第8話 林冲、幸福を噛みしめる
王進が開封府を出立してから一か月ほどが経った。
禁軍総師範・王進の出奔。このニュースが開封府の話題の中心であったのは三日ほどである。四日後には別のセンセーショナルな話題に中心を掻っ攫われ、一週間も経つと話題に上ることすら稀になった。
宋江の読み通り王進がみっともなく逃げだしたと思ったことで、高球の矮小な復讐心も満足したらしく、追手が放たれることもなく、都は表面上は平和である。
そう表面上は、だ。
徐寧は公孫勝が王進を見送った時に呟いた言葉を忘れることができなかった。
『宋はまた一人、人材を失ったな』
王進が逃げてこの件は片付いたが、問題の根っこは手つかずだ。
高球は未だに殿軍太尉という高位にあり、権力を欲しいままにしている。高球よりかは幾分まともだが、彼と共に四奸と呼ばれる佞臣たちも侮れない。
今後も同じような事件が起きて、その度に宋から人材が去っていけば、後に残るのは暗愚な皇帝と佞臣ばかり。
宋国滅亡。
そんな不吉な想像が脳裏をよぎった。
「どうした徐寧。不景気な面して街を歩くなんてらしくねぇぞ」
ふとかけられた声に俯いていた首をあげる。
徐寧の前には精悍な武人が立っていた。豹の如くしなやかに引き締まった体躯の堂々たる美丈夫である。
それは徐寧も良く知る人物だった。
「林冲!」
「おうおう。そんな大声で人の名前叫ぶなんて本当どうした?」
愛用の蛇矛を振るえば一息に十人を叩きのめし、槍術に限れば王進すら超えて宋国に並ぶものなしと呼ばれる達人。とった渾名は豹子頭。それが宋国禁軍槍術師範・林冲だった。
金鎗術師範の徐寧にとっては同僚である。
「なに。らしくなく国の行く末について思うところがあってな」
「……本当にらしくねぇな」
「ふっ、違いない。これまで私は自分の職務について考えるばかりで、政治やお国のことなど他人事と見てきたからな。だが自分の身近に政治の腐敗の足音が聞こえてきたら流石に考えざるをえんよ」
「王進殿のことか。高球みてぇなのが太尉になるのが不幸なら、あんなのに関わりを持っちまったことも不幸だ。
都を出て今頃なにをされているんだろうな。ご無事だといいが」
「……きっと無事だ。どこかで元気にやっているさ」
王進が梁山泊へと逃げたことは、あの場にいた者たちだけの秘密。よって徐寧は真実を言わずにはぐらかした。
「そういえば林冲。王師範の次の総師範の人選について聞いているか?」
このまま王進のことを話しているとボロが出るかもしれないので、徐寧は話を変える。
「さぁ。たぶん其々の教頭の中から繰り上げになるんだとは思うが」
自分にも関わる話題だというのに林冲は興味がなさげだった。
「私や他の教頭は、お前が選ばれるんじゃないかと噂しているぞ」
「……そりゃ、気乗りしねぇ話だ」
「出世が嫌なのか?」
「上にいけばいくほど高球みてぇな野郎と距離が近くなるじゃねえか。今の地位で十分だよ」
気持ちは分からないでもない。
王進がああいう目にあったことを思えば、明日は我が身と出世することを躊躇うのも仕方のない事だ。
(だが林冲は王進殿の事件がある前から、出世には興味を示してこなかった。天下一の槍の達人で、今張飛とまで謡われた男は、この世にあってなにを考えているのだろうな)
それから二言三言ほど話して、徐寧は林冲と別れる。
林冲の去っていく後ろ姿からは、やはり彼の心情を読むことはできなかった。
徐寧は林冲に深い考えがあるようなことを思っていたが、結論から言うとそれはまったくの見当違いである。
林冲が出世に興味を示さない理由は至極単純。仕事が増えて、家に帰る時間が遅くなるからだ。
「おかえりなさい、林冲」
「おう、ただいま」
林冲を出迎えたのは結婚して二年目になる愛妻の張貞娘である。
まだ子供はいないが近所でも仲睦まじいことで有名の夫婦であった。
「アンタの親友の和尚がきてるよ。早く行ってやりな」
「本当か!?」
妻にそう言われた林冲は腰に下げていた剣だけ押し付けて、すっ飛んでいく。
大人二人分の体積をもつ巨躯に、綺麗に丸めた頭と正反対の黒々と生えた髭。不良和尚そのものの外見をした男が食卓で酒を飲んでいた。
彼は魯智深。禁軍師範と破戒僧という身分を超えた、林冲にとって無二の親友であった。
「すまんな林冲。既に始めさせてもらってるぞ」
「構わねえ構わねえ。アンタが酒を飲まずにじっと待つなんてできねぇことは知ってる。どれくらいぶりだ?」
「丁度一年だ。今回は南のほうへ行ってきた」
「南はここより豊かだときくが、そりゃ本当かい?」
「土地は豊かだったさ。だからこそ搾取する金も物資も多いがね。性質の悪いヤクザ者や悪徳商人がわんさかいて民を苦しめていた」
素行の悪さで破門されてから、魯智深は気ままな世直し旅を繰り返している。そして悪党がいれば、得物である巨大錫杖で頭を叩き潰して回っているのだ。
話ぶりからして南方でも何人もの人間の頭を潰してきたのだろう。
林冲は魯智深の対面に腰を下ろすと、魯智深の旅の話で盛り上がる。やがて妻も話に加わり、家にあった酒はみるみる減っていった。
酒を飲みながら日付を確認する。林冲にとって一番大事な記念日まであと一週間だった。
「貞娘」
「なんだい?」
「一週間後の記念日に、お前に贈り物をしようと思う。なにか欲しいもんはあるか?」
「おい」
魯智深に小突かれる。
「いかんぞ林冲。そういうのはわざと知らぬふりをしておいて、当日にぱっと出して驚かせるのが情緒的というものだぞ」
「そういうもんか? 俺はなんでもはっきり伝えたほうがいいと思うがね」
「……ふっ。確かにそれも林冲らしくはあるな」
「ええ、こういう人なのよ、うちの旦那」
林冲には何が可笑しいのかさっぱり分からなかったが、魯智深と貞娘の二人は笑い転げていた。
もう一口酒を呷る。さっきより少しだけ美味い気がした。
(愛する妻に、なんの遠慮もなく酒を酌み交わせる親友。これ以上になにを望むものがある)
幸せというのは、欲するものがないほど満たされた時の事をいうものだと、前に林冲はどこかで教わった。
だとすれば今の林冲は間違いなく幸せであった。