しみであった。
「そういえば公孫勝さんの異動。もう直ぐですね」
都を歩きながら隣にいる公孫勝に話しかける。
今日は二人とも非番で、これから妓楼へ向かうところだった。
「ああ。王倫のような男をちゃんと重用していることといい、この国が腐敗しているのは明らかなんだが、それでもギリギリのところで健全さを保っているな」
「陛下は少々アレですが、根は善良ですからね。高球たちも表立って悪行を働くことはできないのでしょう。陛下の良心がそのまま宋の良心となっているのです。
世間知らずなせいで、悪政を悪政と気づかず実行しているところもありますが」
「俺はああいう世間知らずなところも含めて好きなんだが、それは女としての魅力であって、皇帝としての魅力ではないからな。もっと視線を広げて、現実を理解してくだされば、名君にもなれる可能性は秘めていると俺は思う。そう信じたいだけかもしれんがな」
「皇帝になるべきではない人が皇帝になってしまったが故の悲劇ですね。ただの皇族であれば陛下も平和にすごせたでしょうに」
「俺がもっと早く陛下という女に気づき、山を降りてきていれば、高球の如き愚物を近づけはしなかったものを」
公孫勝は苦々しげだ。皇帝のことが好きで、その寵愛を得るために山を降りたという生臭道士・公孫勝。
けど彼の性根は外道ではなく、国の腐敗を憂う心くらいは有していた。
「ところで話は変わりますが公孫勝さん、これから行く妓楼についてですが」
「ふふふふ。所属している妓女に期待しているといい。俺の調べではあの店の質はこの開封府でも一番だ。外れは少ない。まして科挙官僚が客となれば、お茶引き女など出されないさ。まして常連の俺の紹介があるとなればな」
「……本当に俗物ですよね、公孫勝さん」
道士といえば酒肉のない精進料理を食べ、女などはご法度というイメージがある。
だというのに公孫勝ときたら肉は食うわ、酒は飲むわ、妓楼には通うわでやりたい放題だ。
「あ、宋江殿。これから行く店に俺の馴染みの李師師という遊女がいるが、彼女には入るなよ」
「分かってますよ。友人の馴染みに入るなんて、余計な揉め事を起こしたくありませんし。しかし公孫勝さんが執心するということは、そんな良い女なんですか?」
「顔も体も、教養も技も極上。開封府一番の妓女だ。だが俺があの女に入れ込むのはそういう理由じゃない。あの女は――――」
「しっ! 公孫勝さん、静かにっ」
開封府の民衆がにわかに騒ぎ始めている。悲鳴のようなものも聞こえるので只事ではない。
こういう時に頼りになるのが公孫勝だった。
「どれ。俺が千里眼で見てみよう」
千里眼とはその名の通り千里の先まで見渡す道術だ。
道士としての素行は0点でありながら、使う術のほうはイカサマなしの本物である。
「――――ッ!?」
「どうしました公孫勝さん! 何が見えたんです!?」
返答がわりに公孫勝が宋江の腕を掴む。すると宋江の脳内に直接公孫勝の視界が流れ込んできた。
広がるのは道にぶちまけられた一面の赤。断末魔の恐怖を張り付けたまま死んでいる官兵たちと、現在進行形で新たな死体を量産する狂戦士であった。
その狂戦士を宋江は見たことがあった。
話したことはないが、禁軍の教練を見学した時に遠目で見た。
「あれは……血に濡れて鬼のような形相をしてますが、禁軍槍術師範の林冲さんでは!?」
「転がっている死体の何人かにも見覚えがある。あれは確か高球の子飼いだったはずだ」
禁軍槍術師範が、殿軍太尉の子飼いの兵士相手に大立ち回りを演じるなど、なにをどう考えても異常事態だ。
どう行動するべきか図りかねていると、髭を生やした巨漢の和尚が駆け付けた。
「くっ……! 林冲……っ! 間に合わなかったか!」
「そこの明らかに破戒僧な和尚。私は宋江、字を公明という官吏です。事情を知ってるのですか?」
「むっ。あの及時雨・宋江か! こんな時でもなければ天下の義人と酒でも酌み交わしたかったが、今はそんな場合ではない。要点だけ言うと林冲の妻に横恋慕した高球が、林冲の留守中に強引に妾として連れ去ったのだ!」
「高球め、なんて奴だ!」
公孫勝が反射的に壁を殴りつける。
高球が悪辣な下種なのは王進の一件で知っていた。だがここまで公然と外道を行うほどとは思わなかったのだ。
「不味いですね。いくら豹子頭・林冲が宋国一の槍の達人であろうと多勢に無勢。このままではいずれ力尽きて討ち取られるか、捕縛されるだけです」
「それが高球の狙いなのだ。林冲が犯罪者として逮捕されるか殺されるかすれば、他人の妻を略奪したことを糾弾する者もいなくなる」
ああやって林冲が暴れているのも、恐らく高球配下の兵が妻を攫ったことを持ち出し、挑発でもしたのだろう。
例え全面的に高球に非があろうと、林冲に手を出させてしまえば後は高球の独壇場だ。因果を入れ替えて、全てが林冲のせいだったということになるだろう。
「泣き寝入りするならそれで良し、暴発するなら犯罪者として処断。正当な手続きで訴えられれば賄賂の出番ですか。反吐が出る」
「高球やその手下が何百何千死のうと爽快なだけだが、林冲ほどの豪傑がむざむざ死ぬのを見ていることもできん。宋江殿、貴方はどうする?」
公孫勝が問いかけると、魯智深も宋江を見定めるように見た。
宋江は「考えるまでもありません」と言うと、
「林冲さんを説得しますよ」
林冲が暴れている場所に向かい走り出した。