第31話 楊志、転がり込む
生辰綱強奪事件で世間が賑わっている頃、楊志は途方に暮れながら放浪していた。
財布を振っても出てくるのは僅かな金ばかり。こんなはした金では飯を食うために使えば数日で使い果たしてしまうだろう。飯に加えて宿もとれば、一日で溶けてなくなってしまう。
兎にも角にも金がなかった。
「いやぁ。我ながら地味に絶体絶命でござるなぁ」
呑気に笑うが、おかしくて笑っているのではない。
笑うしかないという有様であったのだ。
楊志は宋王朝建国時の名将で『無敵』の渾名をもった楊業の末裔である。宋王朝においては屈指の武家の名門だ。楊業を筆頭としてその息子である楊延昭など、多くの武官を輩出してきた。
楊家に匹敵するほどの武門となると、匹敵するのは楊業と同じく宋王朝建国の名将たる呼延賛から始まる呼延家くらいであろう。それが数えて二度目の失職だ。笑いたくもなる。
「一度目は仕事に失敗して逃げて失職し、なんとか再就職したら上司の賄賂を窘める諫言をしてしまったせいで失職。拙者もまったくもってツキがないでござるなぁ。まあクビになったお蔭で索超のようにならず不幸中の幸いだったといえるかもしれんでござるが」
もしも楊志が素直に輸送任務を引き受けていれば、索超と同じ目に楊志があっていたことは疑いようがない。自分であれば索超のようなヘマはしないと、そう確信するほどに楊志は増上慢ではなかった。
そう考えると楊志は不運どころかツキがあったのかもしれない。失職と死なら後者のほうが不幸なのは間違いないのだから。
とはいえ、だ。
不幸中の幸いだろうと、不幸は不幸である。
死ななかったなら死ななかったらで、人間は生きていかなければならないのだ。生きていくには飯を食わなければならない。そして人間社会で飯を得るなら、金がなければならないのだ。その金が楊志にはない。
改めて考えてもやはり絶体絶命であった。
「ま、過ぎたことを一々考えててもしょうがねぇでござるな」
楊志は頭を切り替える。
良くも悪くも柔軟なのが楊志の性格だった。
「さてこれから……どうするでござるかなぁ」
一応楊志には幾つかの考えがある。しかしどれを選ぶのが一番の正解なのかが判断がつかなかった。
時間にして五分ほど悩んだだろう。
考えるのも疲れた楊志はおもむろに腰を下ろすと、あたりに落ちていた小枝を拾い出した。
人間で判断のつかない事ならば、神頼みである。
先祖伝来の家宝『吹毛剣』で枝に傷をつけていき、即席のくじ引きを作る。
自分の遺した家宝がこんなことに使われていることを、墓の下にいる楊業がみればきっと嘆くだろう。
「『一か八か全財産を賭けてギャンブル』『取り合えず腹ごしらえに食い逃げ』『山賊になる』『柴進殿の家に転がり込む』『宋江殿に泣きつく』……拙者が考えついた選択肢はこれくらいでござる。はてさてどう出るか、我が人生……とぅ!」
ジャラジャラと五本の枝を掌の中で転がすと、気合をいれてその中の一本を抜く。
楊志は恐る恐ると木の枝についた傷の数を見た。
「傷の数は……四。つまりは柴進殿の家に転がり込むでござるな。滄州の柴進殿は客を好む性格。楊業様の末裔である拙者ならたぶん客として迎えてくれるだろうし、もしかしたらほとぼりが冷めたころに再就職の世話をしてもらえるかもしれんでござるな。そうと決まれば善は急げでござる!」
今後の方針は決まった。
楊志は滄州にある柴進の屋敷に向けて歩き始めた。
客を好むと楊志が評したのは本当で、柴進は数千の食客を抱える宋国一の大旦那であった。金持ちや貴族が食客を養うのは別に珍しいことではなかったが、柴進の場合は食客の数と、客の多種多様さにおいて並ぶ者がいない。
なにせ柴進の食客には、山賊崩れや任侠者などのはみ出し者までいるのだ。現代の孟嘗君とは柴進にこそ相応しい呼び名であろう。
そして孟嘗君が斉の公子であったように、柴進もまた高貴な血筋である。
柴進の家系を辿ると現皇帝の主家たる後周の皇帝に辿り着く。
宋王朝の初代・趙匡胤は元々後周帝国に仕える一将軍にすぎなかった。しかし後周帝国の皇帝が急死して、七歳の幼帝が即位したことが趙匡胤の運命を大きく変えた。
当時まだ中華は動乱の真っ盛り。七歳の幼帝では動乱期を乗り切ることはできない。そう判断した軍人たちが趙匡胤の弟と組んで、趙匡胤を脅して無理やり即位させてしまったのである。言葉を飾らずに言うと帝位簒奪をしたのだ。
最終的に趙匡胤とその弟によって天下は統一され、宋帝国の時代が訪れ天下泰平の世となったのだから、彼らの判断はそう誤りではなかっただろう。
けれど理由はどうあれ簒奪は簒奪。主君の玉座を乗っ取った形になった趙匡胤は、後周帝国の皇族に後ろめたさを覚え続けていた。
そこで宋王室は柴家に『丹書鉄券』という特権を与えることにした。
これは死罪に相応する罪であってもこれを免じるという、最上級の特権である。これを与えることによって宋の皇室は、柴家を終世保護すると天下に約したのだ。
柴進が宋にとっての犯罪者ですら堂々と食客として匿えるのは、この特権によるところが大きかった。
なにせ柴進が客として迎えた者に手を出せば、柴進を敵に回すことになる。そして柴進を敵に回すということは、宋の皇室を敵に回すことなのだ。そこいらの役人にどうこうできる話ではない。
いずれ大陸に旋風を起こす目となる人物――――そう噂されたことから、人々は『小旋風』という渾名で柴進を呼ぶようになるのも自然なことかもしれない。
そんな柴進の屋敷に新たに一人のはみ出し者が、客となるためにやってきた。
言うまでもなく楊志である。
楊志が門番に自分の名前を伝え、身分の証となる吹毛剣を見せると、門番は慌てて主人に確認に行った。
待つこと暫く。少し興奮した様子で柴進本人が出てきた。
柴進を目にした瞬間、楊志は血というものは侮れないということを知る。隙のない立ち振る舞いに、高貴さと威厳を両立させた雰囲気。それは一つ歯車が狂えば、皇帝になっていたであろう男の気配だった。
楊志は現皇帝である徽宗の顔を見たことがあったが、貫禄は柴進の方が明らかに上である。
「お待たせしてすみません、青面獣・楊志殿。僕が柴進です。最近は小旋風っていう渾名のほうが通りがいいかもしれませんがね」
「これはご丁寧にどうもでござる」
拱手する柴進に楊志も同じように返礼するが、内心で楊志は仰天していた。
楊志の楊家は名門であるが、柴進の柴家はその楊家すら及びもつかぬ名族である。しかも自分は二度も職を失った不名誉な存在。相応の歓迎はされても、柴進自身が迎えに出てくるほどの好待遇だとは思わなかったのだ。
(ま、歓迎されてるならいいでござるか。対応が反対よかマシでござる)
深く考えても仕方ないと、楊志は自分の要件をストレートに告げることにした。
「柴進殿ほどの人物であれば拙者が職を失った事情は掴んでいるでござろう」
「ええ。北京にも文のやり取りをしている友人が何人かいますからね。特に盧俊義という大旦那に仕える燕青とは、詩を贈り合う仲です。彼らから大体のことは聞いていますよ。北京からここまでさぞ大変でしたでしょう」
「なに。初めての経験ではござらん。そこまで大変ではなかったでござるよ。なにより柴進殿の屋敷を目指そうという目的があったでござるからな」
「名を売っていた甲斐がありました」
「それで柴進殿。どうでござろうか、暫く拙者を養ってくれんでござるか? 拙者は一騎当千の武勇があると自負してるでござるから、拙者を一人客にするだけで柴進殿は千の兵力を得ることができるでござるよ。お買い得でござる」
誇大妄想でも慢心でもなく、さも当然のように楊志は言った。
適当な性格の楊志だが、楊家直伝の剣術を修めた達人である。自分の強さには楊志も自負がある。本当かどうか千人斬って証明して見せろと言われれば、楊志は迷わすそうするだろう。
「勿論構いませんよ! 今噂の直言居士・楊志を客にできるなんて、柴家にとっても栄誉なことです。こちらから請うても客として迎えたいほどですよ」
「なんでござる、その変な渾名? 直言居士? 拙者の渾名は青面獣でござるよ」
「またまたご謙遜なされて。誰もが梁世傑の生辰綱の名を借りた賄賂に口を噤む中、ただ一人だけ堂々と諫言してみせた貴方のことは、私のような人間はおろか庶民の間でも有名ですよ。楊業様も貴方のような子孫をもてて、墓の下で喜んでいることでしょう」
「ま、マジでござるか……」
周りが口を噤む中、一人だけ直言しちゃう自分カッコいいし周囲からの評価も上がるだろう、というなんとも軽い気持ちで行われた発言が、ここまで話が大きくなっていることに驚愕する。
「ところでその話ってどれくらい広まっているんでござるか?」
「詳しく調べたわけじゃありませんが、講談師は既に話を何本か作っていましたよ。僕の家にもお抱えの講談師がいるんで是非とも取材を受けてあげて下さい」
「ははは……そりゃもちろん構わんでござるよ」
元々名声欲しさにやったことであるが、図らずも実際にクビにされるという実害を被ったことで、想像以上の結果を生んでしまったようだった。
(拙者の名声が上がったのはいいが、これで反骨的な人間と思われて、再就職に支障が出たら困るでござるなぁ。過ぎたる名声は毒と同じでござるよ。
拙者は楊業様の末裔として『中々骨がある男』くらいの評価が貰えればそれで良かったんでござるが)
内心で溜息つくが口には出さない。本心を喋って柴進の気が変わったら困るからだ。
ここまでの旅路で路銀は尽きた。柴進に追い出されたら本当に山賊になる以外に道はない。
いざとなれば山賊になるのも選択肢には入るが、一度山賊になってしまえばよっぽどのことがなければ良民には戻れない。なのでそれは最終手段にしておきたいのが本音であった。
「では楊志殿は最上級の客として遇し、部屋を用意いたしましょう。他にもなにか必要なものがあれば仰ってください。僕が用意できるものは用立ていたしましょう」
「なにからなにまですまんでござるなぁ」
「いいんですよ。私がそうしたくてやっていることですから」
「恩に着るでござる。なにか拙者に力になれることがあれば、遠慮なく言って欲しいでござるよ。荒っぽいことならお任せでござる」
「荒っぽいこと、ですか。そうですね、でしたらその武勇と堂々たる直言ぶりを見込んで、細やかなお願いがあるのです。どうか私を助けると思って聞いてはいただけませんか?」
「拙者の力になれることであれば、喜んでやらせてもらうでござる」
そうにこやかに返事しながら心中では、
(ここは将来の再就職の為にも柴進殿の好感度を稼ぐでござるよ!)
そんな非常に俗なことを考えていた。
世間で好漢と呼ばれる男が、内面まで好漢というわけではない。好漢だって人並に欲望はあるのだ。
「実は我が家で世話をしている食客の一人が、とんでもない酒乱でしてね。酒を飲んではたびたび乱闘騒ぎを起こしているのですよ。周りの者も男の腕っぷしの強さを恐れてなにも言えない有様でして」
「そんなに困ってるなら、屋敷から叩き出したらいいんじゃないでござるか?」
楊志は手っ取り早い解決方法を言った。
どれだけ腕っぷしが強かろうが食客は食客。この屋敷の主である柴進が『出ていけ』と言えば、そうするしかないはずだ。それでも断れば柴進の力をもってすれば、役所を動かしてその乱暴者を逮捕することもできるだろう。
「楊志殿。当家にはざっと百人は武芸を極めたという師範が客としております。分かりますか? その上で誰一人として男に物申すことができないのですよ」
柴進の言わんとすることを楊志は即座に理解した。
「なるほど。それほどの強さということでござるか」
「はい。燕人・張飛に代表されるように、豪傑は酒豪が多いもの。彼もそういう類なんです」
三国時代の張飛といえばこの時代においても知らぬ者はいない英雄だ。義兄の劉備に従って鮮烈に駆け抜けた生涯は、多くの武人の憧れであろう。特に庶民の間での人気は、劉備や関羽にすら勝るといっていい。
「『張飛』とは大きく出たでござるなぁ。当代の張飛といえば豹子頭・林冲でござるが、その乱暴者というのはそれほどの男なのでござるか?」
楊志はかつて戦ったこともある、宋国中に名の知れた武人の名前をあげる。
林冲の渾名である『豹子頭』は張飛の外見描写である『豹頭環眼 燕頷虎鬚』からとられたものだ。林冲は男前な美男で、虎髭の張飛とは似ても似つかない外見であるが、蛇矛を巧みに操る技量は張飛にも決して劣りはしないだろう。
「はい。今は職ももたない身ですが、もし運が味方すれば張飛にも劣らぬ功をたてられる器。私はそのように見ております」
「柴進殿にそこまで言わせるでござるか」
「ええ……少なくとも百人の武芸者の面子のために、あの男を追い出すのは割に合わないことです。千軍は得易きも、一将は求め難しというやつです」
柴進は客を好む性格ではあるが、客にも格というものがある。
知恵者であればより聡い者、料理人であればより美味い料理を作れる者、そして武芸者であればより強い者こそを柴進は愛する。
人格も考慮はするが、やはり一番重視するのは能力だ。
行儀のいい武芸者百人よりも、酒乱で乱暴者だが百人の武芸者が束になっても敵わぬ男こそ、柴進は大事にするのである。
「とはいえ我が家の客人の方々全てに、心穏やかに過ごしていただきたいというのが私の理想です。張飛一人を繋ぎとめることに固執して、将来の諸葛孔明になりうる人間を逃しては本末転倒。なので……」
「分かったでござる。要するにその酔っ払いの根性を叩き直してやりゃいいんでござろう! お安い御用でござるよ!」
強い者に言うことを聞かせる手っ取り早い方法は、より強い力で叩きのめすことである。
楊志は人格こそ腐っていたが、武の腕前は腐っていなかった。
相手が張飛の如き武勇の持ち主だろうと、それこそ蘇った本物の張飛だろうと負けるつもりは毛頭なかった。
「ありがとうございます! あの青面獣・楊志殿であればきっと彼の心を動かせるでしょう」
「大船に乗ったつもりでいるでござるよ!」
「ええ、お任せいたします!」
楊志は準備運動もかねて首を回しながら、乱暴者がいるという部屋へ向かおうとして、ふと思い出したように足を止めた。肝心なことを聞き忘れていたのである。
「そういえば柴進殿。その酔っ払いの名はなんというのでござるか?」
「ああ。僕としたことがお伝えするのを忘れていました。彼の名は――――」
武松、と。柴進は言った。
これが天傷星の生まれ変わりたる武松と、楊志の出会いであった。




