第32話 武松、殴り飛ばす
柴進に言われた『武松』なる乱暴者がいるところに行くと、ドタドタと慌ただしく駆ける音がする。人が走り回っているようだ。
息を切らせながら脱兎のごとく逃げてきたのは、髭を生やした大男。
筋肉のつき方からして武芸を嗜んでいる者だろう。恐らくは柴進が客として養っている武芸者の一人だ。
体のほうは立派だが、童のように泣き散らし怯え竦んでいる姿は、世間一般で言う豪傑像には当てはまらない。
こんなものが武芸者だというなら、武の価値というものは随分と安くなったものである。
用事があるので無視したいところであったが、大男は楊志の姿を見るや否や跪いて縋ってきた。
「おおっ! 丁度いいところに、腕に自信がありそうな御仁が! すまぬ、どうか俺を助けてくれ!」
少しだけ大男への評価を改める。強いものを見る目はあるようだ。
「いきなり助けてって不躾でござるなぁ。拙者はこれから柴進殿の頼みで武松という男のところへ行く予定なんでござる。お主の要件はそれが終わって暇だったら聞いてやるから、待っているでござるよ」
「そ、それなら丁度いいぜ!」
「丁度いい?」
「俺は柴進殿の世話になっている武芸者で洪教頭だ! これでもあの豹子頭・林冲と矛を交えたこともある達人なんだぜ!」
「矛を交えたといっても、一合受け止められただけで、あとは軽くのしてしまわれたのでござろう」
「う……!」
楊志ほどの達人であれば同じ達人を見抜く嗅覚をもっている。その嗅覚は洪教頭を失格であると告げていた。
この男の器量なら田舎道場でちょっとしたならず者共に教えることくらいは出来るかもしれない。しかしかつて八十万禁軍の槍術師範を勤め上げた林冲には到底敵わないだろう。
林冲とこの男との間には天地ほどの差がある。
ここまで差があると比べることすら林冲に礼を失することだ。
楊志の指摘は図星だったようで洪教頭は顔を真っ赤にして、口を真一文字に閉じている。言い返したいところだが、本当のことなので何も言えないといったところか。
こんな男は本来ならどうでもいいことなのだが、武松についてなにか知っているということであれば放置もできない。
「はぁ。洪教頭とか言ったなお主。武松となにがあったのでござる?」
「じ、実は今、武松の奴に追われているんだよ! 武松に用があるならついでに俺のことを取りなしておいてくれよ! 俺ぁまだ死にたくねえんだ!」
「柴進殿は武松を暴れ者だと言った。だが特定の誰かを目の敵にしているとは言っていなかった。お主なにかしたか?」
「そ、それは……」
「言え」
鋭い眼光で洪教頭を睨む。武芸を金を得るための見世物として利用しているような洪教頭と、楊家から宝剣とともに伝わった剣術を極めている楊志では戦闘者としての格が違いすぎる。
本物の殺気すら滲んだ眼光にあっさり洪教頭は白状した。
「へ、へへ……知ってるかい? 武松って本人は白皙で体もでっかい立派な体格の持ち主だが、兄の武大ってのは清河県じゃ赤ん坊だって目を逸らすって噂の醜男なんだよ。
そのことをからかってやったら武松の奴め。俺達が冗談だって弁解しても聞きやしねえで、問答無用に殴り掛かってきたんだ!」
「そりゃ肉親侮辱されりゃキレるでござるよ。誠心誠意謝罪するんでござるな。拙者は知らん」
思ったより下らない理由に楊志は洪教頭を切り捨てた。
問答無用に殴り掛かってきたとは虚言もいいところである。問答無用ではなく、無用なことを言ったから殴られそうになっているのだ。
こんなものに恩を売ったところで、自分に利益があるとも思えなかった。武松に殴り殺されたところで、楊志は毛ほども感じることはないだろう。いや、毛どころか何も感じないに違いない。
「ま、待ってくれ! お、お前は武松のことを知らないから、そんな風に言えるんだ! あの暴れん坊が怒ったら、謝ったくらいで許すはずがないだろう! きっと俺達は殴り殺されるんだ……!」
「勝手に殺されてればよかろう。拙者には関係ないでござる」
「んな殺生なことを言わねぇでくれよ! アンタだけが頼りなんだ!」
「殴り殺されるのが嫌なら、最初から侮辱などするんじゃねえでござる、阿呆」
「うっ……! お、俺はこれでも何年も武術を学んできた達人なんだぞ! それがあんな奴に手も足も出ないなんて悔しいじゃねえか!」
「だから口を出したと。阿呆以下でござるな。死ぬのもやむなしでござる」
「だからそんなこと言わねぇでくれよ! なんとかしてくれ!」
大の男がわーわー泣きわめき、楊志に助命を懇願する様は非常に見苦しかった。
こんな男、放置して急ぎたいのであるが、そうすると何処までもついてきそうだ。
楊志はこんな身も心も不細工な大男に付き纏われて喜ぶ趣味はない。
諦めたように嘆息すると楊志は腰の吹毛剣に手をかけた。
「いいから謝りに行け。そうすれば少なくともここで拙者に斬り殺されることはなくなるぞ」
青痣の中心で光る眼光が洪教頭を射抜いた。
「ひっ! ま、まさかその青痣……青面獣の楊志! ひひぃぃいい」
洪教頭は自分が縋りついていた人物が誰なのかを、ようやく理解した。
洪教頭は楊志からも逃げようとするが、時すでに遅かった。
「そら。噂をすれば影でござるよ」
廊下からヌッと現れたのは『白い』印象をもつ男だった。
酒ばかり飲んですごす乱暴者というから、楊志はきっと毛むくじゃらの大男をイメージしていた。
しかし実際に出てきたのは真逆。肌は女のものよりも白く透明で、顔も線が細く、どことなく中性的な美青年であった。
もしも彼が彼女であれば、きっと傾国の美女として後宮に召し上げられていたに違いない。美しいものを好む徽宗は、たいそう気に入ることだろう。
一方で棒に殴られたってびくともしなさそうな鋼の筋肉と、猛禽類めいた眼光、なにより全身からまき散らされている闘気が、彼の性別が男であることを告げていた。
「――――見つけたぞ、洪教頭」
「げ、げぇ武松!」
武松は隠し切れない怒りを瞳から放ちながら、一歩一歩洪教頭に近づいていく。
洪教頭はあまりの恐怖に体がガタガタと震えていて逃げることもできないようだった。
「よくも人の兄貴をテメエ如きカスが侮辱してくれたじゃねぇか。兄貴はな、こんな俺にも他の奴と変わらず接してくれた本当に良い兄貴なんだよ……。俺は俺を侮辱されること以上に、兄貴を侮辱されることが我慢ならねえんだ!
だから殴らせろ。テメエの顔面がぶっ潰れて、耳障りな雑音を一生ほざくことのできねぇようにしてやらぁ」
「ひ、ひぃぃぃいいい! あわ、あわわわわ……」
洪教頭が近い時間に飲み物を飲んでなくて良かった。洪教頭がなにか水分を含んでいれば、踏みたくない水たまりが出来上がっていただろう。
そんな洪教頭のパニックに反して当事者ではない楊志は呑気なものだった。
(ほう。柴進殿が大袈裟なだけで所詮はよくいる力自慢のチンピラ程度だと思っていたでござるが、これは拙者のほうが間違っていたでござる。
あの武松という男……達人の域に到達しているでござるな。見たところ特定の武術を嗜んだ気配はなし。
たまにいるんでござるよなぁ。ああいう武芸も武術もやってないのに独学で到達しちゃうのが)
所謂、天才という人種だ。彼らは1から10を順番に学ぶのではなく、誰にも教えられていない0から勝手に1を知り、やがて10に至る。
そういう人間がたまに生まれるのだ。そしてその殆どが将来英雄と呼ばれる超人として、天下に名を轟かす。
これは自分も気合を入れないと駄目だろうと、楊志は気を入れなおした。
「よ、楊志殿。ご覧になってください……あの武松に謝れと仰るのですか? あんなの人間の形をした虎そのものじゃないですか! 殺される! 殺されてしまいますよ!」
「虎は人語を喋らんでござる。言語を話せるということは、会話ができるということでござるよ。というかあんまり女々しいことを言うと本気で斬り殺すでござる。お前の相手するの飽きた」
どうせこんな小物なら殺したって問題にはならないだろう。柴進の屋敷内のことなら、柴進が内々のうちに処理してくれるはずだ。
楊志がわりと真剣に殺処分を考え始めたことを洪教頭は感じ取った。
前門の虎後門の狼。
洪教頭の道は否応なく定まる。
なにせ後門の狼は殺す気満々である。そうなると洪教頭が生きるには前門の虎に突っ込む以外に道はなかった。といっても戦うためではない。
「うぉおおおおおおおおおおおお!」
「お? 遂に来るか?」
武松が拳を握りしめるが、それが放たれるよりも早く洪教頭が額を地面へすりつけた。
「--ッ! すまん! あいや、すまなかったぁ!!」
「……あン?」
怒涛の勢いで謝罪を始めた洪教頭に、武松の振り上げた手が止まる。武松は困惑しているようだった。
「お前の兄君を侮辱したことは、この通り謝る! もう二度とは言わん! 兄だけじゃなくお前のことも馬鹿にしたりしない! だから許してくれ!」
なんの変化球もない正面からの謝罪である。洪教頭は武松と戦ったところで勝ち目は皆無であると考え、謝罪して許してもらう可能性に賭けたのだ。
果たしてその効果は、
「テメエのような木偶の坊とはいえ、大の男が跪いて謝ったんだ。そこは汲んでやる」
「と……いうことは?」
許してくれるのか、という期待が洪教頭の顔に広がる。
「歯ぁ食いしばれ。一発殴るだけで勘弁してやるよ」
「ひぃぃいいいいいいいいいいいい!」
武松の拳はうなりをあげて洪教頭の顔面に炸裂。
洪教頭の意識を一撃で奪い取った。




