第7話 王進、都を去る
禁軍には分野ごとに師範が置かれている。例えば除寧は金鑓術の師範であるし、その同僚の林沖は棒術師範だ。
彼らは全員が宋国軍において最高の武人達であり、軍を率いる将軍ですらが彼らに一目置くほどである。逆に文官からは『ただ腕っ節が強いだけの輩』と見下されている節はあるが、それは置いておく。
さて王進である。王進は師範代の中でも総師範、全ての師範たちの頂点に立つ人物だ。それはつまり宋国の武人達の頂点に立っていることであり、彼が宋国最強と謡われる所以でもあった。
「お初にお目にかかる。王進と申す、宋江殿の噂はかねがね」
宋江たちが対面した王進は、初老の紳士だった。
最強の武人という言葉からイメージされる荒々しさはなく、年齢を重ねて得た悟りのようなものを感じさせる。しかしある程度武術を修めた者なら、何気なく立っているだけのようでいて、針の穴ほど隙を見せていないことに気づくだろう。
四方八方から百人のチンピラが襲い掛かったとしても、一分とたたずに片付けてしまうはずだ。
「こちらこそ初めまして王進殿。宋国最強と謡われる禁軍師範殿とこうして会話する機会を得て光栄です」
「師範、か。いつまでもそう呼ばれる身分でいられるかは分かりませんがな」
「どういうことです? 禁軍にはここにいる徐寧や、噂の林沖のような若手の有望株はいますが、王進殿もまだ現役引退を考える年ではないでしょう」
そう疑問の声をあげたのは公孫勝だった。
老いて益々盛んという故事はあれど、人間は老いには勝てぬもの。それは王進も例外ではない。体力のほうは全盛期より衰えているだろう。
だが技量のほうは寧ろ経験により研ぎ澄まされているし、そもそも師範の仕事は人に教えることであって、ただ強ければいいというものでもない。王進が辞めなければならない理由などはどこにもなかった。
「わしもまだまだ若い者に負けるつもりはない。林沖などは槍を使わせれば既にわしを超えておるが、教え方がちと荒っぽすぎる。あれじゃ余程根性のある奴でもなければ、ついていけんだろう」
禁軍師範の仕事は軍全体の教導で、意欲もあって才能のある者に全てを叩き込めばいいというものではない。意欲もない凡庸な者を一定水準にまで引き上げることこそが重要だ。
王進の目からみて林沖はそういう能力が低いようにみえたのだ。
「ではなぜ辞めるなどと」
「宋江殿、公孫勝殿。二人は高球を知っておるか?」
「知らないはずがないでしょう」
「宋江殿に同じく。都じゃ有名人だ。悪い意味でだが」
高球は最近になって軍の最高位である太尉となった人物である。
この男は元々は都では(悪い方向に)そこそこ名の知られたチンピラで、仲間たちと小さな悪事を繰り返していた。だがこの男が蹴鞠の達人であったことが、高球自身と宋の運命を大きく変えた。
当時まだ皇帝ではなかった徽宗に蹴鞠を披露する機会を得た高球は、たちまちのうちに気に入られ、徽宗が皇帝に即位すると大いに取り立てられることになった。更に高球は蹴鞠のみならず芸術面にも才能を発揮。皇帝である以上に芸術家の徽宗の寵愛はますます強くなった。そして遂には軍の最高位にまで上り詰めてしまったのである。
「まったく世も末ですよ。なんの実績も能力もなくても、皇帝の寵愛さえあれば高位につける。そんな悪しき例を作ってしまったんですからね。今の陛下は本来皇帝になるような御方ではなかったといいますし、帝王学も学んでこられなかったんでしょうねえ」
この場に信頼できる者しかいないことをいいことに、宋江は不敬罪物の発言をする。咎める者はいなかった。
もっとも公孫勝は「その愚かさが可愛いんだがな」などとドン引きの発言をしていた。こちらも咎める者はいなかったが、呆れていた。
「だが高球が太尉になったことと王進殿とどう関係があるのだ?」
「公孫勝、チンピラ時代の高球が一度逮捕されたことは知っているか? それを逮捕したのが王進殿のお父君だったのだ」
「!」
徐寧が溜息とともに言った事実に宋江と公孫勝の表情が強張る。
「わしの父はとうの昔に他界したのだが、高球の奴め。昔の腹いせにわしを脅してきおった。詫びとして一万貫を持って来い、とな」
「法外な額だな、死ねと言っているようなものだ」
禁軍総師範というが別に莫大な給料を貰っているわけではない。例え全財産を売り払ったところで一万貫など支払えるはずがなかった。
金が欲しいわけではない。高球は王進のことを散々に貶め苦しめて、手前勝手な逆恨みを晴らしたいだけなのだ。まったく救いようがない男である。
「王進殿ほどの御方の危機とあれば、一万貫くらいはどうということはありません。必要なら王進殿にお渡ししますが……」
「待たれよ宋江殿! わしは、そのようなつもりで貴方に相談したのではない!」
「分かっています。高球の目的は王進殿への復讐です。一万貫を渡したとしても、どうせもう一万貫寄越せと言ってくるのがオチでしょうからね」
なにより自分の金が高球のような下衆の懐に入るのも、宋江には気に入らなかった。
王進のためならば一万貫などまったく惜しくはないが、高球のためには米一粒すら惜しい。
「その通りだ。宋江殿は困った人々に多くの助言を与えてこられたという。わしにも一つ道を示してはくださらんか。
わし一人だけなら死ぬまで意地を通したが、わしには老いた母がいるのだ。母を一人残して死ぬ親不孝はできぬ」
「そうですね……」
宋江は暫し考える。
徽宗のお気に入りである高球相手では、法律などは役に立たない。例え高球が行っている数々の不正の確固たる証拠を掴み提出したところで、皇帝の鶴の一声で無罪放免だ。
方々に賄賂を贈って高球を失脚させるのも難しい。宋江によって宋家の財産は莫大なものとなっているが、流石に国をどうこうできるほどのものではない。仮に国を動かすことができても、暗愚な皇帝の心を動かすことはできないだろう。
そうなると宋江が思いつく策は一つだけだった。
「逃げるしかないですね」
「に、逃げる!?」
「高球は底の浅い男です。誇り高い王進殿が尻尾を巻いて逃げ出したと思えば、一先ず溜飲をさげて満足するはずです」
「わしも武人として武に身を捧げた男。高球如きに逃げ隠れするのは抵抗がある」
だが、と続ける。
「わしの矜持を守るために、母上を犠牲にするわけにはいかぬ。なにより守るべきは母上の身の安全だ。逃げるのが最善策だというのなら、矜持を捨てそうするとしよう」
「しかし逃げるにしてもアテはあるのか? 高球が満足せずに追っ手を出すことも考えられる。高球は腐っていても太尉の権力は本物だ。敵に回して宋国内に生きる場所があるのか?」
「アテもなく逃げろなんて言いませんよ。私の遠縁の宋万という男が、梁山泊という山塞に3700ほどの兵を率いています。所謂山賊ですね。私が紹介状を書きますので、王進殿はそこへ行かれたらどうでしょう」
宋江の噂を聞いて宋家村に集まってきた者たちの中には、平和な暮らしに馴染めない荒くれ者や犯罪者までいた。宋江には宋国からのお墨付きなんて便利なものはないので、これをただ受け入れれば、宋に対して追求される隙を自ら作るようなものだ。
そこで宋江は一族の宋万という男を抜擢し、梁山泊という天然の要害に送って、世のはみ出し者達の受け入れ先の山塞を築かせたのである。
無論宋江もただの善意でこんなものを用意したのではない。もしも将来自分が国を追われる立場になった時や、宋が滅亡した時のための駆け込み寺が欲しかったのである。弟の宋清がいずれ決起する時の軍事拠点であると勘違いしたのは言うまでもない。
「梁山泊か、噂には聞いていた。山賊ではあるが民百姓は決して襲わず、不正を働く役人や悪徳商人だけを狙う義賊であると。3700という数も山賊としては破格だ。まさか宋江殿と繋がりがあるとは思いもよらなかったが」
「梁山泊は頭領や兵達の家族も住んでいるので、王進殿の御母堂も暮らしていける環境はあります。といっても都ほど便利で華やかな暮らしは無理ですが……」
「いや住めば都ともいう。わしらに宋国内で生き場所がないのも事実。宋江殿の提案にのらせていただこう」
逃げると決めた以上、もたもたとしていては高球に付け入る隙を与えるだけである。帰ってすぐに王進は老母に事情を説明すると、翌早朝にはもう都を出る準備を済ませた。
見送りには宋江、公孫勝、除寧がきた。王進を慕う者は他にも数多くいるのだが事情が事情である。大っぴらにするわけにはいかなかった。
「このたびは感謝する宋江殿。この恩は決して忘れまい」
これから山賊に身をやつすとは思えぬ晴れやかな顔で言う。
都から去っていく王進を見送りながら公孫勝がポツリと呟く。
「宋はまた一人、人材を失ったな」
宮殿の方角を見ると、深い雲がたちこめていた。




