第35話 盧俊義、退屈する
毎日星占いを用いた覗きに勤しんでいた公孫勝は、人材の墓場扱いされる窓際に左遷されておきながら、人生を存分に楽しんでいた。やりがいのある仕事を与えられないのを、仕事がなくて楽になったと受け取っ公孫勝は、友人の家に遊びに行ったり妓女のところへ行ったり、覗きに費やしたりとやりたい放題であった。
もし大量の仕事を抱えている宋江が今の公孫勝の現状を知れば、容赦ないグーパンチを飛ばしてきたことだろう。
そしてこの日も公孫勝は盧俊義の家で馬鹿話をしながら無料酒を飲んでいた。
北京一番の大商人である盧俊義の家にある酒は、どれも高級品で、どれだけ飲んでも酔わない。既に公孫勝が飲んだ酒は五十杯に達していた。
「いやぁ。今上帝が大の道教好きなせいで巷にゃインチキ道士が溢れているが、アンタは本物だぜ! まさか今の時代の人間じゃなくて過去の時代の女の下着まで覗けるとは!」
「なぁに。このくらいはお安い御用だ。盧俊義殿には美味い酒をご馳走になったり世話になっているからな」
過去視の術と星占いを組み合わせた千里天眼過去パン眼。日々の努力の甲斐あって公孫勝は新たな術を会得していた。
そして視界共有の術で自身のそれと盧俊義のものを同期。月見酒ならぬ下着見酒に興じているのであった。控え目にいって最低である。
「そういや道士つったら酒も肉も食えねえ草食って印象があったが、公孫勝は平気で酒も肉も食うよな? あれはいいのかい?」
「肉や酒を流し込んだくらいで術が使えなくなるほど軟な鍛え方はしちゃいない。そういう盧俊義殿こそいいのか、こんなことばかりしていて」
「ん? こんなことって」
「星見のことだ。俺は独り者だから覗きも自由にしているが、貴方は妻帯者だろう」
公孫勝が指摘すると盧俊義は面倒くさそうに嘆息した。公孫勝は地雷を踏んだかと思ったが、どうやら良くも悪くもそれほどのことではないらしい。盧俊義はつまらなそうに話し出した。
「正直、妻とは親同士が決めて結婚しただけで、愛情やそれに類似した感情も感じたことがなくてな。妻よりも、自分で好きに選んだ妾のほうがよっぽど愛おしく思う」
「まあよくある話だな」
林冲のように恋愛結婚をして、おしどり夫婦しているほうが稀なのだ。
中には親同士の決められた相手だろうと、その後で素晴らしい関係を築く夫婦もいるが、その逆だって当然いる。盧俊義はその一例なのだろう。
「では正妻は放置か?」
「そこまで酷ぇ男じゃねえよ。愛してはいねえが、あいつが欲しがるもんは買って与えてやってるし、ちゃんと正妻として扱ってもいる。それで十分だろう」
妻に対して話す盧俊義の顔は、業務連絡をしているように淡白だった。この対応が盧俊義とその妻の夫婦関係が、どうしようもないまでに平行線であることを示している。
(男は妻を愛さなくても、妾で情欲を発散させることができる。だが女のほうはどうだろうか? もし金品宝物だけで情欲を抑えきれなくなった時、女がとる行動など一つしかない)
不倫の二文字が思い浮かぶ。
盧俊義は大人物だが隙の多い人物である。一目をしのんで浮気相手を作るのは難しいことではないだろう。
公孫勝は忠告しようか迷うが、止めた。夫婦関係に口出しするのは野暮なものであるし、盧俊義ほどの男なら大事にはならないだろう。
「やめやめ。こんな話してたら酒が不味くなっちまう! それよりもっと面白ぇ話をしようぜ!」
盧俊義の顔に陽気さが戻ってくる。その時だった。
「……失礼、旦那様。耳に入れたいことが」
気配も音もなく現れた絶世の美男が、盧俊義にそっと耳打ちした。
公孫勝は驚き、使用人らしい男をまじまじと見つめる。見れば見るほどに美男子だった。公孫勝は男だから美男子を見ても特にどうとも思わないが、もしも女であれば一瞬で心奪われたに違いない。なによりも自分に気配すら掴ませなかった歩法が凄まじい。相当の武術を修めている達人だろう。
「盧俊義殿、彼は?」
「こいつは俺が最も信頼する従者の燕青だ。拳法は達人、弩を使えば百発百中、芸事や各地の風俗にも通じていて、さらにその美男っぷりから『浪子』なんて呼ばれている。まあ俺には過ぎた男さ」
「燕青と申します。旦那様からお話は伺っております、公孫勝様」
ただ一礼する様すらが絵になっている。
これほどの人物が盧俊義の一介の従者でいることが信じられなかった。その気になれば盧俊義のところから独り立ちして、如何様にも身を立てることができるだろう。
「それで耳にいれてぇことってのはなんだ? 公孫勝のことなら気にするな。言え」
「はっ。実は梁世傑長官が梁山泊を討伐するため7000の兵率いて出撃することになりました。それで旦那様にも内密で軍費を援助して欲しいと」
(7000、か。まあ妥当だな)
公孫勝は特に驚かなかった。索超の偽装工作によって、世間も梁中書も完全に犯人は梁山泊であると信じ込んでいる。なので怒りに燃える梁中書が梁山泊討伐に動くのは自然な流れだ。
助けに行く必要はないだろう。人格はともかく名将の梁中書率いる7000とはいえ、梁山泊は天然の要害。王進という達人に鍛えられ、兵もよく育っているという話だ。危うげなく撃退することができるだろう。
だが念のためにもう少し情報を得ておくことにした。
「燕青殿。すまんが他に分かっていることはあるか?」
「殿は不要ですよ。そうですね、俺がさらっと調べたことによれば李成と聞達の双璧は北京の守りのため留守番」
「そうか」
「ただどうも外部から『聞煥章』って知恵者を招いたようですね」
「ぶ、聞煥章だと!?」
その名前を聞いた公孫勝は驚きの余り立ち上がる。
公孫勝にとって最悪の展開であった。もしも聞煥章が梁中書の軍に加わってしまったなら、最悪梁山泊は陥落する。
「知っている名前か、公孫勝?」
「あ、ああ。ちょっと。燕青、聞煥章はどういう経緯で梁中書の軍に加わったんだ?」
「軍に正式に所属したわけではないようです。兵学を修めたその頭脳を使い、あちこちの戦場に赴いては臨時の軍師として雇われているという話で。今回も梁中書が個人で雇ったようです」
「ふーん。需要があるってことは優秀な軍師なのか?」
「優秀ではありますよ。ただその優秀さは勝ち戦より負け戦、撤退戦で発揮される類のもので、被害を最小限に撤退を完了させる手腕においては並ぶものなしだとか」
燕青はどこから調べたのか聞煥章についての正確な情報を次々に話す。
そして全てを聞き終えた公孫勝は腹を決めた。
「盧俊義殿。討伐軍の派兵となると俺の窓際部署にも声がかかるかもしれん。今日はこのへんで帰らせていただく」
挨拶もそこそこに公孫勝は急いで北京大名府を飛び出した。
向かう場所は東渓村。晁蓋と呉用にこのことを伝えなければならない。
出て行く公孫勝を見送った盧俊義に、燕青が深刻な顔で声をかける。
「旦那様。あの公孫勝なる男、明確な証拠は掴んでいませんが、恐らく例の生辰綱強奪に一枚……」
「なぁ燕青」
「はっ」
飲んでいた杯を置いて盧俊義は天を仰いだ。
そういう日を選んで酒を飲んだから当然だが、雲ひとつない夜空である。特に北斗七星はよく見えた。
「お前は俺の従者だ。なら俺の友達であることと、強奪犯であること。どちらに重きを置くべきか分かるな?」
「分かりました。旦那様のお力であれば大抵のことはもみ消せるでしょう。ただ火遊びもすぎれば山火事にも発展しかねませんよ」
「山火事か! そりゃいいな! 最近はあっても小火程度の事件ばかりで飽き飽きしていたところだ! どうせなら生辰綱強奪くれぇの大事件が、身近で起きてくれりゃ退屈も紛らわせるんだがな!」
「お戯れを」
そう言いながらも燕青は思う。もしかしたら家も財産も放り出して、一人で旅に出るほうが自分の主人の幸福なのかもしれないと。
北京大名府一番の大富豪にして名士。男一人が身を立てるには、重い立場だった。




