第64話 楊武伝
無罪判決を受け牢から出された武松は、その足で真っすぐに武大の家へ向かった。
あれから名医の治療を受けたようで、武大は支えがあれば立ち上がれる程度に回復していた。
しかし全身を巻いた包帯から覗いている紫色の痣が、受けた暴行の激しさを未だに語っている。
「そうか。どうにか罪にならずに済んだか。万が一死罪になって、お前まで失ったらどうしようかと思った。本当に良かったよ……」
涙を流しながら武大は微笑む。
だが笑顔に力がなかった。ここ最近に起きた出来事が武大の心を、癒せぬほどに傷つけていたのである。それは肉体の傷よりもずっと重症であった。
「すまねえ兄貴。あれだけ啖呵をきったのに金蓮を取り戻せなかった」
「お前のせいじゃない。俺が不甲斐なかったのが悪いんだ」
「そんなこと、」
「そういうことなんだよ」
武大は潘金蓮の位牌に視線を向ける。
遺骨はなかった。西門慶の屋敷から人骨は発見されたのだが、粉々に破壊されたものが複数人分あり、どれが金蓮のものか分からなかったからである。
「俺がお前くらい強かったら、こんなことにはならなかった。……いや、そもそも俺は金蓮のことをちゃんとをちゃんと愛していたのか?
あいつの顔だけ見て舞い上がっちまって、あいつの心を何一つ見ようともしていなかった。俺がもっとちゃんとしてれば、こんなことにはならなかったんじゃないのか」
「兄貴……」
武松はなにも言えなかった。武松自身も同じようなことを考えていたからである。
見た目こそ似ていない兄弟だが、心の形は似通っていた。傷つき方も同じである。
「武松。お前はこれからどうする?」
「この街を出ていくよ」
「都頭の仕事はどうするんだ?」
「もう辞めてきた」
「罪は許されたんだろう。辞める必要はない」
「俺が許せなかったんだ。それにどっちにせよ辞めるつもりだった」
「……お前らしいな」
武松が辞職を申し入れた時、知事はたいそう熱心に引き留めたが最終的には首を縦に振った。
きっと傷心の武松を心配してくれたのだろう。
「家を出て行って、宛てはあるのか?」
「孟州の快活林を仕切っている施恩ってのが、俺の無罪のために運動してくれたらしくてな。一先ずそこを訪ねようと思う。
もう二度とここには戻ってこねえかもしれねぇ」
「そうか……じゃあこの家は、もういらんか。お前が都頭としてここにいるなら、この家をやろうと思ったんだが」
「家をやるって、兄貴はどうすんだよ?」
「故郷に帰るよ。ここには辛い思い出が多すぎるからな」
武大にとって故郷には辛い思い出のほうが多いはずだ。
それでもやはり故郷は故郷なのだろう。辛くても良い思い出も確かにあったのだ。
「そこで潘金蓮の供養をしながら、ひっそり暮らそうと思う。父と母の墓もあることだしな」
「……そうか。いつ街を出るんだ?」
「まだまだ先だ。引っ越しの準備もあるし、怪我も全然治っていないからな。それからになる。お前は?」
「俺は明日にでも起つつもりだ」
「なら今日は一緒に飲もう。とっておいた酒があるんだ。この機会に飲んじまおうじゃないか」
何のためにとっておいたか武大は言わなかった。
ただ武松はもう直ぐ武大と潘金蓮が結婚した日であることを知っていた。
その日の夜。武大と武松は細やかに飲み明かした。
別れの宴ではあったが二人とも口数は少なく、啜るように酒を飲んだ。
これが武大と武松の兄弟の今生の別れとなる。故郷へ帰った武大は出家して僧侶となり、二度と俗世に戻ることはなかった。
そして武松は、
「では早速、快活林の施恩のところにレッツゴーでござるよ!」
「……ってなんでお前がいるんだよ」
何故か準備万端で待ち構えていた楊志にツッコミを入れる。
楊志はこの街の都頭だ。辞めた武松と違ってそうそう街を離れることができるはずがない。
「いやぁ実は西門慶の悪事を暴くために、ちとハッスルしすぎてしまってな。クビになっちまったんでござる」
武松は知らないことだが、楊志は知事に脅迫めいた書状を送り付けたり、意図的に民へ噂を流し、扇動まがいのこともやらかしている。
知事が危険視してクビにするのも当然のことであろう。
「マジかよ! っていうかまたかよ!」
「うむ。まさか人生で三回もクビを経験することになるとは、まったく人生山あり谷ありでござる。はっはっはっ! 笑うしかねえでござるなぁ」
「先祖の楊業様があの世で嘆くぜ。ったくお前ぇはよぉ」
武松は笑った。本当に久しぶりとなる、心からの笑いだった。
二人が去った後も、陽穀県の人々は語り合った。
かつて陽穀県に楊と武、虎殺しと鬼殺しを果たした英雄ありと。
楊は人食い虎を殺し、食人の鬼の罪を明らかにした。
武は人食い虎を殺し、食人の鬼を見事に討ち果たした。
英雄譚は人々の口から、やがて講談師たちが語る物語となり、そして水滸伝という百八の好漢達の一大叙事詩に取り入れられた。
楊志と武松の活劇はこれからも続くが、陽穀県における物語はこれにて終わりである。
天暗星と天傷星。
即ち楊志と武松は、孟州の快活林で騒動を起こしてお尋ね者になり、二竜山という山塞を乗っ取り山賊となった。
そしてやがて二竜山は梁山泊に加わり、楊志と武松は指折りの武闘派頭領として宋王朝を震え上がらせることになるのである。




