第53話 武松、時に委ねる
その日の夜。
手紙を受け取った武松は、久々に帰宅していた。最近はずっと役所で寝泊りしていたので、一ヶ月ぶりとなる。
明かりである灯火が、ほんのりと部屋の中を照らしている。
普段はおちゃらけている楊志が、姿勢を正して楊志を待っていた。
「なんだよ。急に改まって話ってのはよ」
楊志の向かいに腰を下ろす。楊志と私的に話すのも久しぶりのことであったと、ふと思った。
「武松。お主を相手に前置きをしたりしてまどろっこしい言い方をするつもりはない。単刀直入に聞くでござる。なにがあった?」
「なにがって、なんだよ」
「お主の兄嫁、藩金蓮とのことでござるよ。仕事に溺れているのは彼女から逃げるためでござろう」
本当になんの捻りもない直球であった。
武松は逃げるように顔を背ける。今の武松にとって真っ直ぐな視線は、鋭利な刃物も同然だった。
「……ほっといてくれよ。これは俺だけの問題なんだ」
「関係なくなどないでござる」
怒るでも悲しむでもなく、ただ当たり前のことを話すような口調で楊志が言った。
「拙者とお主は刎頚の誓いをした間柄。武松の悩みは拙者の悩みでござる。武松が憂鬱だと拙者も気が落ち込む」
考えながらではなく、楊志は心の中のものを、なんの飾り立てもせずに話す。だからその言葉に淀みはなかった。
「話して欲しい。お主がどういう悩みを抱えているのか。頼む」
「……楊志」
複雑に絡み合った人間関係に苦しめられた武松の心に、楊志のなんの打算もない表裏のない言葉が染み入る。
額を抑えて、目から溢れ出そうになるものを堪える。
刎頚の友と呼んだ男にこう言われて、尚も黙っていては男ではない。己の心情と友との友情をいっぺんに裏切ることになる。
武松の腹も決まった。
「分かった。兄どころかあの世の両親にすら話せねぇことだが、お前にはこれまでの全てを話そう」
そして武松は話した。
自分と兄のこれまでと、虎殺しをした日に藩金蓮に一目惚れしてしまったこと、兄の家で偶然にも金蓮と再会してしまったこと、金蓮も兄ではなく自分に惚れているようであること、そしてこの前の妓楼でのこと。なにもかもを隠さずに全てである。
聞き終わった楊志は流石に頭を抱えていた。楊志もまさかこれほど複雑なことになっているとは思っていなかっただろう。
「まさか……月並みだがまさかとしか言えぬでござる。拙者の勧めた店に、件の藩金蓮がいるって、こりゃ太公望や諸葛孔明だって読めないでござるよ」
古の大軍師どころか、この世の運命を支配する神にだって読めまい。
それだけあのことは武松にとって衝撃的であった。
「楊志。俺はどうすりゃいいんだ?」
「難しいでござるな」
楊志は碗を床へ置くと、酒を注ぎ始めた。素面では話してられないということだろう。
武松も久しぶりに酒を口にした。
「お主が兄への義理を通そうとも、藩金蓮との愛を選ぼうとも、どちらも選ばなくても、完全な幸せを手に入れられるのは一人だけでござる。
誰か一人は幸せを掴みながら傷を負い、誰か一人はひたすらに不幸になる」
仮に武松が兄への義理を通したとしよう。
そうすれば兄・武大は得た幸せを失わずに、このまま幸福な人生を送っていけるだろう。しかし藩金蓮は武松の心を得られずに、好きでもない男と生涯を共にしなければならない。
仮に武松が藩金蓮との愛を選んだとしよう。
そうすれば金蓮は愛した男である武松と添い遂げ幸せを得ることができる。しかし武大は弟と嫁の二人にいっぺんに裏切られることになる。
どちらを選んでも武松にとっては茨の道だ。なにせこの話は武松には救われる道がない。
兄を選べば、金蓮への恋を捨てる苦しみを負い、金蓮を選べば、兄を裏切る苦しみを負う。
苦しみより逃れる方法は、ない。
「だが武松。お主がどんな道を選ぼうとも、拙者は武松の味方でござるよ」
「すまねえ」
「その上で問うが、お主はどうしたいんでござる?」
兄を選ぶか、女を選ぶか。義理か恋か。
どれほどの時間を迷っただろうか。外に薄明かりが差し始めてやっと武松は口を開いた。
「時間が解決してくれたりは、しねえだろうか」
武松が選択したのは、どちらも選ばないという道だった。
「恋は熱病っていうらしい。もしそうなら今はこんなに燃えて滾っていても半年……一年……三年と時間がたてば。いつか悪い夢から覚めるように、この熱も冷めちゃくれねえだろうか」
「それも一つの手でござろう」
「……逃げ、か。これは」
「逃げてなにが悪い。だいたいここまで複雑な人間関係、悟りを開いた高僧だって明確な答えを出すことはできんでござろう。百人いれば百人がまったく別々の答えを出すに違いない。答えがない問題なら、逃げるというのも一つの答えでござろう。
それに確かに時間というやつは、万能の薬でござる。どんな良薬でも治せぬ傷も、時間はあっさり治してしまう。
他ならぬ拙者の初恋もそうでござった。フラれたその時は永遠の傷を受けたようなショックでござったが、一週間もすりゃケロッと忘れっちまったでござる。
だから武松の藩金蓮への感情も、そうやっていつか薄れてなくなってしまうかもしれんでござるな。しかしお主はそれで良いんでござるか?」
「ああ」
武松は大きく息を吐き出す。ずっと背負ってきた荷物を、やっと降ろして休憩できた。
「俺も金蓮も互いに互いを忘れられるなら、きっとそのほうがいいんだ」
世の中には明らかにするべきではないこともある。藩金蓮へ抱いた感情はそういうものだった。
武松の決断は間違いではなかったのかもしれない。
一ヶ月や二ヶ月では消えない想いも、一年や三年もたてば消えたかもしれない。
長い時間をかけて金蓮が武大の人柄に惚れて、再出発するということもあったかもしれない。
武松も金蓮のことはすっぱり諦めて、別の恋を見つけることができたかもしれない。
全ては仮定の話だが、有り得ないことでもなかったのだ。
だが武松にしても楊志にしても神ではない。
魔星の生まれ変わりである二人は、常人にはない運命を背負っているが、運命を見通す眼などはもっていなかった。
二人は自分の知っていることしか知りえず、故に見落としをする。
そう。武松も楊志もこの時点では西門慶という男のことを知らなかったのだ。
それが悲劇を生み出そうとしていた。




