第17話 林冲、死闘を演じる
張青と孫二娘に書いてもらった地図を頼りに旅すること数日。
食料と水が尽きようかというところで、漸く宋家村に辿り着いた。残りの食糧は半日分。本当にぎりぎりの到着であった。
「しかしあれが宋家村……村か、あれが?」
視線の先に広がるのは村というより、一つの立派な都市であった。
都の開封府と比べれば劣るが、そこいらの地方都市よりずっと栄えている。
「及時雨・宋江はまったくの無勉強で科挙に合格したとかいう天才と聞く。きっと彼がその手腕で村を発展させたんだろう」
「だからって発展しすぎだろう。あれだけ発展してなんでまだ村なんだよ」
「税金対策じゃないか? 村と都市じゃかかる税金は雲泥の差だからな」
国を運営するためには税金は絶対に必要なものであるが、税金を払いたいと思って払う人間はいない。ましてや国が税金をどういうふうに浪費しているのかを知っている者であれば、払うのが馬鹿馬鹿しくなるだろう。
なので李忠の言っていることは納得できることではあるのだ。だが林冲には宋江ほどの人物が、税金対策なんてつまらないことだけ考えているとは思えなかった。
(恐らくはこれも、きたるべき決起のための備えなんだろうな)
そう考えた林冲だが大外れである。
宋江が宋家村を方々に賄賂を贈って村に留めているのは、単なる税金対策以上のなにものでもない。ただそう思っているのは宋江だけだった。
「師匠! どうせなら保正代行の宋清とやらのところに行く前に居酒屋でも寄ろう! もう一週間も酒を飲んでなくて、喉がカラカラだ!」
「しょうがねえな。あれくらいの規模の街……もとい村の居酒屋なら孫二娘のとこのような物騒なこともねえだろうし、寄ってみるか。そういえば俺もここ最近ずっと飲んでねえし」
嘆息しつつも、林冲も顔をにやけさせる。豪傑だけあって林冲自身かなりの酒豪である。胃袋が酒を欲していた。
そして林冲が李忠の提案に頷いた――――その時。
「そこの男、待て」
顔に青痣のある剣士が、林冲たちの行く手を遮った。
豪傑は豪傑を見抜く。林冲は一目でその剣士が達人の域にあると理解した。
「なんだ、テメエは?」
蛇矛を握り、いつでも迎撃できるようにする。
僅かな油断すら見せてはいけない。この剣士相手に隙を見せれば、その瞬間に自分の首が落ちる。
「名乗る必要はない。それよりその容貌、手配書とまったく同じ。元禁軍槍術師範の林冲だな」
「役人か?」
「今はただの賞金稼ぎでござるよ」
「そうか今は、か」
腰の剣は貴族だって持っていないような国宝級の代物であるし、足の指先から頭の天辺まで武術が染み込んでいる。
大方名門武家の御曹司がなんらかの事情で浪人となっているのだろう。その事情のほうはさっぱりだが。
「お前には7000貫の賞金がかけられている。拙者の当面の旅費のためにその首級をもらう」
「7000貫だと!?」
李忠が絶句した。1貫は1100年後の日本では8300円に相当する価値がある。つまり7000貫というのは日本円にして5810万円の大金ということなのだ。
一生遊んでは無理だが、質素に暮らせばぎりぎり一生は保つ額である。
「いくら7000貫の賞金首だろうと、俺が豹子頭と知って一人で襲ってくるとはな。相当の馬鹿か余程の腕利きか」
恐らくは後者、或いは両方だろうと林冲は見ていた。
腕利き賞金稼ぎだとしても、普通ならわざわざ真正面から名乗りをあげてから襲わない。物陰から無言で襲い掛かって首をばっさりだ。故に馬鹿だろう。
「お前の首級をとれば金も得られるし、拙者の目的にも有利に働く。そちらの事情は知らぬが覚悟してもらう」
「そりゃお相子だ。俺もテメエの事情なんて知ったこっちゃねえからな!」
「相手が名高き豹子頭であれば我が家に伝わる吹毛剣を抜くことに迷いはない。ゆくぞ!」
蛇矛を持つ武人と、宝剣を持つ剣士。
共に武の頂点に立つ豪傑が蒼天の下で激突した。
先手を制したのは剣士。地面を砕くほどの踏み込みで一気に間合いに飛び込むと、目にもとまらぬ速さで剣を一閃。林冲の左肩を斬った。
「ちっ、やるじゃねえか! だがお陰で気合が入ったぜ!」
傷は浅い。蛇矛を振るうのに支障はなかった。
しかし離れていた李忠にはそう見えなかったらしい。師匠と崇める林冲が斬られたことに狼狽していた。
「師匠と互角以上に戦うなんて、そんな化物がこの国に存在していたのか!? ええぃ、師匠! こうなれば二人がかりで――」
「一騎打ちだ! 手ぇ出すんじゃねえ!」
李忠の助力を強い言葉で拒絶する林冲。
剣士は林冲の清い態度に、犯罪者に落ちぶれたことに複雑な事情があることを察する。だが剣士は林冲が自分と互角の実力で、ほんの少しの加減が命取りになることを弁えていたので、決して手を緩めることはなかった。肩の皮を斬った必殺の剣閃が今度は首を狙う。
「見切った! 二度も喰らうかよ!」
「ならば二撃目はどうでござるか!」
「だから見切ったつってんだろうが!」
剣士の必殺を二連続で回避する林冲。今度は林冲の蛇矛が剣士の横腹を掠めた。
これで互いに傷の程度は互角。
視線が交差した。
(これで五分と五分。次で決着といこうや)
(この一太刀に全霊を注ぐ――――勝負!)
言葉にせずとも、剣を交えた武人同士で以心伝心する。
そして蛇矛と宝剣が最後の交錯をした。
両雄の戦い……僅かに上回ったのは剣士のほうであった。
宝剣に弾き飛ばされた蛇矛がくるくると地面に突き刺さり、剣士が丸腰の林冲に剣の切っ先を向ける。
「敗れたか」
「技量そのものは僅かにそちらが上だった。だが勝負の世界、技量に勝るものが勝つのではない。こういうこともある。さあ――――」
そして林冲の首を刎ねようとする剣士だが、そこではたと気づいた。
「…………」
「…………」
視線があるのだ。それも林冲の弟子である李忠と、物陰からこちらを窺う金持ちそうな男の合わせて二つ。
期待するような、咎めるような無言のプレッシャーが剣士にのしかかる。
『恨みっこなしのいい勝負だった』
『こんな素晴らしい武人の命を、たかが7000貫ぽっちのために奪うのか』
目は口程に物を言う。二人は剣士にそう圧をかけてきていた。
(このまま役所に首もってって7000貫ゲットでうはうは生活を想像してたのに、なにやら『死なすには惜しい』とか言って、見逃す空気になってるでござるよ。解せぬ)
剣士は高速で頭の中で算盤をはじく。この場で林冲を殺すのは簡単だ。林冲も見っとも無く抵抗などしないだろう。李忠は抵抗するかもしれないが、敵ではない。問題は物陰でこちらを伺う金持ちそうな男だ。ここで林冲を斬れば、あの金持ちの反感を買うのは間違いない。
「あー、7000貫は惜しいけど……本当に惜しいけど、死なすには惜しいし武人の諧謔でここは見逃すでござる」
剣士は金持ちに屈した。
「おおっ! さすがは俺の師匠を倒したほどの武人! なんという器の大きさだ!」
李忠がここぞとばかりに剣士をよいしょする。
「まさにその通り! 途中から戦いを見守らせていただいたこの私も感服した!」
そして物陰にいた金持ちも飛び出してきて、李忠と一緒になって剣士をよいしょした。
魂胆が見え見えではあったが剣士も人の子。おだてられて悪い気はしない。
「いやぁ、それほどでもないでござるよ。ところでそっちの自称・豹子頭の弟子はともかくそちらは誰でござるか?」
「失礼。私は宋家村の保正代行をしている宋清というもの。貴方は……恐れながらその青痣に並外れた剣の腕。青面獣・楊志殿とお見受けしましたが如何に?」
「なにぃ!? 楊志というと宋王朝の名将、楊無敵と称えられた楊業の末裔だとかいうあの青面獣・楊志か!」
別に隠すことでもなかったので剣士――――楊志はあっさり頷いた。そして金持ちの正体に、楊志は自分の判断が正しかったことを確認した。
はぁと溜息が零れた。零したのは林冲。
「合点がいったよ。道理で強ぇはずだ。まさか相手があの青面獣だったとはな。顔に青痣がある時点で気付くべきだったよ。
だが楊家の楊志といえば若くして武挙に合格した俊英ときくが、なんで賞金稼ぎに?」
「実は拙者、花石綱運搬の監督を命じられたんでござるが、嵐やなんやで任務失敗して、責任とるのが嫌だったから逃げたんでござる。
それからは賞金稼ぎとして全国をふらふらして過ごしていたんでござるが、最近大赦が出たんで復職のため都に戻ろうかとな。賞金稼ぎより公務員のほうが安定してて楽でござるし」
「そこは不当な任務に反抗したとかいう理由であって欲しかった」
楊志の話を聞いていた全員の思いを李忠が代弁する。
林冲は自分がこんな素っ頓狂に負けたことに項垂れた。
「そんで再就職活動の軍資金(賄賂)として、最後に7000貫のデカいヤマをやろうとしたんでござるが、拙者も武人。一度見逃すと言った以上は見逃すでござるよ」
天は血筋に相応しい才能を与えても、相応しい人格のほうは与えなかったのだな。宋清は特に恥じる様子もなく恥を語る楊志を見ながらそう思った。
だが天下を伺う兄(と宋清は思っている)のため楊志の実力と名声は有用であると宋清は判断する。宋清は楊志に恩を売っておくことにした。
「楊志殿。これもなにかの縁です。当家より良い一騎打ちの見物料と、今後の友好のため7000貫……いいえ8000貫ほど用意いたしましょう」
「マジでござるか!?」
「冗談でこのようなことは申しませんよ。そのかわりとは申しませぬが、実は林冲殿は我が宋家村の客人でして。くれぐれもこのことは内密に」
「そんなものお安い御用でござる! 林冲のことは誰にも言わん。我が先祖たる楊業様とこの吹毛剣に誓うでござるよ!」
林冲を襲ったのはあくまで金目的の楊志。懸賞金より多い額が貰えるなら、林冲の首をとる理由はどこにもなかった。
踊りだしながら宋清から8000貫分の金を貰う。そんな楊志に呆れながら林冲は口を開く。
「おい楊志。見逃してくれた礼に一つ忠告だ。都に戻るなら高球の野郎に気を付けることだ。奴は吐き気を催す下衆野郎で狡猾な男。背中を見せれば刺されるぞ」
「…………覚えておこう」
こうして林冲と李忠は宋清と共に宋家村へ行き、二人はそこで客分として迎えられた。
そして都から宋家村にきた林冲と入れ替わるように、楊志は都へと戻っていった。
楊志は早速8000貫を使い、自らの再就職活動を行ったのだが、
「は? 任務失敗して責任とらず逃げたけど大赦が出たから元の地位に復職させてくれって? んな都合の良い話があるはずねえだろ。お前以外の八人の監督は普通に出頭したんだぞ。大赦ってのはお前のように逃げ出した奴じゃなくて、そいつらのような奴らのためにあるんだよ。大赦があるから罪は問わねえが、再就職も認めねえ。さっさと消えな」
「なっ! これが背中から刺されるということか! おのれ高球!」
下衆の一生に一度くらいのド正論により、あっさり楊志の再就職の道は絶たれた。




