第55話 武松、夜討ちをかけられる
知事からの急な呼び出しを受けた武松は、知事のところへ向かった。まだ仕事の途中ではあったが、役人である以上は知事の呼び出しを優先しなければならないのである。
「あー、こほん。武都頭。参りました」
咳払いを一つしてから、口調を敬語に切り替える。
あの柴進相手にも堂々とため口で会話していた武松だ。日々の勉強で字は覚えたのだが、気を抜くとすぐに荒っぽい口調が出てしまう。敬語で喋るには、こうして一度頭を切り替えなければならなかった。
「よく来てくれた、武都頭。今日は特別な仕事を頼みたくて呼んだんだ」
「特別、ですか。なんでまた俺……私みたいなのに?」
「それだけ君を見込んでいるということだよ」
知事の言ったことは半分嘘である。西門慶から結構な額の賄賂を受け取るかわりに、武松を一旦陽穀県から離れさせろと頼まれたから、武松を遠くへやる口実を作っただけだ。ただ知事が武松のことを見込んでいることは間違いではなかった。
「分かりました。知事にそう言われたんじゃ断ることはできません。なにをすりゃいいんです?」
「実はな。私もこの陽穀県の知事を長く勤めていて、それなりの財産を貯めることができた。だから都の東京開封府にいる親類に纏まった金を贈ろうと思ってな。ここに私の手紙があるから、これと金を届けてはくれないか?」
そう言って知事は数十両の銀が入った袋と、故郷の親類に宛てた手紙を武松へ渡す。
手紙はともかく、これだけの大金である。下手な者に預けても持ち逃げされるのがオチだ。この金の重さは武松への信用そのものだった。少なくとも武松はそう感じた。
「分かりました。必ず送り届けましょう」
「おお、やってくれるか! これで私も肩の荷が降りた。路銀には色をつけておくから、帰りに開封府の見物でもしてくるといい。都へは行ったことがあるか?」
「いや、ないですね」
宋には首都である東京開封府を筆頭に、西京河南府、南京応天府、北京大名府という大都市がある。楊志が以前に所属していたのは北京大名府だ。しかし武松はその四都市のいずれにも行ったことがなかった。
「だったらゆっくり見てくるといいぞ。東京開封府の華やかさは、こんな街とは全然違うからな。外国からの交易できた珍しいものだとかも売っているぞ」
それから知事は都がどれだけ素晴らしい場所なのかを力説し始める。どうやら長年、中央から離れて地方で知事をやっていることに不満が溜まっていたようだ。
武松は知事の話は半分聞き流して、開封府行きの準備をすることにした。
そしてそのことは知事を通じて西門慶にも伝わる。
西門慶は早速李欣を呼び出して、あることを命じた。
楊志に開封府行きのことを話すと、羨ましそうな顔をされたが、知事に頼まれたのは武松だけである。流石に楊志を連れて行くわけにはいかない。そもそも楊志には都頭としての仕事がある。
必ずお土産を買ってくることを約束して、武松は一人開封府へと向かった。
陽穀県と東京開封府はさほど離れてはいないが、徒歩でいくとなるとそれなりに長旅である。
知事直々の頼みであったことから気合を入れ、武松は早いペースで歩いて行った。
しかしながら急げばそれだけ体力を消耗するということでもある。街と街の間の中途半端なところで疲れ切ってしまった武松は、手頃な場所を探して休憩をとることにした。
大きな木の陰で腕を枕にして寝転がる。
お世辞にも寝心地はよろしくないが、疲れが溜まっていたことで幸い睡魔はすぐに武松を眠りに誘った。
そして武松の瞳が閉じたままになって暫くがたった頃。
こっそりと武松を尾行していた十人ほどの男が物陰から現れた。全員が山賊の着るようなボロを着て、腰から下げている剣も使い古されたものだ。
山賊の恰好をしているが、彼らは山賊ではない。
全員が西門慶の命を受けてきたその手下である。山賊の恰好をしているのは、武松は山賊に殺されたというふうにするためであった。
「(おい、武松は眠ったか)」
「(はい。もう一刻以上はあのまんまですよ)」
主人から武松を『山賊に殺されたと見せかけて殺せ』と命じられた彼らであるが、彼らとて命は惜しい。虎を殺すような相手に普通に襲い掛かっては、返り討ちになるだけだと理解していた。そのためこうして武松が眠る時を待ったのである。
三国志の英雄・張飛も寝込みを襲われて死んだ。
どんな豪傑も寝ている間はただの人と変わらないことは、歴史が証明しているのである。
しかし万が一のことがあるので彼らは念には念を入れることにした。近づいて剣で斬り殺す前に、弓を射掛けることにしたのだ。
例え仕留め損なっても弓矢で負傷させることができたら、それから幾らでも料理できると判断してのことである。
弓矢を眠る武松へ向けた。武松は眠ったまま動く気配のない。
リーダー格の男は合図するように手を振り下ろす。
眠っているはずの武松が飛び起きて、そのまま身を翻したのはほぼ同時のことであった。
「なっ!」
確かに武松は眠っていた。だが物陰越しとはいえ殺気をありありと向けられて、そのまま眠り続けるほど抜けてはいない。酒が入っていれば分からなかったが、武松は素面であった。
自分を狙う者達の気配を感じた武松は、油断させるため瞳を閉じ、眠ったふりを続けて、反撃の機会を伺っていたのである。
そして手勢が弓を射掛けたその瞬間に武松は動き出した。
弓という武器は一度矢を放ってしまえば、次の矢を放つまで隙ができる。勢いよく向かってくる武松に、西門慶の部下たちは矢の装填を間に合わすことができなかった。
まずは一人。武松の蹴りで手の者が一人殺される。
「ひけ! ひけ!」
リーダー格の男は臆病から慌てて言ったが、結果的にそれは最良の判断だったといえるだろう。武松も襲ってきた者のことをただの山賊としか認識しておらず、また知事からの預かり物を守り通すのが最優先と、危険を冒してまで逃げた西門慶の部下達を追いかけようとはしなかったのである。
「ったく。人が眠ってるのを邪魔しやがって。余計な体力使わせんじゃねえよ」
うんざりしながら言うと、武松は再び地面に寝転がると眠り始めた。




