第14話 宋江、道を示す
あれから林冲は丸一日間、部屋に閉じこもり泣き続けた。
林冲は決して心の弱い男ではない。だが彼にとって妻は特別だった、特別過ぎた。その死は彼の涙が枯れるほどの悲しみを与えるには十分すぎたのである。
宋江としては林冲の気のすむまで一人で泣かせてやりたいが、状況はそれを許さない。一刻も早く林冲をここから脱出させなければ、いずれ高球の手のものに見つかってしまうだろう。
「いざとなれば洗脳まがいの手を使ってでも林冲を逃がすぞ」
公孫勝はそう言った。冷酷さからの発言ではなく、林冲のことを思うからこそ悪役を買って出る覚悟だった。
「それは最後の手段にしましょう」
「そうだ。それに片づけなければならんのは林冲だけではないからな」
魯智深の視線の先にいたのは、ずっと黙り込んでいる陸謙。それと薬で眠らせてある高球の妻だった。
林冲には労りの目を向ける魯智深のそれは、二人に対しては氷より冷たい。
「私はともかくとして、宋江殿や公孫勝が林冲に協力していたことが、この男からばれるのは不味いだろう。
己の立身栄達のために友情を裏切った輩に、高球と一緒に民を苦しめる毒婦だ。生かしておく価値もない。この場で頭蓋を叩き割って犬にでも食わせてしまおう」
魯智深の言うことは過激であるが一理あることだった。公孫勝は特に反対意見はないようで、宋江の意見を待つ。
「……気持ちはわかりますか、落ち着きなさい魯智深さん」
「宋江殿はこいつらを庇うのか?」
「いいえ。ですがこうして逃げも抵抗もせず大人しく着いてきたということは、彼にもなにか思うところがあるのでしょう。殺すのはいつでもできるんです。まずは彼の話を聞きましょう」
「と、宋江殿が仰せだ。陸謙、お前はなにを考えている?」
三人の目が陸謙へ注がれる。陸謙はなにも話したくなさそうだったが、二度三度ほど魯智深が殴りつけると観念したように話し始めた。
「林冲の妻に横恋慕していたのは、高球だけではないのですよ」
「おいまさか貴様……」
公孫勝が絶句するが、宋江や魯智深も同じ気持ちだった。
ちらちらと竈門の火が揺らめく中、陸謙はぽつぽつと話す。
「もう観念しますが、私は林冲の奥方に恋い焦がれておりました。初めてあの人に会ったのは、林冲の家に呑みに行った時です。
一目見て私は稲妻に撃ち抜かれたような衝撃を受けました。一目ぼれだったのでしょう。
しかし林冲は友人であり、二人の夫婦仲は円満そのもの。恋のさや当て以前の問題でした。この思いは永久に胸に秘めていよう、そう思い定めていたのです」
それだけなら別によくある話だろう。誰を好きになるかなんて、自分自身にすらコントロールできないもの。
林冲ほどの男が入れ込む女なら、他の男が恋するのも仕方ないことであるし、手を出したりしなければ別に咎められることではない。
「しかし私の秘めた心が、私の上官である高球にばれてしまったのが全ての始まりでした」
高球は陸謙を自室に呼び出してこう告げたという。
『林冲の妻を街で見かけたが、お前が惚れるのも無理はないくらいの別嬪だった。あの女を抱いてみたい。奪ってこい』
それは下心だけではなく、腹心である陸謙の忠誠心を試すためのものでもあった。
親友の妻を奪う汚れを犯させることで、清廉であるという精神的逃げ場を失わせ、下種に落とすための策謀であった。
「まさか了承したのか!?」
信じられないものを見るように魯智深が陸謙を睨んだ。
「高球の命令に逆らえば、私は確実に殺されていた」
「なら殺されればいい! 友情と好きな女の両方を裏切って犬畜生のように生きるより、遥かに上等な生き様だったろうさ!」
自分であればそうした。例え肉体が引き裂かれようと、林冲のために命を懸けた。魯智深の険しい表情がそう叫んでいるようであった。
己と正反対の魯智深を前に、陸謙はただただ恥じ入り俯く。
「……その通りです。自分の命惜しさに全てを裏切った私に残ったのは後悔と惨めさだけ。私はもはや生きていることが罪深い」
話を聞き終わり宋江には陸謙の心中が分かってきた。その目的も。
「貴方、林冲さんに殺されるつもりですね」
陸謙は小さく頷く。
「彼女の命と比べれば取るに足らないものですが、私が彼に差し出せるのはもうこれしかありませんから」
「罪を償うと貴方は言いますが、本当にそうなんですか?」
「それ以外なにがあると」
「本当は罪悪感で生きていることが苦しいから、林冲に殺されて早く楽になりたいだけじゃないんですか?」
「――――っ!」
陸謙の顔が歪む。驚いて歪んだのではない。図星をつかれ、己の浅ましさを言葉で理解してしまったから歪んだのだ。
反論はなかった。それをしないだけの恥を知る心は陸謙にも残っていたのである。宋江は嘆息した。
「だいたい最愛の妻を失ったばかりの林冲に、今度は友人を斬る苦しみを味わわせるつもりですか?」
「そ、それは」
「お前を殺そうと思っていたが気が変わった」
いつでも陸謙の頭を潰せるよう持っていた錫杖を、魯智深は床に置く。殺意以上に厳しいものが視線に宿っていた。
「私たちはお前を殺してなんかやらないぞ。死にたければ人の手など借りず、一人で勝手に死ね。それでお前の罪の意識が消えてなくなるならばな」
死にたがっていた陸謙にとって、魯智深の宣告は死刑宣告以上に重いものだった。陸謙は絶望に打ちひしがれる。
「で、では教えてくれ! 死ぬ以外で私はどうやって林冲に償えばいいのだ……!」
「知るか。自分で考えろ」
破戒僧の魯智深は迷える男に解答を与えてやりはしなかった。冷然と突き放す。
もし陸謙が一角の人物であれば、苦しみのたうち回りながら自分の解答を出したかもしれない。だが陸謙はそうではなかった。
「私は弱いのです……自分の運命を自らで決められない、つまらない小人なのです。どうか……どうか恥を忍んでお願いいたします。私に償う道を、教えてください」
小人と陸謙が自称する通りなのだろう。
だが公孫勝は思う。世の民草の殆どは陸謙のような小人なのだ。誰もが宋江のように偉大にも、魯智深のように義侠心厚く生きられるわけではない。こういう人物は誰かが正道に導いてやらなければ永久にさ迷い続けるだろう。
「しょうがないですね」
宋江もそう悟ったようだ。答えの出せぬ小人に、答えを提示してやることにした。
「貴方はこのまま高球に腹心として仕え、私の間諜になってもらいます。私も今回のことで堪忍袋の緒が切れました。いずれ高球と戦う時のためにも、内通者の一人くらいは確保しておきたいですからね」
「分かりました」
陸謙は即答した。今の陸謙は宋江が死ねと言えば喜んで死ぬだろう。
「ったく当人のいねえ間に随分と話が進んでんな」
一日中閉じられていた扉が開き、頬の痩せた男が出てくる。林冲であった。
「林冲!? もう大丈夫なのか!」
魯智深が慌てるのも無理はない。
殺しても死なないような頑強な肉体をもっていた林冲が、今や病み上がりの病人めいた雰囲気を醸し出していた。
余りにも涙を流しすぎたからだろう。両方の目が真っ赤に充血してしまっている。これはもう元の色には戻らないかもしれない。
「大の男がいつまでも腐ってられねえだろ。死んだあいつが化けて出てぶん殴られっちまうよ。なにより俺は、死ぬ前に必ず高球の野郎だけは殺すと誓った。奴を殺すまでは、俺は絶対に死なん」
「林冲……」
魯智深は林冲に生きる気があってほっとしたやら、そこまで悲壮な決意を抱いたことに悲しいやらであった。
だが林冲がこうして部屋から出てきたのなら、善は急げである。まず公孫勝が口を開く。
「では早々で悪いが早くここを発ってくれ。ここいら一帯には俺が術で人払いをかけているが、それにも限界がある。いい加減動かないと不味い」
「このまま都へ戻って高球を殺すのは駄目か?」
「難しいでしょうね。高球はともかく彼を守る兵士は多いですし、仮に暗殺が成功したとしても、陛下は奴を暗殺に斃れた悲運の家臣として扱うでしょう。それは奴には余りにも分不相応。そうは思いませんか?」
「一理あるな」
どうせ殺すなら名誉も尊厳も全て奪い去ってから、天下の佞臣として殺してやりたい。
それが林冲たち全員が共通する思いであった。
「林冲さん。私の故郷の宋家村では3800人ほどの食客がいます。食客の一人としてそこに紛れてしまえば見つかりはしないでしょう。高球をどうにかする準備ができるまでは、そこに潜んでいてください。弟の清には私から手紙を書いておきます」
「了解した。宋江殿が行けという場所に俺は行こう」
宋家村と梁山泊、表と裏の両方で力を蓄えている宋江。そして自らは科挙官僚として中央に身を置く。やはり宋江が最終的に目指しているのは、天下だろう。となれば自分の役割は、宋家村での軍団長か。
宋江の内心にそう当たりをつけた林冲は覚悟を決めて頷いた。
「待て。最後にやらねばならぬことがある。高球の妻はどうするんだ?」
このまま解散というところで公孫勝が口をはさむ。
「……私からは何もありません。林冲さんのご自由に」
宋江に促され林冲は転がされている仇の妻をみた。
ここでこの女を縊り殺せば、妻の無念も少しは晴れるだろう。しかし自分が狙うのは、こんなつまらぬ女の命ではない。
「陸謙を間諜として高球の野郎のところに潜り込ませるんだったな。なら無事取り戻したって風にしたほうが都合が良いだろ」
「いいのか?」
「俺が欲しいのは高球の命だ。そいつを獲るためなら、奴の女や息子の命程度は見逃してやるさ」
「では高球の妻は公孫勝さんが術で記憶改竄するとして、魯智深さんはどうしますか?」
「私は梁山泊とかいう場所が気になるから、一度冷やかしに行ってみようと思う。宋江殿が影の首領を務める山塞なのだから、さぞ美味い酒があるのだろう」
「おいおい。冷やかすって観光でもするつもりなのか?」
「いえいえ。魯智深さんはそれでいいですよ」
苦言を呈そうとした公孫勝を宋江が遮る。こんな腐ったご時世だ。魯智深のような自由奔放でさっぱりした男が一人くらいいたほうがいい。
「では林冲さん。いずれ時がきたらまた会いましょう」
「ああ。いつかアンタの下で存分に槍を振るえる時を待ってるぜ」
こうして林冲は宋家村へ、魯智深は梁山泊へ。それぞれ出発した。
そして陸謙は高球の妻をどうにか取り戻したという風を装って、高球の屋敷へ帰還した。
「高太尉、ご命令通り奥方様を取り戻してまいりました」
「あそこまでやったら林冲の奴め。逆上して妻を殺すかと思ったが、所詮は腕っぷしだけの師範。太尉である俺の一族を害する度胸などないか。
はははははははははははははっ! 豹子頭も大したことがないな!」
高球が笑うと、つられて側近や側室たちも笑う。
ただ一人、陸謙だけが笑わなかった。
「どうした陸謙? なぜ笑わない」
「……申し訳ございません」
「あぁ、そういうことか。心配するんじゃねえよ。惚れた女と親友を売ってまで俺に尻尾振ったんだ。ちゃ~んと出世は約束してやるからよ。そのかわりこれからも俺のために色々働いてもらうぞ」
「ありがたき幸せにございます、高球様」
そうして陸謙は笑った。燃え上がる殺意を覆い隠すように、笑った。
その後、陸謙は高球第一の側近として大いに取り立てられることになる。




