第5話 宋江、慢心する
宋王朝八代皇帝、徽宗が即位した経緯はやや特殊だ。
先代の七代皇帝の哲宗は徽宗の兄で、優秀な人物であった。だがこの哲宗が後継者を作らないまま急死してしまったため、妹である徽宗が急遽皇帝に即位することになったのである。
当時多くの重臣が徽宗の資質に疑問をもっていたため、即位に反対する声は多かったが、意外なことに即位当初の徽宗は情熱的に政務に取り組んだ。
生粋の芸術家である彼女が、自ら筆を折って決意を示した時などは、徽宗即位に反対していた多くの重臣が己の不明を恥じ入ったものである。
しかし直ぐに重臣たちはやはり自分たちの懸念が正しかったことを認識することになった
徽宗には皇帝として巨大な問題を抱えていた。彼女は極めて飽きっぽい性格だったのである。
今日くらい政務をさぼって、趣味である芸術に時間を使ってもいいだろう。そういう怠惰が積もりに積もって、遂には殆ど政務を放り出した挙句に、自分の趣味のために国の財政を傾ける有様であった。
不敬罪によって人々の口が縫い付けられていなければ、今頃は大陸中の民衆が『徽宗は退位せよ』と叫んでいたに違いない。
「よくぞ難関を乗り越え辿り着いた! 朕が試験官にして宋王朝第八代皇帝である!」
当の徽宗はといえば、影でそんなことを思われていることなど露とも知らなかった。
こうして未来の高級官僚を選出する場でも、気分はお気に入りの側室のところへ遊びにきたかのようである。
そんな徽宗に憐みの視線を向ける者が一人。宋江である。
(たぶん本人は『芸術家』として真摯に生きているだけで、悪政を敷いて民衆を苦しめている自覚すらないんでしょうねぇ。世間知らずの芸術家が皇帝になってしまったのは、皇帝自身にも民衆にも、この国にも不幸なことでした。
いっそ今すぐここで病で急死してくれたら、世の中はもうちょっと良くなるかもしれません)
当然こんなことを口に出せば、不敬罪で即死刑である。
なので口に出さず心の中で思うだけだったのだが、宋江は少しばかり徽宗を侮っていた。
徽宗は皇帝としては暗愚であっても、決して阿呆ではない。自分に向けられる視線の色に、芸術家肌の徽宗は敏感に気づいた。
(む。あの浅黒い肌の男……。朕に壊れた陶器を憐れむかのような目を向けておる。気に入らん)
これ、と近くにいる家臣を呼びつける。
「あそこの浅黒い肌をした受験生はなんだ?」
「宋家村出身の宋江、字を公明という男です。今のところ成績は三位ですね」
「……あいつの目が気に入らん。落第させよ」
「え、それは陛下のご命令であればそのようにいたしますが、目が気に入らないというだけで落第はちょっと……」
家臣が露骨に慌てふためいたのを見て徽宗は思い直す。
科挙がどれほどの難関試験かくらいは徽宗も知っていたので、ただ気に入らないというだけで不合格にするのも哀れかもしれないと考えたからだ。
「冗談だ。忘れるがよい」
「は……ははーっ!」
(だが嫌いなものは嫌いだ! あんなのが大臣として朕の側近にでもなられれば、毎日碌に眠れやしない。口うるさいのは宿元景だけで十分だ。奴の試験は辛口気味にするとしよう)
こうして宋江は自分の預かり知らぬところで成績を大いに減点されることになった。
その結果がこれである。
【十一位:宋江(公明)】
何度も目を擦って番号を確認する宋江。
けれどどれだけ瞬きしようと頬を捻ろうと、一位の隣についている余計な字が消えてくれない。
「十一位……私が十一位……一位の状元にも二位の榜眼、三位の探花にも引っかからず十一位……。そんな……そんな馬鹿な……」
「いや科挙で十一位って結構凄いことだからな。受かるだけで快挙だからな? ちなみに俺は一つ下の十二位だった」
「ちなみに聞くと私たちを差し置いて一位になったのは、どこのどなたです?」
「ほら、あそこにいる男だよ」
王倫が指さしたのは前の試験会場でも見かけた道士服の男だった。
その男を見た瞬間、宋江は科挙の順位なんてつまらないことは吹き飛んでしまう。
「――――っ! 王倫さん、彼は誰か分かりますか?」
「たしか二仙山で道術を学んだ道士……だそうだ。特異すぎる経歴の持ち主だからちょっとした噂になってて小耳に挟んだ。まさか科挙で一位になるほどの頭脳の持ち主とまでは思わなかったが」
「二仙山……道士……しかしあの雰囲気は本物……?」
道士服の男と視線が合う。
宋江が感じ取った宿命めいた衝動を、道士服の男も感じ取ったのかもしれない。
「初めてお目にかかる。二仙山・羅真人が弟子。道号は一清道人、渾名を入雲竜。公孫勝と申す」
「私は――――」
「知っているよ、天魁星」
「天魁……星!」
その星の名を聞いた途端、心臓が裏返る衝撃を受けた。
初めて聞くはずなのに懐かしい、前世の自分の名を思い出したような感覚であった。
「失礼。宋家村の及時雨・宋江殿だろう、知っているよ」
「なぜ私の名前を?」
「宋家村の宋江、東渓村の晁蓋、北京の盧俊義。この世で真に男たらんとすれば、この三人の名前くらい知らなければモグリだ」
晁蓋は東渓村の保正で十一人力の怪力をもつ豪傑で、義理を知る好漢として表裏問わず名前が通っている。
盧俊義は北京で一番の大商人で、河北の三絶と謡われるほどの武芸達者でこちらも有名だ。
「どうだろう。この後、一緒に飲まないか?」
じんわりと汗を滲ませながら宋江は頷いた。