第56話 武松、助言を受ける
「そうか。武松の暗殺は失敗したか」
陽穀県に帰ってきた手の者の報告を聞いて、西門慶は嘆息する。
成功したら儲けもの程度に考えていたため、西門慶は残念には思ったが、手の者に対しての怒りはなかった。
「は、はい。申し訳ありませんでした、西門慶様」
しかし手の者のほうは西門慶がそう思っていることなど分からない。
罰として処分されたらどうしようかとビクビクとしていた。
「武松は暗殺のことに気づいたか?」
「……たぶん気づいてはいないと思います。逃げきれなかったのは一人ですが、その一人は普通に殺されましたから」
「ならばいい」
捕まっていたら拷問を受けて、西門慶のことを喋ってしまうかもしれなかった。なので西門慶にとっては、どうせ帰ってこないなら死んでくれていたほうが有難かった。
もしも武松が暗殺のことに感づいていたら、計画を多少変更しなければなかっただろう。
「あ、あの。つ、次こそは必ず成功いたしますので、命ばかりは……」
「もういい。二度三度もやって逆に不審がられたら本末転倒だ。通常の業務に戻れ」
「は、はい! ありがとうございます!」
武松をここで殺せていれば後顧の憂いは一切なく、失敗したならば仕方ない。
どうせ強いといっても所詮武松はただの一人だ。たった一人の武勇など自分の財力と比べればどうということもあるまい。
西門慶は部下の李欣を呼び出した。
「お呼びでしょうか、西門慶様」
「信用できる子分を集めておけ。武松が東京開封府に着くあたりに仕掛けるぞ」
「はっ。準備しておきます」
潘金蓮が自分のモノになる時が近づいていることに、西門慶は杯を傾けながら笑みを深めた。
一度山賊に襲われてからは、特に何事もなく武松は東京開封府に到着した。
そうして後は教えられた住所の屋敷へ行き、手紙と金を渡せば仕事は終わりである。
「あっけなかったな」
知事から託された大事な仕事を、あっさりと終えてしまった武松は、拍子抜けだとばかりに肩を降ろす。
仕事を終わらせた武松は他にやることもなかったので、楊志へのお土産を買うためにも、知事に言われた通り開封府見物をすることにした。
知事が熱弁を振るうだけあって開封府は華やかである。
街を歩く人々の着物は綺麗なものばかりで、露天商は様々な珍しいものを売っている。陽穀県の街より道はずっと広いのに、その道を埋め尽くす人の密度もずっと凄い。陽穀県で盛大な祭りが開かれたって、こんな多くの人は集まらないだろう。
こんなに首都が栄えているのを見ると、国が腐敗しているというのがピンとこない。少なくとも開封府を歩く人々は皆が笑っているし、幸せそうだ。
「華やかで皆が幸せそうだ――――そう思うかね、君は」
「っ! 誰だ!」
背後から急にかけられた声に振り向くと、皮肉げに笑う武人が立っていた。
纏っている鎧は武松の目にも分かるほど立派なもの。一兵卒ではなく、それなりに地位のある武官だろう。だが真面目で固そうな男ではなく、地位や権力というものに対して斜に構えた雰囲気がある。少なくとも武松が会ったこともない男なのは確かだ。
「失礼。君が余りに純真に開封府に目を輝かせていたのでね。ちょっとした悪戯心が芽生えて、思わず声をかけてしまった」
「失礼っていうなら、名前くらい名乗れや」
「これは重ね重ね無礼をした。私は徐寧、禁軍で師範をしている」
禁軍師範とはその名の通り軍の兵隊たちに武術を教える役目だ。
政治の腐敗に引きずられるように宋国軍も腐敗して久しく、軍は年々弱体化を続けている。しかし師範という職は、地位や賄賂ではなく純粋な武の技量のみで選出されるため、これに選ばれる者は宋国屈指の使い手ばかりだった。かつて禁軍槍術師範であった林冲などは、張飛の如しということで『豹子頭』の異名をとった達人中の達人である。
「さて。こちらも名乗ったのだから、そちらも名乗って欲しいところだがね」
「……武松だ。陽穀県で都頭をやっている」
仕方なく名乗ると徐寧の目が大きく見開かれた。
「これは驚いた。立ち振る舞いから中々の使い手であるとは踏んでいたが、あの虎殺しの英雄の片割れであったとは」
「んなことよりさっきのはどういうことだよ」
「さっきの、とは?」
「とぼけんな。俺に因縁つけただろうが」
「……武松。君にはこの街がどう見える?」
「どうって、華やかで珍しいもんが沢山あって、俺が見たどんな街より栄えた街に見えるぜ」
「表ばかりはな。かつて私の友人はこの街をこう評した。厚化粧をした美女、と。醜い部分を目に見えない所へ追いやって、目に見えるところだけを美しく見せかけている。嘘だと思うなら裏へ回ってみるがいい。乞食がたむろしているあたりなど、この世の地獄だぞ」
「!」
徐寧は嘘を言っているようにはみえなかった。そもそもこんな嘘を吐く意味がないし、嘘であっても調べれば直ぐに分かることだ。だからきっと徐寧の言ったことは本当なのだろう。
「この街に住んで武官をしているアンタの言うことだ。たぶんそうなんだろう。だがなんでわざわざ俺にんなことを言ったんだ?」
「大した理由じゃない。私はつまらん男でね。今の世に不満はもっていても、実際に行動に移ることができないでいる。友が流刑にされ逃げ出したと聞いた時も、全てを捨てて追いかけることもできなかった。だからお前のように開封府の表向きの美しさに目を輝かせている男に、真実を教えて八つ当たりしたのかもしれない」
誰もが楊志のように自分本位にちゃらんぽらんに生きていけるわけではない。大体の人間は現実と理想のギャップに苦しみ、折り合いをつけながら生きていくのだ。徐寧もそういう軍人の一人なのだろう。
「ああ、もう一つ理由をあげるならお前が友人に似ていたからか」
「へぇ。そいつも虎を殺したのかい?」
「いや。あいつが虎を殺したって話は聞かん。だが虎くらいはあいつも余裕で殺せるだろう。私は自分の武にそれなりに自信をもっているが、そんな私にも一対一で戦えば負けを予感してしまうのが何人かいる。私の友人はその一人だった。
お前はその友人に似ている。強さではないぞ? 外見の話でもない。なんとなく醸し出している空気が似ているのだ。そう、あいつが妻を失う直前に放っていた気と、今のお前の気はそっくりだ」
こればかりは聞き逃せなかった。
相手が禁軍師範だろうと関係ない。武松は殺気を放ちながら、五本の指をバキバキと鳴らす。
「……テメエ。喧嘩売ってるのか?」
「悪気はない、感じたことをそのまま言っただけなのだ」
「だとしたらテメエは節穴だ。俺にゃ妻なんていねぇよ」
そう言いながら武松の頭には潘金蓮の顔が浮かんでいた。
潘金蓮が死ぬ。そう想像しただけで、武松の心は締め付けられ苦しくなった。
「たしかに私は占い師でも道士でもない、ただの武官。人の運命について語るなどらしくはなかった。忘れてくれ」
徐寧は肩をすくめると、これ以上話すこともないだろうと去っていく。
武松は呼び止めようかと考えたが、その時には徐寧は人込みの中に紛れて見えなくなってしまっていた。
「馬鹿らしい……なにが妻を失うだ……」
武松は努めて平然を寄り添うが、心に芽生えた不安感は消えてなくならない。
一刻も早く陽穀県へ戻り、無事を確かめたい。
そう思った武松は楊志への土産物だけを買うと、そのまま開封府を飛び出した。




