第11話 林冲、筆をとる
公孫勝の屋敷に着くと開口一番に魯智深が関心したように口を開く。
「さすがは科挙第一位の屋敷だ。私が住んでいた小屋とは格が違うな」
「へんに質素な家に住んでも侮られるだけだからな。修行時代に住んでいた山での暮らしと比べると、ここは極楽だ。最初は山の暮らしが懐かしかったが、住めば都というやつだな。今は多少懐かしく思うがここでの暮らしのほうに馴染んでいる」
「魯智深さん、公孫勝さん。雑談は後にして、早く林冲の奥方を救出する方策を考えましょう。都は『乱心した林冲の捕縛』のため騒がしくなっていますし、できる限り早くに奥方を救出し、林冲さん達を脱出させなければここも見つかるかもしれません」
「本当にいいのか……? これは俺の問題でアンタたちには無関係なことなんだぜ」
林冲に対して宋江は『何を今更』と肩をすくめた。
ここまできて無関係を決め込むくらいなら、最初から見て見ぬふりをしている。
「私も高球には腹が立っていましてね。丁度意趣返しをしたいと思っていたのです。高球を思い知らせることができて、貴方という武人に恩も売れる。一石二鳥でしょう」
「…………ああ。その恩、俺の命で買わせてもらうぜ」
そして四人は作戦会議を始めた。口火を切ったのは魯智深。
「それでどうやって奥方を救出する? 私と林冲の二人なら兵士2000人くらいは殺せるが、いっそ夜襲でも仕掛けるか?」
魯智深がさらっととんでもないことを言った。
林冲の強さは先の大立ち回りで証明済み、魯智深のほうも林冲に匹敵する武力がある。単純な力押しは効率的なように思えた。
しかしこれに否定的な意見を出したのは、他ならぬ林冲だった。
「いや単純な力惜しで乗り込もうとした俺だから分かる。そいつは上手くいかねえよ。たしかに俺と魯智深なら二千は殺せるだろう。
だが派手に大立ち回りをしてりゃ、すぐに騒ぎを聞きつけた禁軍がかけつけるぜ。俺と魯智深でも流石に八十万禁軍を纏めて相手するのは不可能ってもんだ」
ついでにいえば禁軍の中には雑兵ばかりではなく、林冲には劣るものの名のある武人が百人以上いる。
勝ち目がある戦ではない。
「それに高球が林冲の妻を人質に降伏を迫れば、そこでもう何もできなくなって終わりだぞ。力押しではなく策を考えるべきだ」
公孫勝の意見に皆が頷く。
林冲など実際に妻が人質にされる場面を想像したのか、苦々しい表情をしていた。
「ではこういうのをどうでしょう。目には目を、人質には人質です! 高球の妻を誘拐しましょう!」
「誘拐だと!?」
宋江の好漢らしからぬとんでもない作戦に魯智深が仰天した。
「私たちの行動が制限されているのは、林冲の妻という玉が高球に握られているからなんですよ。ならば私たちが高球にとっての玉を抑えてしまえば、条件は互角です!」
自分と無関係な人間がどれだけ死んでも心を痛めない外道も、自分の肉親は大事なものだ。
それに高球の妻は夫に負けず劣らずの毒婦なので、誘拐しようと殺そうと心は痛まない。うってつけであった。
「これも妻を助けるためだ。宋江殿、その人質の指を詰める必要があれば、俺がやろう」
「ええ。お任せしますよ。高球本人や林冲の奥方はともかく、高球の嫁のほうは警護は薄いでしょう。公孫勝さん、お得意の道術で一つお願いします」
「任された」
屋敷を出て行った公孫勝は程なく縄で縛った高球の妻を連れてきた。
時間にして一刻の神業である。公孫勝が官僚ではなく誘拐犯になっていれば、世の中はとんでもないことになっていただろう。
「私をこんなところに連れてきてどうするつもり? 高大尉の妻の私をこんな目にあわせて、ただで済むとは思わないことね!」
流石はあの高球の妻。誘拐され縛られているにもかかわらず大した鼻っ面だった。
常日頃なら彼女がそう凄めば万人が平伏すのだろうが、ここにはそれに従う者は一人もいない。
林冲が剣を突き付けると、高球の妻が小さく悲鳴をあげた。
「お前が無事に帰れるかは高球次第だな。もしあいつが妻に危害を加えていたなら、同じ痛みをお前に味わってもらう。死んでいたら、その時はお前の首も落ちる。
それが嫌なら高球の下衆野郎に一欠片の良心があることを祈るんだな」
初めて受ける本物の殺意に、高球の妻の鼻っ面はあっさりへし折られた。
恐怖で失禁しながら首を凄い勢いで縦に振る。
「あとは高球にこのことを伝えるだけですね」
「おう。じゃあ文章は俺が書こう」
林冲は筆をとると、人質交換を要求する手紙を書き始めた。
これで妻を助けられる。そういう期待からか林冲の表情には希望の色が戻り始めていた。